いま更突然、西炯子さんの「
ひとりで生きるモン!」にハマってしまい、周囲の人に勧めてまわっている衛澤です。
「
×−ペケ−」と「
臨死!!江古田ちゃん」と「
のんきな父さん」を足して混ぜてこねて灰汁抜きしてから寝かせて軽く火を通してライトに仕上げた感じの作品です。判りにくい? もっと簡単に言うなら「気楽に、斜め上。」という感じでしょうか。時間と懐に余裕があるなら読んでおくといいでしょう。
さて、私は一ト月に一度、理髪店を利用します。元来、美容院という施設が苦手で、そちらを利用した経験は片手で数えるほどしかありません。その数回で「もう美容院には行かねえ」と決定づけるだけの経験をしてしまったのですね。
そのような経緯もあり、私は世を忍ぶ仮の娘さんだった頃もいまも調髪は理髪店で御願いしています。
世を忍ぶ仮の娘さん時代も現在も私という人間にたいした変わりはなく、身姿も、髪型もほとんど変わっていません。けれども、「女性として」行ったときと「男性として」行ったときとでは、理髪店の対応は変わってくるのです。
先ず、「女性として」理髪店を利用しますと、調髪料金が男性よりも少し高めで顔剃りは別料金です。御願いしないと剃ってくれません。「男性として」利用した場合は問答無用で顔剃りされます。しかも女性料金よりやや安めで顔剃り料金は調髪代に「込み」です。
調髪して貰う人間(つまり私)も、調髪の内容も、理髪店も、理容師さんも、何れもが同じ条件であっても「調髪して貰う人間」が「女性であるか男性であるか」でサービス内容と料金が変わってしまうのです。
当然のことなのかもしれませんが、男女どちらも経験している私は「何か変だな」と感じます。「男性であるか女性であるか」は自己申告や法的書類には拠らず理髪店側の判断で決まってしまいますし、何より御願いする髪型も髪の長さも、男性としての利用時と女性としての利用時とでまったく変わらないのに料金は変わるのですから、「あれー?」と思うのも無理からぬことでありましょう。
同じ理髪師さんが同じ客に対して同じ作業をやってるのにね、という話です。
似た話に内性器摘出術があります。私の家族のうち二人が子宮筋腫を患って内性器を摘出したのですが、そのときの手術費用は保険が効いて約一〇万円。私も同じ手術を受けましたが病名は子宮筋腫ではなく性同一性障碍で、国内では保険は適用されず海外で行いました。手術入院費用・渡航費用・滞在費合わせて約四〇万円。
これも御医者が患者に対してやっていることは同じなのにね、という話です。
不平を言っているように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。ただ、「変なの」って。
無理やりたとえるなら、食パン一枚をトーストして貰うのに、五枚切り一枚と六枚切り一枚とで料金が全然違いました、みたいな。五枚切り一枚と六枚切り一枚の間には何がある?
ほかに、「男性として」理髪店を利用するようになってから問われるようになったことがあります。
顔剃りのときに「眉の下、剃りますか?」って。
「女性として」理髪店を利用していたときも顔剃りは御願いしていましたが、このようなことは訊ねられたことがありません。店舗によって違うのだろうかとも思いましたが、男性として行けば理髪師さんは顔剃りの際に必ずお訊ねになります。「眉の下、剃りますか?」或るいは「眉の下、どうされます?」と。
よく判らないままに「はい」とか「御願いします」とか「置いといてください」とか気分と話の流れにまかせて答えていましたが、「眉の下を剃る」ということがどういうことなのか、私は知らずにいました。
これは、私が知り得ずにこれまで過ごしてきてしまった「男性の文化」なのかもしれない、と思っていました。このようなことに出会うと多少心細くなる性同一性障碍当事者は私だけではないのではないでしょうか。
私ども性同一性障碍当事者は、生まれついた身体の性別と自認している性別が異なるために、生まれてから思春期を終える頃までは(或るいはもっと長い間)異性として生活することを余儀なくされます。その間に社会的に学ぶ習慣だとか慣例だとか経験だとか、そういったものを学べないまま成長してしまい、ネイティヴ男性(或るいはネイティヴ女性)が身に着けている「文化」を知らないまま、私どもは彼等彼女等の仲間入りをします。
たとえば、男性であれば
「中学校の体育の時間にやった倒立前方回転跳びは怖かったよな」
「あ、俺あれ得意だった」
「踏み切り失敗して頭から突っ込んだ奴がいて、それ見てから怖くて駄目」
などという「共通の話題」が意志とは無関係につくり上げられていて、生まれたときから男性として生活してきた人たちは意識しなくてもその会話に参加できたりするのですが、男性としての人生に「途中参加」の、たとえば私のような性同一性障碍当事者は中学校のときに体育の授業で倒立前方回転跳びをやったことがないために、心許ないながら適当に話を合わせるものの巧く会話に溶け込めているかという不安と、自分だけはそれを経験していないという疎外感とを味わったりします。
(※上記段落のたとえの前提は、私個人の経験です。特に一般的なことがらという訳ではありません。
私が中学一年生のときに体育の授業で取り上げられた器械体操では、男子は倒立前方回転跳びを、女子は台上前転を習いました。同じ体育館での授業で男子が跳び箱の上をぽんぽん跳んだりまわったりしているのを見ていて私は怖ろしくてならなかったものです。)
長い長いたとえ話になりましたが、ここで御注目頂きたいのは、たとえに出しました「倒立前方回転跳びの怖さ」と、理髪店で男性にだけ問われる「眉の下」は、同じ性質のものではないか、ということです。
男性は成長の過程で「眉の下」に女性にはない何らかの特徴を帯びてくるものであり、女性の与り知らぬところでそれを調整する或るいは調整せねばならぬ苦労があるのかもしれない……。
とか何とか思っていたんですけどね。
調べてみましたら、多くの男性が「眉の下」については「疑問に思いつつ知らないまま」だということが判りました。なーんだははは。
「眉の下を剃る」≒「眉のかたちを整える」ということらしいです。
じゃ一律みなさんやればいいじゃありませんかと思われる方もおられるかと思いますが、「眉を整えたらイヤン」という人も中にはいるので問答無用で眉の下を剃ってしまうとクレームが付いたりもするんですね。だからいちいち「剃りますか?」と訊ねる訳です。
私が「眉の下」について考えていたことは取り越し苦労だったということです。こういうことも、儘あります。
あと、理髪店ではなく性同一性障碍に関わることを、も少し。
この頃「性同一性障碍」という言葉だけは一般に行き渡っていて、当事者や関係者でない人もこの疾病や当事者についての文章を書いていて、その一部を私も目にするのですが、気になることがあります。
「性同一障碍(性同一障害)」と書き違えている人が、多すぎます。
この書き違いをする人は性同一性障碍をよく判っていないのだと思います。そういう人に自分たちや自分たちが関わっていることを論じて頂きたくないと思うのは、我が儘ですか。
性同一性障碍とは「性」の「同一性」に「障碍」があること。
これを理解していれば二ツめの「性」をすっ飛ばしてしまうことなんてないはずです。「その可能性はある!」という台詞を書こうとしての「その可能はある!」なんて書き違いは、余程寝不足で余程急いでいて余程うっかりしていなければしないでしょう?
「性」の字は二ツあるから一ツくらいなくてもいいや、というものではありません。二ツの「性」はそれぞれ違う意味を持っているのです。どちらが欠けてもいけません。
厳しいことを言っていますでしょうか。当事者として云々、ではなく、言葉の組み立てをよく考えてください、と思っているのですが。