おとなの隠れ家/日記
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2006年09月23日(土) ■ |
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子猫殺し。 |
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作家の坂東さんのエッセーに「子猫を崖から放り投げた」と書かれていることに対して 彼女が住むタヒチを管轄しているポリネシア政府は 坂東さんの行動を動物虐待にあたると裁判所に告発する構えだとか。 そのことについて坂東さんが毎日新聞に寄稿したとされる記事を読んだ。 「子猫を殺す時、自分も殺している」と始まるこの文章。 読んでいたらだんだん腹が立ってきた。 子猫を殺した理由としては 自分が飼っている猫がこどもを産んだが その子猫を殺さないとすぐに成長してどんどん増えて 自分じゃ面倒みきれないようになる、ということのようだ。 じゃ避妊手術は?ということについては 自ら新たな命を生む源を断つことはできないんだと。 でました、わたしのキライな辻褄が合わない話が。 源は断てないが、命そのものは断つ・・・・ そりゃないぜ。 社会に対する責任として子猫を殺すことを選択したとあるが つまりは人間社会重視、自分の立場重視なんだろうから それで生き物の生や自然を語るには矛盾している点だらけだ。 生まれて、生きて、死ぬという流れは自然じゃないのか?
生に対し、人間が人工的に手を加えることになる避妊手術はダメで 生を人間が意図的に操作する殺しは仕方ないということだよね?
辻褄合わないじゃん ぜんぜん。 飼う、という方法を取った時点で、生き物は自然から切り離されるだろ。 飼われた生き物は、本来の環境とは違った場所でも 生きていけるだけ新しい環境に適応しようとする。 そもそも 野生の生き物とペットとして飼われる生き物との生き方を無視して 比較するところに問題ありだ。
だってさ、増えると困るんだろ? 困るのは猫かい? 猫は困らないと思うよ。 自然のなりゆきで、というか本能で増えていっているだけだ。 文章からすれば、困るのは人間だ。 自分のために猫を飼い、自分のために子猫を殺すとしか読めないね、わたしには。 子猫殺しが苦渋の選択のような表現があるが、ひとりよがりも甚だしい。 それなら飼うのをやめればいい。
わたし的には、とても不愉快な文章だったとはいえ ペットの避妊手術について書かれていた内容については、一理あるとも思うし 言いたいことは、いくらかわかる。
ただね、坂東さんがどう思おうと 命の大切さを、もっとこどもたちに教えなきゃという世の中にある今にだよ 子猫を殺しましたという文章を、物書きのプロがエッセーとして書くなんて 社会的なことを考える頭があるのなら、やっちゃだめだろ。 せめてフィクションで書くぐらいの配慮が欲しかったよ。
「子猫を殺す時、自分も殺している」と言うが 子猫は死に、自分である坂東さんは生きている。 揚げ足を取るわけじゃないが、死んだ人間に文章は書けない。 命を奪う殺しと、比喩的な殺しは同じラインじゃない。
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