2005年09月15日(木) |
つげ義春って知ってますか? |
無能の人ごっことかしてみたい。 机の上(路上を推奨)に石を並べて…、それだけ。
つまり僕ていどの環境ではそこまでの退廃は無く。 カイジほどの危機も焦燥も無く。 みどりちゃんほどのとんがってるけど角は丸いような思春期も無く。 城嶋晶のように欠落ゆえに手に入れた何かも無く。 よーするに「僕には何も無い」とかいっぱしにほざいていたあの頃と同じように何も無いのだ。 結局、僕に在るのは無いことだけという矛盾した自己定義。 つまりは僕は無いのだ。
なら、この感覚は何だ? 全力で自分を見出そうとするこの感覚は何だ? 我思う、故に我在り。 でも、無いものは無い。 何も無いのなら、それは文字通り何も無いのだ。 持つ者よ共感してくれ、と思う。 そうすれば僕が在る証拠となる。 でも僕が求めているのは結局は在りもしないファンタスマゴリアなのかな?
そして結局はいつもの結論に達する。 もちろん、ここに僕の全てが在ると思っている愚かな読者はいないと思うので、いつものように結論だけ記す。 回りくどくなったが、結論としては覚悟が足りない、という地点に着地する。 要するに覚悟が足りないのでこの中途半端な状況にあるのだという結論だ。 当たり前だが、問題に対する結論は打開策を含んでいなければ提出する意味が無い。 覚悟の足りなさが解決すればこの問題系から脱出できる。 もちろん他の打開策も思考することは可能だ。 しかし、内罰的に論理を組み立てればおのずと結論はそこへ達する。 あるいは自身の無能を問題とすることも可能だが、それは物理的に限界が存在するので覚悟の改善の方が容易であり、改善の余地が大きいと判断する。
そんなことはわかってるんだよ。 わかってるからいつも同じ結論に達する。 そこは私も人の子。 人情ですよ。 脇目もふらず走れれば誰も困りません。 要するに脇目をふってしまう今の状況がまだまだ甘い。 それしかない、という必然はどうしても手に入らない。
そう言えばバイト先の子に恋愛相談?みたいなことをしたら、「それは機が熟してないだけですよ」と諭されてしまった。 なるほど、そーいうことか。 まだまだぬるいということか。 もっともっと熱く、浸かってられないくらい熱くなるまで待てと。
まぁ、今でさえ温度差があるのですが。 では、そこで問題です。 問) 温度差を問題とされない環境において温度差を問題と感じてしまう場合、その個体の取るべき態度として正しいのはどれか?
解) 温度差が問題でないことを論理的に立証し、同様にして自己の温度が環境から排除される要因とはならないことを立証する。
さて、この問答には重大な欠陥があるそれはなにか?
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