日々是迷々之記
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先日、再手術となった。最初の手術では脳が腫れてきていたので、圧迫することを恐れて頭蓋骨を直径10センチくらい外したのだ。幸い、脳の腫れは引いてきたので、もう一回手術をして人工骨をはめる手術だった。
手術の前日に主治医の先生から手術についての説明を受けた。そして、先生は、「こないだの手術で外した頭蓋骨、どうされますか?」と聞くのだった。どうされますかって、どうするんだろう、普通は。「小さな切片でしたら医療廃棄物?として処理しますが、これだけ大きな物をいわばゴミとして捨てるのも忍びないかと思いまして。」とエアキャップシートにつつまれた頭蓋骨の切れっ端を出してきた。
!人骨である!本物の。もしこれを河原や公園なんかに放置したら大騒ぎになるんだろうか?などとしょーもないことを思いつつも、一応返してもらった。捨ててもらってもよかったが、先生が捨てるに忍びないと言ってるのに、「捨てて下さい。」というのも人非人かなと思ったからだ。
そんなこんなで私は、日々人から少しでも良く思われたいと思って生きているようだ。特に、母親関連のひとたちには、鬱病を患っていることを話していない。だからたまに感情がオーバードライブしてしまう。
2,3日前、奈良の親戚(母親の妹)が見舞いに行ったそうだ。その感想を電話してくれたのだが、その日の母親は上機嫌で饒舌だったそうな。(まぁ、ろれつは回らないわけだが。)執拗に私がどのような生活をしているのかを聞き、「仕事を辞めて、面倒を見て欲しい。そして仕事(テキスト打ちの内職)の後を継いで欲しい。」と言っていたそうなのだ。
おばちゃんは、「んなことするわけないやろに。結婚してあっちの生活があるんやから。」と言ってくれたそうだが、母親は未だに私に何かを期待している。そう思うと胸がつまる。寝起きにそのことを思い出し、軽く咳をすると小さく吐いてしまった。もう私を忘れてほしい。
それから病院へ行く足は遠のいている。リハビリ用のバレエシューズを持っていかなければならないのだが、饒舌に話しかけられたら気が狂いそうだ。看護婦詰所の婦長さんに事情を話して、事務的なことはするが、本人には会わないと言った方がいいのだろうか。
病人はずるい。病気になるだけで、先生や看護婦さんが世話を焼いてくれ、取り返しのつかないほどの深い感情の溝を作った人間さえ面会に来させることができる。きっとあの母親は今の状態をそれほど悲観してはいないのだろう。ボロアパートの独居老人から設備の整った病院で完全看護の身に格上げだ。体も洗ってもらえるし、食事だって口に運んでもらえる。
10年間絶交状態だった妹たちは会いに来てくれるし、「大阪に帰ってきて一緒にスナックやろう。」とか言ってあきれて相手にしてくれなくなった下の娘も遠路はるばる見舞いに来てくれるし、「あんたのだんなを殺して、私も死ぬ。アンタは恥を背負って生きていけばいいのよ!」と暴言を浴びせかけられた上の娘(私)ですら、おむつや尿取りパッドをせこせこと運んでいる。
よく生きるというのはどういう意味なんだろうと時折考える。「人間が後世に残せるものは生き様だけだ。」という言葉があったような気がするが、母親の生き様から一体何を学べというのだろうか。
頭蓋骨の色は黄土色であった。特に使い道もないが、捨てる理由もないので、実家から持ってきた郵便物などを入れる箱に入れておいた。
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