衛澤のどーでもよさげ。
2009年09月18日(金) 雑に。

五〇〇グラム入りの大きなヨーグルトに砂糖の小袋が添付されなくなったのはいつからなのかちょっとだけ気になっている衛澤です。
特定の銘柄だけかと思ったら一斉になくなっているみたいですね。

■六月末に公開がはじまってからずっと観に行きたい、観に行かなければと思いながらずっと行けずにいた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、やっと観てきました三日前に。
隣県まで出て行かなければ観られなかった作品ですが、大手劇場での公開が終わった頃に地元のシネマコンプレックスでの上映がはじまったので、こちらも終わってしまわないうちにと路線バスを乗り継いで行ってきたのです。

バスの乗り継ぎ場所は鉄道駅前のターミナルで、沢山のバスが来たり行ったり停まっていたりしていました。そこで目的地へと走るバスを待つ間に、或るバスの最後尾にこういう広告を掲示されていました。



「8930」で「ヤクザゼロ」と読ませるのは判る。しかし「422」で「ダブルパンチ」は、どう考えても解せぬ。一五年くらい前に深夜に放送されていた関西ローカル番組「テレビのツボ」放送枠で流れていた美容院だか専門学校だかのCMで使われていた「○○-453-9111」を「ようこそクイーン」と読ませていたのよりも強引であると言えましょう。

それはさておきまして。

観て直ぐに簡単な感想を書いておこうと、そういう気持ちだけはあったのですが、身体(主に脳髄)が文章を書く態勢に切り替わらないという動作不良が近頃頻繁に起こっておりまして、書けずにおりました。
直ぐに書いておかなければ、「感想」だとか「ひらめき」だとかいうものは時間とともに揮発してしまうものです。それを知っているが故に、劇場に赴いたその日のうちに思ったことどもを簡単にメモ書きにしておきました。
そしたら。
書けないなあ書けないなあと日を過ごすうちに、ほんとうにきれいさっぱり思っていたことどもが脳髄の中から蒸発しきってしまいまして、メモ書きを転記することしかできなくなりました。自分が思ったこと、考えたことすら、最初からなかったことのように忘れてしまうなんて。これは加齢のせい? いわゆる経年劣化? 自分がつらいです。

で、やっと感想。ほんとうに簡単に。

キイワードは「ぽかぽか」。
非常に衒学的で難解だったテレビシリーズ及び旧劇場版と比較して、新劇場版は平易な言葉に換言されている部分が多い(衒学的で難解な部分がなくなった訳ではない)。
劇中で綾波レイが口にしたこの擬態語は、旧劇場版までは作中に垣間見ることもなかった、今作の特徴でもある「拓けた未来への予感」を喚起するものである。
しかし、物語の随所に丁寧に織り込まれる「予感」というものは、往々にして作者によって挫かれるためにそこに配置されるものでもある。

台詞が具体的、と言うか、説明的になった。
これにより「判りやすくなった」と思う向きもあるかと思うが、そういう人たちは、私に言わせれば「物語を読み解く能力に欠ける」のだ。状況や心情を人物の言葉即ち台詞によって(描写によらず!)受け手に知らせるのは、わざわざ重ね言葉(「馬から落ちて落馬した」や「遺産を残す」など同じ意味の言葉を重ねて使用すること)を択んで文章を書くようなものだ。そのような文章は、くどくて読みづらい。
物語においてもそう。説明的台詞が多発する物語は、物語のかたちを失いがちである。受け手に判ってほしい事柄は「説明する」のではなく「描写し」なければならない。
これくらいのことは、庵野監督をはじめ制作側はよく判っているはずだ。おそらく敢えてこのようにつくっているのだろうが、それは作品として意図する何かがあるからだろうか、それとも現代の若年層が物語に不慣れなためにその層が判りよいようにしているのだろうか。
後者だとしたら、私としては非常につらい。

