家のカギを忘れてしまうと、大抵の場合、家の中に入ることが出来ない。
終業時間がとうに過ぎてから、「のづ君、やろうか」という上司の中途半端な笑顔に促され、上司とサシでの打合せが始まった。江川と徳光の激論バトル並みに打合せの盛り上がりを見せるころに、ポケットの携帯電話が低く唸った(マナーモードなので、ね)。上司がちょっと席を外したタイミングで着信を見てみると、それはツマからの電話。まれに夕方の早い時間に『今日、急に会社の飲み会になってしまったのですが、行ってもいいだろうか』というような電話をもらうことがあるので、今回もそんなことか、と思ったのだが、留守番電話にはかなりヘコんだ声で『電話をくださいぃぃぃ』。 何事かあらんと早速電話をしてみると、ツマはさらにヘコんだ声で言った。 『家のカギを忘れちゃってさあ……、家に入れないんだよねえ……、オットは今日も帰りが遅いぃぃ……? あんまり遅いようならオットのところまでカギを取りに行こうかと思ってるんだけどぉぉぉ……』 今朝はたまたま俺より先にツマが家を出たので、カギを持たないことに気づかなかったようだった。 俺は打合せの後に、さらに仕事を進める予定だったが、『ケーキまで買ってしまった』というツマを放置しておくわけにも行かず、打合せが終わると同時に会社を飛びだした。 ツマは所沢駅のスターバックスの奥で、文庫本を読みながらオットを待っていた。テーブルには随分前に飲み干したらしいコーヒーフラペチーノのカップが佇んでいた。 「お待たせぃ」 声をかけると、ツマはちょっとだけ苦笑いを浮かべて文庫本を閉じた。 「うー」 ツマはナニかに警戒する犬のようなうなり声をあげた。かなりヘコんでいる。 元来、ツマはたいへんしっかりした性格なので、カギを忘れて家を出る、などというミスは滅多に犯さない。こんなことは恐らく結婚してからは初めてのことではないか。オットの方はどうかというと、カギどころかカギを入れたカバンごと無くしてしまうという失態を演じたことがあって、その時は「そのカギを拾った人が我が家に泥棒に入るかも知れない」というツマの恐怖心をあおり、1万円ほどかけてマンションの玄関のカギを取り換えるハメになった。 きっちりきっちり、ミスを犯さない性格のツマは、そんなふうだから余計にトラブルに弱い。カギを忘れてしまったくらいどうってことないよ――と笑ったのだが、ツマはそもそも会社にいるオットの残業を切り上げさせて帰って来させたという事も許せないことのようだった。 「ああ、今日は最悪の一日だったわ」 そう言えば、ツマは今朝、ちょっとだけ“ものもらい”気味に左のまぶたが腫れ上がってしまっていた。ココからツマの最悪の一日は始まったらしい。スターバックスを出ると、マンションに着くまでの間、ツマは一気に今日一日の不幸をまくしたてた。 「――だったのよ! まったく、今日は最悪! もう……ホントに……あたし帰る!」
帰れなかったんじゃねえかよ……。
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