Sun Set Days
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| 2002年01月05日(土) |
記憶の海+『チェーンストア経営の目的と現状』 |
日本には一体いくつの町があるのだろう? もちろん、そんなことは統計を見ればすぐにわかることだ。日本にある市町村数とか、いくらでもあるだろうし。 たとえば、少しふざけた言い方をするのなら、世界にはきっと「統計小人」という種族がいて、昼も夜も様々な統計を取り続けているって想像してみる。小さな工房のような建物のなかで、あるいは古の図書館のような建物の中で。 だから、困ったときには小人たちに訊けばいいのだ。そうしたら、書庫の中から、目的の統計を探し出してきてくれる。 そういうのはいいかもしれない(小人のイメージは個人的に好きなのだ。前にもラーメンで使ったし)。 話がずれてしまった。 話がずれてしまうことに関しては、もうちょっとしたものだ(自慢にならないけど)。 いずれにしても、その数を知ることは比較的簡単にできるはずだけれど、それは事実ではあってもどこかではただの数字でしかなかったりする。 ここで話題にしたいのは、実際に自分で訪れることのできる街や町って、いくつくらいになるのだろう? っていうことだ。 人生は一度きりだというのは当たり前の話。 そして、その人生で一体いくつの町を訪れることになるのだろうって考える。 たくさん訪れる方がいいのか、同じ場所でずっと日々を重ねていく方がいいのか、そんなことはもちろん一概には言えない。 人によっても、環境によっても、年齢によっても違ってくるだろうし。 でも、実際に幾つかの町を通り抜けてきたなかで個人的に思うのは、たくさんの町の記憶が自分の中に蓄積されていくことはきっとマイナスにはならないということだ。 それはもちろん旅行でいいし、実際に住んでいたということでもいい。あるいはA地点まで向かう旅の途中で、昼食をとるために立ち寄ったということだけでもいい。 そういう点や、あるいは短かったり長かったりする線が、自分の中に蓄積されていくということ。 その線はまるで雨や日差しのように、記憶の海のようなものがあるとしたら、そこに向かって降り注いでいく。 そういうのをイメージしてみる。
凍てつく冬の鉛色の空の下にある、暗い碧色の海。 うだるような真夏の、ピーカンで太陽も輝いている透明な海。
どういった海でもいいのだけれど、記憶がそこにプランクトンみたいに溶け込んでいるということ。 常に思い出せなくても、ある瞬間に鮮明に蘇る記憶としてストックされていること。
そういうのはとても貴重なことだと思う。 たとえば、これは「何それ?」と言われてしまうことかもしれないけれど、ものすごく疲れてしまったりしたときに、そういういままで自分が訪れたすべての街や町が、いま等しく同じ空の下にあるのだと考えてみたりするのだ。あの地方都市も、海辺の町も、昔住んでいた町も、ただ通り過ぎただけの街も、とにかくそういうすべての記憶の中にある町が、たとえば同じ月に照らされているとか、同じ雨に打たれているとか、同じ永い夜のなかにあるとか、そういうことを想像してみるのだ。 あるいは、そのたくさんの記憶の中の、ある町をひとつだけ選んでイメージしてもいい。 その町のある交差点もいま、同じ月の下で静かな夜をむかえているって思い浮かべてみるのだ。時折ヘッドライトをつけた車が通り過ぎて行くって。 そうすると、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ楽になれる気がする。 気持ちがしん、と落ち着けるような気がするのだ。 世界は広い。 そういうことがわかるような気がするから。 もちろん、そんなのは気休めだと言う人がいるかもしれないし、ただの錯覚という人もいるかもしれない。 そして実際にそうだとも思う。 でも、気休めでいいし錯覚でいいし、そういうときには、気が楽になるのなら何でもいいんじゃないか? ともこれは結構頑固に思う。 「正しい気が楽になる方法」なんてものを、いちいちなぞってなんかいられない場所というものは絶対にあるはずだし(第一、そんな方法なんてあるのか?)。
ただほんのちょっとだけ、辛かったり落ち込んだりしたときに気持ちが楽になればいいのだ。 ただそれだけなのだ。 そしてそのために、たくさんの見知った町や街の記憶が少しは役に立つんじゃないかっていうこと。 星の数ほどあるはずの方法の中のひとつとして。
