その日、俺は北関東のとある地方都市にいた。 急に夏休みをとることになり、折角の休みをどう過ごすかを慌てて考えている間に数日が過ぎた。当然のようにツマは仕事があり、俺に付き合って突然会社を休むわけにもいかず、俺は突発的に思い立って、取り敢えずの“一人旅”でふらりドライブに出掛けた、というような感じになった。 その街には5、6年前に何度か出張で訪れたことがあった。出張の度に駅に程近いビジネスホテルに泊まり、朝食は決まってビジネスホテルのすぐ近くのデニーズのモーニングセットだった。そんなことを記憶の片隅から蘇らせながら、俺は車を走らせていた。 特別に、この街に目的がある訳ではなかった。 本当なら本来の目的地に宿を取るつもりだったが、平日と言ってもまだ世の中は夏休みで、ガイドブックを紐解いて目ぼしい宿に予約の電話を入れても、尽く『予約で一杯です』の答えが返ってきた。ならば、その途中のこの街で宿を取り、まあ周辺の旨いものでも食って歩こうか、程度のことだけを考えてこの街を訪れた、という次第。 駅前通りの交差点にあるセブンイレブンの前を通り過ぎた時、俺がこの街を選んだ理由が、実は心の奥底の方にあったような気がした。
高校3年の時に同じクラスになった仲間とはいまだに付き合いがあって、彼はその中の一人だった。 今でこそその特異なキャラクターを十二分に発揮しているが、少なくとも俺は彼と知り合ってからの数年間は、彼こそ唯一といっていい仲間内の『真人間』だと思っていた(『真人間』から徐々に変貌を遂げてゆくその推移はかなり劇的なものがあったかと思うが、今はそれを語るときではない)。 その彼が就職して暫く経った後、この街に転務となった。 彼は、衝動買いで中古の車を買い、カレーを作っていたら焦がしてしまい、頭にきて鍋・コンロごと捨ててしまう――というようなどうも説明のしにくい一人暮らし生活を送っていた。 俺はまだその頃は大阪に勤務していたが、俺が転勤となり大阪から帰ってきた時も、彼はまだこの街にいた。そして俺が新しい仕事でこの街に出張に行く、と告げると、彼は嬉しそうに、 「それじゃあ呑もうよ。美味しいお店を紹介するよ」 と言った。 彼は、「カクテルの街」といわれるこの街で、新しい“酒”を覚えていた。 駅前通りの待ち合わせ場所で、彼は俺に気づくと軽く手を挙げた。そのままセブンイレブンの横にある小奇麗な居酒屋に俺を案内した。 「今日は、例の店にも連れて行ってあげるよ」 おしぼりで軽く手を拭いながら、いつもの穏やかな笑顔で彼は言った。 “例の店”――。 それまでに何度か彼の話の中に出てきた店だ。彼がカクテルを覚え、そして酒の飲み方を覚えたバー、それが「CHAMONIX(シャモニー)」だった。
地方都市の夜は足早に過ぎていく。夜十時過ぎ。この時期なら多少なりとも少年少女たちが徒党を組んで歩いている姿もあろうかと思っていたが、宿から飛ばしたタクシーを降り立つと、そこはもうエンディングを迎えようとしている地方都市の夜があった。途切れ途切れにチェーンの居酒屋の看板だけが目立ち、遅い夕食を狙っていた俺は、途方に暮れながら少しこの繁華街を徘徊することとなった。 覚束無い記憶を頼りにとある商店街を目指すと、周辺と比べると少しだけ異質な店構えが静かなその商店街の片隅に浮かび上がっていた。 ――あった。 「CHAMONIX」は何も変わらないまま、そこにあった。 遠目にほの暗い店内を覗いてみると、カウンターの中には白いスーツのバーテンダーがふたり。その手前のほうが恐らく「マスター」だろう。カウンターには7、8人の客がずらりと並んでいて、もしそのまま店の扉を押し開いたとしても、どうもゆっくりと呑める雰囲気ではなさそうだった。 俺は当初の計画通り、「CHAMONIX(シャモニー)」には入らず、狙いをつけていた近くの小さな居酒屋で軽く食事をした。思っていたよりも肴が美味しかったが、ビールジョッキ一杯で抑えて、そして満を持して「CHAMONIX」へ向かった。 「――いらっしゃいませ」 店内にはカウンター席で小さなカクテルグラスを前に女性客が一人座っているだけだった。間接照明にさまざまな酒のボトルが浮かび上がり、低く静かにジャズが聞こえてくる。 どうも出来すぎたシチュエーションである。 俺は若いバーテンダーに促され、カウンター席の奥のほうへ腰掛けた。しばらく間があった後、バーテンダーが静かに言った。 「何かお作りしましょうか」 ええと……。こんな落ち着いた雰囲気の店に入るのは実は久し振りで、少しだけ気負っているような気分もあったが、若いバーテンダーの穏やかな声に俺は答えた。 「ええと、ネグローニをお願いします」 はい――。彼は小気味良くすぐ後ろを振り返ると、ずらり並べてあるボトルの中からカンパリをひらりと取り出した。 すぐ隣の女性客は少し酔っているようで、今度はちょっと甘い奴をお願いするわ、と口にしていたカクテルグラスをカウンターに置いた。そしてそれまでマスターと話題にしていた、映画に出てくるカクテルの話を再び語り始めた。マスターは時折女性客のほうに視線を移し相槌を打ったりしていたが、少しのタイミングを見計らって、俺の目の前にグラスを置いた。赤い液体の中に、過ぎる程に透明な氷がふたつ、かちりと鳴った。 「ネグローニです」 暫く俺は黙ってそのすこし苦いカクテルを口に運んでいたが、程なくして若いバーテンダーが俺に話しかけてきた。 気分のいいバーテンダーだった。 俺は、この店は大切な友人が数年前に紹介してくれた店であること、久し振りにここで飲みたくなって店を訪れたこと、莫迦の一つ覚えのように、一杯目は必ず「ネグローニ」を注文してしまう理由、というような話をした。若いバーテンダーは笑顔で俺の話に耳を傾け、決して押し付けではない話口で“酒の飲み方”の話をしてくれた。
「CHAMONIX」を紹介してくれた彼に、この店を訪れた話をしたらきっと羨ましがるだろうな、というようなことを考えていた。そして、あの日、彼と訪れた「CHAMONIX」も、そしてこの夜、俺一人で訪れた「CHAMONIX」も、変わらずに気分のいい時間を与えてくれた。 若いバーテンダーが二杯目に薦めてくれた「モヒート」のフレッシュミントに負けないくらいのさわやかな気分で、俺は「CHAMONIX」を後にした。
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