日々是迷々之記
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かんな箱とは鰹節を削るための刃と、削られた鰹節を受け止めるための引き出しが付いた箱である。
これは私が物心付いたときから実家にあった。がしがしと削ってほうれん草のおひたしにピンク色のひらひらとした鰹節を載せてくれていた。それは幼児期の記憶。
先日、年金手帳やらなんやらが必要と言うことで実家を尋ねた。鍵を開けて中にはいるとだんだんと饐えてきており、昼間じゃないととても来る気になれない。私は冷蔵庫を開けて、賞味期限の長いものは持ち帰り、切れている物はごみとしてまとめて捨てた。
冷蔵庫の中にそのかんな箱はあった。使われていた形跡はない。大本の大きな鰹節も乾燥して割れている有様だ。私はまだ食べられる食料とそのかんな箱、郵便受けの手紙を持って家に帰った。
かんな箱は底板が外れていた。大きめの固まりを削ってみる。刃がこぼれていて、子供の頃見たようなピンク色のきれいな鰹節は出て来なかった。外して刃を研がなければならない。
このかんな箱を見てと思ったのは、母親に生きる意志が強くあったのだろうかということだ。私たち子供がいた頃は、出汁用も、おひたし用もこのかんな箱の鰹節で鰹を削っていた。それがこの有様だ。刃はこぼれ、ピンク色の切片を削り出すこともできない。
あの人は生き続けることを望んでいるだろうか。仮に望んでいなかったとしても私には手を下すことは出来ないし、主治医の先生や、看護婦さんみたいに「リハビリがんばってください。」と言うのが関の山だ。
意識がはっきりしない母親だが、もし何かを尋ねられるとしたら、どうしたいか聞いてみたいと思う。子供みたいに扱われて、おしめをはめられて長生きしたいのか、それとも今終わりにしたいのか、あの人は何を考えているのだろう。
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