僕は海外の景色はほとんど知らないのでそういうときには使えないのだけれど、海外旅行にたくさん行っていたり住んでいた経験のある人は、海外の景色も利用できるわけだから、なおさら世界は広いって思えるんじゃないかとも思う。
繰り返すと、
しん、と気持ちが落ち着けるようなイメージを描いてみること。 実際に訪れたことのある場所の、いまこの瞬間の時間を想像してみること。 ビルの屋上に設置されたお天気カメラのように、心の中で定点観測をしてみること。
子供じみた考えかもしれなくても、そういうのが役に立つときもあるかもしれないとは思うのだ。ときどき。
……でも、そういうのって本当はどうしようもないただの気休めでしかなくて、本当に疲れている人にとっては何を言っているんだと思われるようなことなのかもしれないとも思う。 僕はそういう本当に疲れてしまうような地点までいったことがなくて、本当の疲れというものがどういうものかなんてことを全然わかってなんかいないのだと考えたりもするし、そう思うと情けなくなったりもする。 そして、そういうことを考え出すと、沈黙が続いてしまったりもするのだけれど。
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今日は仕事で有楽町の方に行く用事があり、用事が済んでから有楽町ソフマップに行ってきた。買ってくるように頼まれていたものがあったのだ。 別にパソコンショップであればどこでもよかったのでビックカメラでもよかったのだけれど、最近流通系の雑誌で有楽町ソフマップの記事を目にする機会が多かったので、どんなものなのだろうと実際に見に行く事にした。興味があったのだ。自分が小売業で働いているせいか、新しいお店やショッピング・センターを見るのは好きなのだ、すごく。 記事では、銀座や丸の内で働いている女性客の来店を促すような店舗を意識したというようなことが書かれていたのだけれど、確かに既存のターミナル型のパソコンショップの雑然さとは正反対の、天井が高く、ゆったりとしたスペースの売場が作られていた。 また、白が基調色となっていて清潔感があったり、高い天井近くの壁にはパステルカラーの文字で何の売場なのかを示す案内表示があったりと、遠目にもわかりやすかった。今日が土曜日だったとこともあって、店内も混み合っていたし。新鮮といえば、新鮮。
そして、その有楽町ソフマップは無印良品との複合出店でもある。建物自体は3F建てなのだけれど、その2〜3Fが無印良品になっているのだ。「無印良品有楽町」は東日本の旗艦店でもあり、無印のほとんどすべての商品が揃う大型店となっている。 無印に入ったのは久しぶりだったのだけれど、何でも扱っているのだなというのが改めての印象。たとえば、いまではベビーカーにスーツ、さらに液晶TVも冷蔵庫も扱っているのだ。価格的な部分で言うと衣料品なんかは微妙な感じがしたのだけれど(ユニクロより上、百貨店系よりは下)、それでもライフシーンを同じテイストで統一できるというのは好きな人にとってはとても魅力的なんじゃないかとは思う。衣食住に関わるほとんどすべての商品がそこにはあるわけだし(ちなみに、実験的に無印良品ブランドの建具や木材なんかも展示されていた。無印のパーツで家も作れてしまう?)。
さらに、もうひとつ実験されていたのが無印良品初のレストラン業態「Meal MUJI」だ(いままではCafeはあったけれど、レストランはなかった)。 ちょうど、1月4日付けの日経MJの記事にもあったのでそれを少し引用すると、
ミールムジは旬の野菜や海草、魚、豆腐、鶏肉などを素材にカロリーを計算したヘルシーな自然食を売り物にしている。 メニューは惣菜二十五種、パン類三十種。「鯖と蓮根の揚げサラダ」「山芋のガレットゴーヤ添え」「ルッコラの白和え」「ジャガイモの豆乳グラタン」などの惣菜から四品を選び、ご飯またはパンと組み合わせたセット(650円)が昼時の売れ筋だ。
となっている。 無印良品らしい展開のような気がする。ヘルシーな自然食のあたりが特に。 実際、僕が無印を見ていたのは15時過ぎくらいの時間だったのだけれど、それでもガラス張りの店内はかなり混み合っていた。普段は昼時になるとOLたちが行列をつくるとも記事には書かれていたのだけれど、それにも納得という混み具合。2年位前から、無印良品は食に力を入れはじめているように思うのだけれど、それがこういう形に派生しているのだなと思うとおもしろい。この有楽町店の好調な展開を受けて、大型店への導入や、ミールムジ単体での展開も視野に入れ始めているとのことだ。
