Sun Set Days
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2001年11月17日(土) Drive,Drive,Drive

 助手席に乗っていると、運転しているときよりもスピードが増して感じられることが多い。
 やけに短い車間距離も、急な針路変更も、すべてが(自分で運転している)ドライバーと違ってふいの出来事として目の前に現れるから、いちいち驚いてしまうのだ。
 まあそれは、車に乗せてくれる人たちにスピードを出す人たちが多いせいかもしれない。
 でも、それでも、助手席に乗るのはとても魅力的だ。
 何よりも風景を見ることができるわけだし。

 今朝も午前6時くらいに、人の車の助手席に座っていたのだけれど、まだ薄暗い青のなかの国道からは、まだ完全には起ききってはいない街の姿が見えていた。初冬の曇り空の下では、信号の赤がそこだけ鮮やかな色を発しているように見えて、軌跡を描くように続いている街灯も心細そうに微かな光を発している。
 車内は暖房が効いているからそれなりには暖かいのだけれど、窓の外はとても寒そうに見える(実際車を降りたらとても寒かった)。
 朝早くの街はまだ半分くらいしか動きはじめていないような気がすることが多くて、いつも行くコンビニの店員がまだ深夜帯のアルバイトのままであるときには、本当の意味ではまだ朝にはなりきっていないのだなと思う。

 コンビニでコーヒーを買った。
 路地のずっと先、東側の空が、重い雲間に光を含み始めているのが見えた。
 最近、思わず立ち止まってしまうような光景を見るときに、つい「デジタルカメラを持っていればよかった」と思ってしまうのは、ちょっと複雑な心境だったりするのだけれど。


――――――――――

 今日はドライブの話。
 記憶に残っているドライブは幾つかあるのだけれど、もしかしたら忘れてしまうかもしれないから、記録に残しておこう。
 今回は、仲の良い先輩(男)と行った、鎌倉、江ノ島へのドライブを。


 もう3年くらい前に、当時千葉市に住んでいた僕は、先輩と一緒に神奈川にドライブに行くことにした。
 神奈川の以前働いていた店舗の同僚に会いに行くことにしたのだった。
 そしてどうせなら、鎌倉にも寄って行きましょうということを僕が提案して(まだ訪れたことがなかったのでぜひ行ってみたかったのだ)、それでなぜか午前3時なんていうクレイジーな時間の出発になった。僕が車を出して、先輩を拾う。待ち合わせ場所では、眠たそうにあくびを噛みころしている先輩がいた(「ねむい」)。そしてインターの入り口の手前にあるコンビニで飲み物とお菓子を買って、高速に入り、神奈川に向けて出発した。
 もちろん、街はまだ夜のなかで眠っていた。

 深夜の高速道路にはトラックの姿が多い。
 けれども、普通の乗用車なんかもそれほど数は多くはないにしてもやっぱりちゃんと走っていて、いったいどんな人が運転しているのだろうとときどき思う。高速を走っているただの同じような車のひとつなんだけれど、その一台一台にはそれぞれの人生があり、それぞれのエピソードがあるのだ。もちろんいつもそんなことを考えてしまうと手に余ってしまうのだけれど、たまにそのことがすごいなと思う。
 それは高速の途中から立ち並ぶマンションや団地の林を眺めるときにもよく思うことなのだけれど。
 マンションや団地の中にはものすごい数の人たちが暮らしていて、それぞれにやっぱり僕らと同じように人生があり感情があり出来事がある。はかりしれない。

 基本的には空いているので、高速ではスピードを出して走っていくことができた。
 お気に入りのCDもそれなりの音量で鳴らして(音楽は、ドライブに欠かすことのできないものだ。音楽のないドライブは、マーガリンやジャムのない食パンみたいだ)。
 葛西を超え湾岸線に入り、お台場を通り過ぎていく。
 自分で運転をしているときには(とりわけ高速に乗っているときには)、風景を見ている余裕はあんまりない。
 ぼんやりなんかしていられないのだ。

 途中で、横浜のレインボーブリッジのサービス・エリアに車を停め、休憩をした。
 そこにはまだ午前6時にもなっていないというのに、夥しい数の車が集まっており、多くの人たちがいた。
 サービス・エリアって、それがどこのものであっても、心優しくなる場所のような気がする。江國さんも確かサービス・エリアのことをエッセイで書いていた(タクシーで乗りつけていくって)。
 そのサービス・エリアは排気音と海風の音と、橋の照明が一種独特の雰囲気を醸し出していて、階段を上っていく展望スペースに行くと、さらに風が強く吹き付けていた。ばさばさって、思わず目をぎゅうととじてしまうような。

 いつも自分がいる時間や場所から離れてみることはたまに絶対に必要なことだと思う。
 もちろんそれがなくても日々を過ごしたりやり過ごしていくことはできるけれど。
 そういう時間や瞬間に身を置くと、ああ、心身ともにこういうことを求めていたんだって、やけに切実に気付かされてしまう。

