Sun Set Days
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たとえば、
世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が旅行をしているのだろう、とか考えてみたり。 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人がコカ・コーラを飲んでいるのだろう、とか考えてみたり。 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が雨やどりをしているのだろう、とか考えてみたり。
散歩の途中に、ときどきそういうことを考える。 もちろん、正確な数なんてわからないのだけれど、それでも世界というスケールで考えてみたら、それぞれそれなりにはいるのかもしれないとは思う。 とりわけ、雨やどりなんかは、石畳のヨーロッパの坂道なんかをイメージしてしまって、その軒先で困ったように雨を見つめている様子なんかを想像してしまう。やまないかなー、とか思っている姿を。
それから、
世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が頭を撫でてもらっているのだろう、とか考えてみたり。 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人が階段の途中で疲れて立ち止まっているのだろう、とか考えてみたり。 世界中にいまこの瞬間に、いったいどれだけの人がバス停の前に立って時刻を確認しているのだろう、とか考えてみたり。
最初はただの思いつきでしかないのだけれど、どんどんいろいろと考えてしまうようになる。 散歩の時には、そういう他愛のないことを考え始めると止まらなくなったりするときがたまにあるのだ。 もちろん、それはただのちょっとした連想ゲームのようなものなので、途中で飽きてしまったりするのだけれど、そしてすぐに忘れてしまったりするのだけれど、今日はまだ忘れていないので書き留めておこうと思う。 冬の散歩はいつもより早足になるので、そういう連想や想像も、いつもよりも少しだけアップテンポだ。
今日の場合は携帯電話を持って外に出てしまったのだけれど、途中電話がかかってきて、連想ゲームは終わりになった。 そのときは、ちょうどバス停を通り過ぎたあたりだった。 もう終バスも終わってしまったバス停は、忘れずに飼い主を待つ犬みたいだ。 翌朝に始発のバスがくるまで、ずっと待っているのだから。
そのバス停の近くで立ち止まったまま電話をしていて、電話を切った後、なんとなくもう一度バス停を見る。 それからまた連想がはじまる。 たとえば、バス停に手と足がついていて、感情と知性を持っているとしたらという想像。 夜もふけた頃に、たくさんのバス停たちがにょきにょきと昼間隠していた手足を伸ばし、それからある広場に向かって歩き出すのだ。 そこにはそれぞれの会社の、それぞれのバス路線のバス停たちが集まっていて、「よう遅かったね」とか「最近便減らされたらしいじゃない」とか言い合っている。 そして、来月のバス停スローガン(「ハトのフン害に気をつけよう」)とか、月度目標(「酔っ払いに注意!!」)とかを決めたり、酔っ払いに持っていかれた可哀想なバス停の辿った数奇な運命を描いた20分のビデオを上映したりして、またそれぞれの立ち位置に帰っていくのだ。「じゃあまた来月」とか「今日のビデオはなかなかだったね」とか言い合いながら。
それにしても、バス停にも感情や知性があるかもしれないと想像した後にバス停を見ると、何だかちょっとだけ違ったふうに見えたりもするような気がして、おかしかったりするのだけれど。
今日の散歩は、行きは今週中に仕事でやるべき事を頭の中でもう一度整理していて、帰りにはそういう想像をしていた。 リラックスするためにも、いろいろと想像することは楽しいと思う。 だからってまあ、にょきにょき歩くバス停を想像するのはどうかとも思うのだけれど。
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明日は日帰りで名古屋出張。 朝出発して、夜に帰ってくる。 移動時間の長さがネックではあるのだけれど、そういうことはまた別の話。 上司であるマネジャーは福岡に出張に行って、その後大阪を経由して週末に戻ってくるので、また数日間顔をあわせない形になる。 携帯電話とEメールはときに随分と重宝する。それらがあれば、離れていても、顔をつき合わせていなくても、少なくとも大幅には仕事が停滞することはないわけだから。 もちろん、リアルなコミュニケーションが一番重要だということは当たり前のことなのでいちいち再確認するまでもないけれど。 そして新幹線に乗るときには、世の中にはいかに出張しているサラリーマンが多いのだろうと思う。 と同時に、たまに昼間からビールを飲んでいる人を見かけたりもするのだけれど、そういうのを見ると大丈夫なのだろうか……と思ったりもする。 大丈夫なのか? 気持ちよさそうではあるのだけれど。
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お知らせ
もう2002年最初の月も折り返し地点。はやいはやい。
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