過去作の要素:新要素=3:7くらいか?
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「新世紀エヴァンゲリオン」をREBUILD(再構築)したものである。REMAKE(つくり直し)ではない。それ故に旧作と同じに見えて決して同じではない。新劇場版の前作"序"では過去作の要素と新要素がそれぞれ5:5くらいで、人によっては鑑賞後に「何処が(旧作と)違うのか判らん」と洩らすこともあった。
しかし今作"破"は、明らかに旧作とは異なった方向を目指していることが判る。陰鬱ですべてにおいて受動的厭世的、絶望が随所に織り込まれ狂気が直ぐ傍にあった旧作と大きく異なるのは、何より主人公碇シンジが能動的で意志が強く朗らかでさえあることだ。それは前述した「拓けた未来への予感」を強くする。
そして「イレギュラー」とも言える新キャラクタの登場。旧作には存在し得なかった位置づけ、性格づけの少女の登場により物語は大きくうねり、これまで辿ったことのない方向へ進もうとしている。エンドロールを観た後に「早く次作を」と思うのは無理からぬことではなかろうか。
ただ、碇シンジが能動的に行動するようになったのと同時に、彼に降りかかる事件は旧作よりも一層彼自身にとってつらいものが連ねられている。シンジの意志は今後貫かれるのか挫かれるのか、待て次巻。

謎は謎のまま。判らないことだらけだが、それは一時棚上げしておいて「動」の部分を愉しむがよかろう。
旧作はすさまじいまでの情報量の割りに解かれぬままの謎だらけのまま終局を迎えた。その謎が今作で詳らかにされると期待している人もあるようだが、現段階ではその様子はない。むしろ旧作より謎の要素が増えている。
しかし、「謎解き」に捕らわれていてはこの作品の真価を見逃してしまう。「謎」は物語の一部である。物語を読み解くことも大事だが、この作品が「アニメーション」であることも忘れぬようにしたい。作画の確かさ、動画やCGのダイナミックさ、描写の妙、音響の迫力を自身の持てる感覚すべてを動員して体感すべきである。
私が最も感心したのは、シンジと父ゲンドウの墓参の場面だ。二軸の回転翼機が飛来する。ホバリングでゲンドウを迎え、そのまま上昇して飛び去る。ローターの騒がしさ、ホバリング中の回転翼機の細かな揺動、上昇し、機首を返して飛び去るときの機体の不安定さ、近づいて空気を砕くブレード、やがて旋回して遠ざかるローターの音。劇場で観てよかったと思う。
"破"公開前に"序"が地上波放送されたが、それを観たときも「劇場で観ておいてよかった」と思ったものだ。映画は、劇場で観るようにつくられている。

―――と、メモ書きはこれだけ。観賞中はもっと沢山のことを考えていた記憶はあるのだが、考えていた内容は憶えていないんだな_ノ乙(、ン、)_

■二〇代半ばくらいまでは、書きたいことが身体の内から溢れて溢れてプロットを書きとめた分厚いリングファイルが二冊あった。しかし、書きたいことは沢山あったが、それ等を書き表すための能力が足りなかった。巧く書けなかった。最後まで書き上げる能力も拙かった。
それから一〇年以上経ち、或る程度のものは書けるようになった。技倆や経験や能力が増してきた御陰で、思いついたものは大抵文章にすることができる。しかし、十数年前まで溢れていたものが身体の内から出てこなくなり、「何か」が天から降ってくるのを待つしかなくなってしまっている。
どちらが、と考えるのは不毛なこととは判っているつもりではあります。

■はんにゃらようじょ!

ずんだらもちいそぎんちゃくべんぜんべんぜん。
「ずんだらもち」の語感が気持ちよくて好きだ。さあ発音してみよう!
続編「ニトロベンゼン」も味わい深い。

■今日見つけた名言。
寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。
(カール・ヒルティ/スイス/哲学者)


エンピツユニオン


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