2004年05月06日(木) そりゃー私はイカれてますが。
ぼく等はいつも2次元の人も3次元の人も等しく扱ってきた。漫画や映画や小説に出てくる人も、いま眼の前にいる「手を触れることができる」人も同じに考えてきた。それはぼくだけでなく、ぼくの友人たちも同じだった。「すべて実在」として接してきた。それが「当たり前」のことだと思ってきた。よくできた人物像は2次元にしろ3次元にしろひとつの「人格」を確立していてそれを認めざるを得ないし、それに異を唱える人などいなかったから。
特に「物語」に触れることが多い人、自分で「物語」を紡ぐ人はこれをよく理解してくれる。実際、「自分の子(自作のキャラクタ)が巧く動いてくれない」とか「言うことを聞いてくれない」とか「いい場所に据えなければ文句を言う」とか話す作家さんは多い。いや、作家さんは大抵そういったことを言う。逆に、物語に触れる機会の少ない或るいはない人に同じような話をするとほぼ9割の確率で狂人扱いされる。
後者は社会的に見れば「常識人」なのかもしれないけれど、文化的な愉しみを体験することができない可哀想な人だ、とぼくなどは思ってしまう。物語に触れて(たとえば映画を観たり小説を読んだりして)感情移入できるのかなあ、と心配になってしまう。感情移入できなかったら物語なんてまったくつまらない絵空ごとになってしまうよね。こういう人には、力石徹の葬儀に参列した人や遙か遠い国から海を渡ってベイカー街221Bを訪れる人の気持ちなんか判らないんだろうな。……うわー、そう考えるとものすんごく可哀想になってきた!
でもそういう人から見れば、ぼくやぼくの周辺にいる2次元の人も3次元の人も等しく扱う人は「おかしい人」になってしまうらしい。ま、そりゃー私は他人さまとはものの捉え方も考え方も大いに違いますし、実際アタマもイカれてますが。
しかしね。理解できないならそれはそれでいいんですよ。多分そういう人とぼくなんかとは「人種が違う」のだろうから。それを変に、ほんとうに「可哀想な人のために」といった風情で「目線を合わせてあげますよ」みたいな態度を取られると却って信用できなくなるな。
それは、障害を持った人を「可哀想な人」扱いするのにとても似ていると思う。障害を持った人も持たない人も等しく同じ「人」なのだということを忘れて「自分は障害を持たないのだから自分より弱者である障害を持った人を保護してあげなければならないのだ」という思い上がりに直面したような気持ちになる。大きな御世話だよ、って感じだ。