日々是迷々之記
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2006年01月08日(日) 夢を見た

昨日の日記を書いた後、思わずうなされてしまった。夢の中に親が出てきたのだ。夢といってもわたしの記憶がそのまま反復されるだけという夢だった。

3歳くらいの私、アパートの庭。そこには雪がうっすら積もっていた。そこで母親は青空の下洗濯物を干している。当時父親はたまに通ってきていた。おみやげがあるにはあったが、今思えば個性的で微妙にトンチンカンなものばかりだった。20色入りのコンテ(絵を描くときのクレヨンみたいなもの)、スヌーピーのマンガ英語版など。別に母親の趣味が絵であったわけでもない。

次は父と母が結婚し、マンションに引っ越して妹が生まれた直後くらいの日常だった。思えばこのころが一番家族らしかったかもしれない。父親はいつも焼酎やジンを飲んでいた。膝に妹を乗せ、私が本を音読するのを聞いていた。そのころ、父親のお土産は本ばかりになっていた。安野光雅の森の絵本、天動説の本、ピカソの本、マチスの本。森の絵本はともかく、その他の本は当時小学校1,2年生だった私には理解できなかった。

そして私が小学校6年生の時に移る。このころは一番修羅場だった時期だ。父親が酒を飲んで大暴れして、母親が玄関の鍵をかけて閉め出したら歩道橋の上で寝てしまい、警察に保護された。それを引き取りに行くともう一発大暴れし、母親は足の親指の爪が剥がれてしまった。さらに父の母親(私のおばあちゃん)が新興宗教のお坊さんを呼んできた。何でもうちの家に悪い物が憑いているから家庭がうまくいかないのだとのこと。

私はへんな文字の書かれた札などを渡されたが、母親はそれをたたき落とし、妹と私の手を引いて家を出ようとした。するとおばあちゃんと母親が階段でもみ合いの大げんか。私はものすごくくらい気持ちになったのを覚えている。

そして私と妹を連れ、母親は井の頭動物園に行った。そこでファンタオレンジとみたらしだんごを食べて、動物を見た。母親は出不精で教育ママだったので私はこのことをよく覚えている。

うちは家族で外出したことが多分ないと思う。おばあちゃんの家に正月行くくらいだ。それもバスで4つくらいのところにあった。父親の連れ子だった兄は10歳年上で中学校から寮に入っていたので顔もあまり憶えていない。父親とはよく近所の公園に行った。白黒フィルムの入ったカメラで私と妹が遊んでいる姿を撮影していた。

私と妹は父親になついていた。それが母親にはくやしかったのだろう。父親は酒乱だがそれは母親にだけ矛先が向けられていたし。毎日苦労しているのはアタシなのよ!なのにあんたたちは!と思っていたのではないかと推測する。

でも母親のことがあまり好きではなかった。とにかく勉強しろばかり言っていたし、誰々ちゃんと遊ぶなとか、誰々ちゃんは賢いからお友達になりなさいとか、俗っぽいことばかり言っていたからだ。それにすぐぶん殴るのも嫌だった。

そして程なくして父親が当時できたばかりのディズニーランドに行くから支度をしなさいと言った。私と妹は嬉しくてわくわくした。お母さんは行かないの?と聞くと母親はお父さんと行きなさい、と言った。そして私たちは父親に連れられて千葉の親戚の家へ連れて行かれた。そして父は私たちを置いて帰った。これは父親が私たちについた最初で最後の嘘だった。

そのころ母親は荷物をまとめて、友人を頼って大阪に来ていたようだった。要は離婚したはいいけれど、私たちを育てるのに困って親戚の家に押しつけたのだった。母親は手に職のない専業主婦。父親はフリーランスの翻訳家で子供は好きだが生活能力が全くなかった。

この辺で呼び鈴が鳴って飛び起きた。佐川急便が来たのだ。今日ばかりは佐川急便に感謝である。あのままあの続きを見る気にはとてもなれないからだ。

正月時期、家族のある人はとても幸せそうに見える。結婚した子供もみんな帰ってきて、みんなでカニを食べたとか、お鍋を食べたとか、プレステをやったとか、ただただ楽しそうだ。わたしはそういう世界とは別の世界に住んでいるような気がする。わたしもあっち側がよかったな、とたまに思う。

マンガとかだとこういうときに救世主が現れたりするわけだが、現実の世界では何も起きない。ただ日常が続く。そして今日も夜が来るはずだ。

今日は夢を見ませんようにととりあえずお祈りしておこう。


nao-zo |MAIL

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