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2001年12月21日(金) 『世界がもし100人の村だったら』

 少し読み進めて、やばいかもしれないって思う文章がある。
 それは大抵の場合、抑制が効いていることが多い。
 丁寧な文章であったり、形式をちゃんともっている文章なのだけれど、その背後では、いまにも圧倒的な何か(たとえば祈り)が溢れ出ようとしているような、そんな文章。
 あっさりとはじまり、淡々と進むように思えるのに、それを読んでいる自分の側に、確実にざわざわした何かがたまり始める。
 そして、たまりはじめたそれは、ざわざわと――あるいはたぷんたぷんと――揺れる。
 溢れ出してしまうかもしれないって思い、耐えることができたかもしれないという一瞬を越えて、気がつくと一気にやられてしまう。

 そういう文章がある。

 それは、たとえばこういう文章だ。

 中学校に通う長女の担任は
 生徒たちに、毎日メールで
 学級通信を送ってくださる
 すてきな先生です。
 そのなかに、とても
 感動したメールがあったので
 みなさんにも送ります。
 少し長くてごめんなさい。

 今朝、目が覚めたとき
 あなたは今日という日にわくわくしましたか?
 今夜、眠るとき
 あなたは今日という日にとっくりと
 満足できそうですか?
 今いるところが、こよなく大切だと思いますか?

 すぐに「はい、もちろん」と
 いえなかったあなたに
 このメールを贈ります。
 これを読んだら
 まわりがすこし違って見えるかもしれません。

(最初の2ページを引用)

 これは、『世界がもし100人の村だったら』(池田香代子 再話 C.ダグラス・ラミス 対訳、マガジンハウス)という薄い本の書き出しだ。
 この後、本書はこう続いていく。

 世界には63億人の
 人がいますが
 もしもそれを
 100人の村に縮めると
 どうなるのでしょう。
 100人のうち

 52人が女性です
 48人が男性です

 30人が子どもで
 70人が大人です
 そのうち7人がお年寄りです

(その後の3ページを引用)

 そして、こんな調子で異性愛者と同性愛者や人種の違い、あるいは住んでいる地域、信教、言語、貧困、紛争などについて、100人のうちの割合を人数で示しながらこの本は続いていく。世界を100人の村に縮めてしまう試みは、そのわかりやすさと、直裁的なメッセージ性において、非常に強いインパクトを持っている。
 とりわけ貧困や紛争について、具体的に示される数には驚かされる。そういう現状や状況を事実として見聞きしていても、数字で示される現実感はやはり大きい。
 最後には、そういった数字が繰り返された後の最後に3ページに書かれている文章の、ある種の重みや祈りのようなものが、どうしようもないくらいに響いてくる。
 とりわけ、最後から3ページ目にやられてしまった。
 ここには記さないけれど、こういう文章を書くことができる――つまり、そういうことを考えている人というのは、本当に尊敬してしまう。
 メッセージを伝える手法にはいろいろあって、比喩やたとえはそういうときにきっと大きな力を発揮することが多い。
 世界を――地球を、ひとつの小さな村にたとえる。
 そうしてみることで、デフォルメされることで見えてくることもきっとあるのだと思わされた。

 この短い物語は、元々がインターネットの世界を駆け巡った差出人不明のEメールだったそうだ。
 それを読んで感動した人が、何かを付け加えたり、削除したりしながら、メールは形を変えてネットの海を漂い続けた。
 また、巻末には、この「インターネット・フォークロア”ネット・ロア”は、グロバール時代の民話である」とし、その民話の出所や変遷について解説している文章が掲載されている。
 もちろん、そういうものも興味深くはあるけれど、個人的にはやっぱりこの内容自体に関心を持ってしまう。
 願いや祈りのようなものが込められている文章の力は強いと、当たり前のことなのかもしれないけれど、改めて思わされた。


―――――――――

 お知らせ

 本当に薄い本なのに、ちからづよいのです。


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