 いつも同じ場所で同じようなことをしていると、自分でも気がつかないうちに身体や心のどこかが乾いて、それが余裕をなくしていくことに繋がっていくような気がする。もちろん、世の中にはそういうものがなくてもちゃんといられる人もたくさんいるとは思うけれど、個人的にはそういう「日常ではない何か」が必要なんだなと思ってしまう。
 だから僕はそのちょっとしたバージョンとして日々のなかに散歩を組み込んでいるのだろうし、たまにちゃんとしたバージョンとしてドライブや旅行に行きたくなってしまうのだ(出張でも代用できるのでそれは仕事に感謝していることではあるのだけれど)。


(感傷的になって見せるのもきっとそうだ。日常を違う角度から眺めることでもあるわけだから。日々は現実的な視点で生きているけれど、たまに感傷的な視点で生きてみるのもバランスをとるためにはちょうどよいような気がする)


 サービス・エリアで先輩に運転を代わってもらった。
 2歳年上の、男の、仲の良い先輩。いまは転職して違う会社に勤めているけれど、相変わらず仲がよい(実際にはそんなに頻繁に会えなくても、久しぶりに会うと期間があいていたとは思えないように接することができるという意味で)。人間的に、ものすごく信頼のおける人で、もちろん本人にはそんなふうに言わないけれど、ずっと連絡を取り続けていきたいなと思っている。僕はなかなか人に気を許せないようなところがあるので、そういう人って珍しいし、そういう人がいてよかったと思う。男女関係なしに。

 そして、高速を降りて、鎌倉へ。
 はじめてだったので、すごく面白かった。
 そこは、訪れた時間のせいか、そのときの心持のせいか、あるいは実際にそうなのか、静かで穏やかな美しい町のように見えた。
 車を停めて、駅前で朝食をとったり、「ひよこだ。ひよこ!」とうかれたり(お菓子のひよこの本店があるのだ)、おそろいの制服を着て歩いている小学生たちとすれ違ったり、お寺を見て回ったりして、数時間を鎌倉で過ごした。まだ営業時間には早かったけれど、空いていたらぜひ入ってみたかったようなお店もたくさんあった。
 もっとたくさん見て回りたいところはあったのだけれど、そのうちゆっくりと来ようと思って次の目的地に移ることにした。

 次の目的地は江ノ島。
 江ノ島に行く途中、海岸沿いの道路を走るのだけれど、午前中の海岸道路は、ものすごく気持ちが良かった。
 その日が晴れていたこともあって、空は青いし海も碧で、目を開けているのが眩しい感じで。
 海とは反対側には鉄道が走っていて、海岸道路のすぐ隣に、ものすごく感じのよい小ぢんまりとした駅が幾つかあって。
 絵になる光景だなと思った。

 そして江ノ島の駐車場に着いて、先輩は僕が初めてだということで岩屋に案内してくれる。
 岩屋というのは江ノ島にある海触洞窟だ。
 つまり、波によって少しずつ削られ掘られながら出来上がっていった洞窟。
 現在は、その洞窟内を見て歩けるように通路なんかがちゃんとある。
 霊場でもある。

 観光客みたいだと言いながら、岩屋をめぐった。もちろん、ひんやりとした。洞窟とか鍾乳洞に行くと、人は暗闇や閉じ篭もる場所が必要なんだろうなということについて、少しだけ考えさせられる。そして自然が偶然かもしれなくても、そういう場所を用意してくれるのはすごいとなんとなく思う。どこまでが偶然でどこからが必然なのかはその人がどこで線を引くかの違いでしかないのだけれど、それでも自然の手の平でいろいろやっているだけなのだろうなと畏怖心のようなものはどこかではやっぱり持っている。

 岩屋への行き帰りの途中にある細い散歩道のようなところは、歩いていて気持ちがよかった。
 サザンオールスターズの歌は流れてはいなかったけれど(当たり前か)、それでも高台から砂浜の方を見たりすると、夏にはたくさんの人で賑わうのだろうなとは思った。平日の午前中だったせいもあって、やけに静寂な雰囲気でもあったし。途中、古い椅子がたくさん置かれている場所があって、その光景がどうしてか忘れられない。

 江ノ島を出てからは同僚の部屋を目指し、一緒にご飯を食べたりして夕方くらいに再び千葉に向けて出発した。
 帰りは首都高経由で帰ったので、渋滞に巻き込まれた。都内は、いつもいつも渋滞をしている。それはもう致命的に染み付いてしまって離れることのない影のように、都内の属性のひとつになってしまっているのだから。

 そういうドライブだった。
 出発時間が深夜だったことと、鎌倉と江ノ島がよい雰囲気のところだったこともあって、個人的には印象に残っている。
 先輩ともいろいろとバカ話をしたし(僕はよくこの先輩に「やれやれだよ」と呆れられる)。


 いままでの、数え切れないくらいのドライブ。
 それぞれの人にとって、思い出に残るドライブってたくさんあるのだろうなって(子供時代からさかのぼってずっと)当たり前のことなんだけれどやっぱりそう思う。

 ドライブの楽しさについては、そのうちおいおい書いていくこともあるのかもしれないけれど。


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