2006年01月21日(土) |
ホリエモンの感情に関する一考察。 |
堀江社長がときおりカメラの前で見せる不機嫌な様子について思うところがあったので日記化してみる。
あれは、つまり事実が事実として機能しない事態に対する不快感の表明なのであって、決して不遜な態度ではないのかもしれない。 大衆(あえてここでは大衆という言葉を使う)は往々にして事実をコンスタティブに捉えることをしない。あるいは出来ない。 では、どうするかというと、そこにあるのは感情だけだ。 エクリチュールをコンテクストの中で巧みに使いこなしているように見せかけてただ感情を垂れ流しているだけなのだ。 つまり、そこに思考は無く、もはやそれは慣習とも呼べない反射のみである。
そのような社会には事実を事実として認識する能力は無く、問題とされるのは事実そのものではなく、その事実が原因であるにもかかわらずそこから引き起こされる感情という結果である。 もちろん、結果を考慮すべきコンテクストもあるし原因を考慮すべきコンテクストもある。 しかし、事実を事実として認識できない以上、原因を考慮することは初めから不可能なのである。 よって、この根源的な論点のずれは根源的であるが故に解消することが困難であり、認識できない事象について説得することは徒労に終わる可能性があまりにも高すぎ、かつ現実的にそのような時間は用意されていない。
現実的に問題の解消に向けて働きかけるために事実をあるコンテクストでスタティックに検証するべきだと考えているのに、しかし、それは慣習や日常といった緩やかに流れ続ける極めて不安定なコンテクストに乗せられ、その時々の個々人の感情が述べられ並べられていくに過ぎず、コンスタティブな立場を取ろうとすることで逆に流動する大衆からは孤立してしまう。 当然の帰結として、全に抗する一は敵と見なされ排除されるわけだ。 もちろん、全に同一化して排除を回避することも可能かもしれないが、それでは問題が解決されないと認識してしまったなら、そこに矛盾と葛藤を抱えざるを得ない。 そのような状況に対して彼は苛立ちを表明しているのではないかだろうか、と考えてみた。
コンスタティブとパフォーマティブについて。 言語行為論という分野そういった用語があるらしい。 コンスタティブとは言語の意味を文字通り捉えること。 パフォーマティブとは言語の意味を文脈のなかでパフォーマンスとして捉えること。 と、ここでは簡単に説明しておく。 もちろん、純粋にコンスタティブな言語や純粋にパフォーマティブな言語は現実的にありえない。 しかし、限りなくコンスタティブに近づける努力は出来ると思う。 そして、現実的な場面で問題解決のためにそのような言語が必要とされる事態はあるはずだ。 しかし、僕が感じる範囲で日本では基本的に言語を純粋にコンスタティブに捉えようとする努力はなされない。 それは大学という機関においても同様で、常に言語はそれを行使することによって発生する効果=結果にしか興味を払われないし、認識されない。 これは純粋な能力の問題ではなく、そのような訓練が施されていないことに起因すると思うのだが、とにかく根本的にそのような能力を育成されていないのだから、言語がコンスタティブに機能しない以上、言語によって示される事実もまたコンスタティブに機能することはありえない。 つまり、事実もまたパフォーマティブに機能せざるをえないのであり、これが堀江社長の不快感の原因ではないかと思ってみるわけだ。 つまり、これは僕が感じているコミュニケーションの根本的な部分に関わる問題である。 僕もまた同様に日本の義務教育を受けて育ってきた子供なので、言語をコンスタティブに捉える能力に秀でているわけではない。 それゆえ、そこに固執しなければ維持できない。
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