そして、3Fには「マーサ・スチュワート」のショップも入っていた。 アメリカのカリスマ主婦が展開するホーム・ファッション(タオルとかベッドカバーとか、食器とか)のお店。カリスマ主婦ってすごい言葉だといつも思うのだけれど、アメリカでは「マーサ」ブランドは爆発的に支持されているとのことだ。
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有楽町ソフマップで光ファイバーのネット接続の体験をすることができるコーナーがあったのだけれど、100Mbpsのスピードはもう何だか普段のスピードが哀しくなってしまうくらいだった。ハイパーリンクをクリックするとほんの一瞬で次の画面が表示される。画像があろうとなかろうと、あっという間に。 速い! としか言えないような速さ。 ああいうスピードが当たり前のものとなったときに、インフラの前提が切り替わってしまうわけだから、いまでは思いつかなかったような新しいサービスとかが生まれてくるのだろうなとか想像すると、おもしろそうだなっていつも思う。 子供の頃に、たとえば携帯電話を1人1台持つような時代になるなんて思ったことはなかったし、Segwayのような乗り物だって、もっとずっと遠い未来の話だと思っていた。 けれども、幼い頃に描いていたような未来は、確実に、しかも加速度をつけて近付いてきている。僕がまだ生きている間に、たぶんとんでもないところまで発展してしまうのだろうなとも思う。 できることなら、某ネコ型ロボットが作られるのを見てみたいものだけれど。 ドラ焼なら、いくらでもプレゼントする用意はあるし。
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『チェーンストア経営の目的と現状』再読。渥美俊一著。実務教育出版。 ビジネス書。 会社に入ってから、事あるごとに読み返している本。大抵は部分読みが多いのだけれど、今回は半年振りくらいに通読(何度目だろう?)。流通業(とりわけチェーン・ストア志向企業)で働いている人のほとんどは、この本を読むようにと言われていると思えるくらいの、チェーン・ストアについての教科書のような本だ。何度読んでも、改めてなるほどと思わされるところがある。著者は、チェーンストア経営専門コンサルティング機関日本リテイリング・センターのチーフ・コンサルタント(イオンやイトーヨーカドー、ダイエーなども、まだ小さかったときに著者がコンサルティングをしてきたと書かれている。まさに流通業の生き字引みたいな人だ)。
この本について書き出すときりがないので、一箇所だけにしておくけれど、「チェーンストア」という言葉についての誤解について述べている部分ではこう書いている。
多くはさきの”連鎖店”という直訳を前提に、鎖で縛られている店または人々のこととの印象をもち、人間としての自由がない管理社会のモデル的存在という、ひどい偏見を主張したりする始末である。 鎖は本来、人類が開発した運搬の道具であり、どんな形のモノでもひとくくりにして移動させられるという、すばらしい文明の利器であった。なぜ日本人は、それを人間を束縛するものとのイメージをもってしまったのだろうか。 一つひとつの鉄の輪はちっぽけでまったくの非力に見えるが、それが一定の法則で連結し多数が繋ぎ合わさると、一人の人間ではとうてい動かしがたい大物や多量のモノを、ちゃんと思うところへ動かせるという、ものすごいことをやる特別な仕組みなのである。つまり、一店ではできるはずのないことを、特別に工夫された経営上のシステムによって、素晴らしい”暮らし”というご利益を国民に提供するものというのが、つまりチェーンストアという言葉の本来の意味である。(6-7ページ)
最初から、こうなのだ。そして、具体的にチェーンストアがとるべき手法について、様々な理論や数字を紐解いて解説している。初版は昭和61年で、平成13年に改訂第12版が出ているので、そういう意味でもまさに教科書のような本だ。 これからもきっと、何度も読み返す本だ。
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お知らせ
さて、明日は午前中の飛行機で札幌へ。休日を利用しての移動です。 そして、休日の前日には、ついついDaysを書き過ぎてしまいます。
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