日々是迷々之記
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2006年01月07日(土) 愛は幻想のファミリズム

うーん、いきなりだが、家族とか愛とかって何なんだろうって思ってしまった。今日は母親の入院している病院から電話があり、次の手術は一週間後に決定しました、との連絡があった。

どんな手術かというと「胃ろう」の手術である。要はおなかの表面に穴を開けフタを付ける。そこから栄養とかを流し込むようにするらしい。今は鼻から胃袋に管を入れ、そこに栄養を流し込んでいたが、むせたりとかして時間がかかるのでそうしたほうがいいんではないかということだった。

そこまでは年末に聞いていて知っていたが、その手続きが意外とめんどくさいようだ。まず話を聞きに行った。そして再度行き(熟考した結果という形を取るらしい)、承諾書にサインをする。んで手術に立ち会う。半分ボけているが、一応話は理解できるので本人にサインなりなんなりさせればいいと思うのだが。(もっとも右半身は不随なので字は書けないが。)

今日の看護婦さんはとても事務的にしゃべるヒトでしゃべっていてだんだん気が重くなってしまった。麻酔を使うのでサインをしていただかないといけません、何かあるといけないので立ち会ってもらわないといけません、先生は平日の昼間しかいないので、平日の昼間に来て頂かないといけません、などなど。もう、いけません、いけませんって、もういいよ。

今私は働いてないからいいが、普通に会社員しているヒトや、子育て中のヒトとかならかなりしんどいと思う。今手元には母親宛に来た年賀状が30通ほど積んであり、それの返事も考えなくてはいけないし。

何か二人分の人生を生きているような気分だ。これが超セレブ婦人のゴージャス人生とかなら悪くないが、惰性で余生を送るような人生だ。しかも100%誰かの力に頼って生きている。

生きる意味とか考えてもしょうがないことはわかっているのだが、母親に関してはやはり考えてしまう。胃袋に直接栄養を入れられ、絶対回復しないのに「がんばって。」とか言われながら生きるってどういう意味があるんだろう。今は年金と私の出費で入院費をまかなっているが、そのうち福祉の保護を受けることになるんだろう。その生活保護だって出所は税金なわけで、もうちょっと有効な使い方があるやろにと思ってしまう。

もっと愛情があればそんなことは思わずに、自分の生活を捨て母親の看病に私の人生の全てを傾倒するんだろうか。いやー、絶対しないな。

「先生は何のためだと思ってこの手術をするのですか?」と先生に訊いてみたい。直接的な目的は胃に栄養を入れるためだが、そうすることによって一体あの人の人生の質みたいなもんにどんな変化があるのだろう。

いや、期待しすぎかなぁ。先生はあくまで医学的手法で患者を長生きさせるのが仕事であって、患者の人生の質を上げるのが仕事ではないのだろうし。

母親の人生と私の人生。二つが一緒くたになって続いてゆく。子供の時に親を尊敬したり愛したりする努力をしとけばよかったと少し思う。そうすれば、今の状況を愛を持って受け入れられたかもしれないと思うのだ。

アル中暴力父親と計算高く自分の保身が第一である母親。どちらも親としてという以前にダメな大人だと小学生くらいのときに悟ってしまった。そして生意気な娘になり、「あんたはあの男にそっくりでかわいくない。生んで損した。」と言われるに至ってしまった。負の気持ちが伝わり負の言葉を生む負のスパイラル。誰が悪いかという以前に相性が悪いんだろうな、きっと。

友達の年賀状を見たりして、「家族って楽しそうだなぁ。」と思うことはないわけではない。子供がいたら一緒に絵を描いたり、ゲームしたり、バイクに二人乗りしたら楽しそうだなぁと思う。でもそれはフェラーリを買うことと同じくらい今の私には現実味のない話だ。

明日も母親は半分口を開けてぼんやりとテレビを見ているだろう。私は250の方のバイクでちょっと初走りの予定だ。二つの人生は完全に密着してしまったわけではない。その事実が私をほっとさせる。


nao-zo |MAIL

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