のづ随想録 〜風をあつめて〜
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【のづ写日記 ADVANCE】

2003年11月22日(土) 気まずいサイン

『広告宣伝の人から、今すぐ決めてくれって言われてるんです』
 仕事で外出していた俺の携帯電話に同僚から連絡が入った。
『大沢、篠塚、遠藤。――誰にします?』
 愛媛県松山市に新たに進出することを決めたわが社は、そのための説明会を現地で開催する準備を進めていた。俺はその担当の一人であるわけだが、説明会のゲスト講演者として、スポーツ関連の著名人をいろいろ当たっていて、いよいよ候補が絞られた。
 大昔日本ハムの監督をやっていた、ご存知大沢親分。ジャイアンツの名手であり今季はコーチも勤めていた篠塚、かつて大洋ホエールズの投手陣の支えであった遠藤――この3名が急遽候補としてクローズアップされ、ブッキングの問題もあり、今すぐ決めてくれ、ということらしい。
『――誰にします?』
「……篠塚。篠塚だな」
『篠塚ですね?分かりました、すぐ広告宣伝に伝えます!』
 同僚があわてた様子で電話を切る。ほとんど俺の一存で、説明会のゲスト後援者を篠塚と決めてしまった。勿論、そこには理由はある。
 俺が、ジャイアンツファンだからだ。

 説明会当日は100名以上の参加者が集まる大盛況であった。“仕切り”を任されていた俺は説明会会場と役員さま達の控え室と受付を走り回っていた。久しぶりにかなり高い位置にモチベーションがあるのを感じていた。“篠塚に会える”これだけが、その前日まで連日深夜に及ぶ残業にも持ちこたえた支えであった。
「篠塚さんは飛行機の遅れで、到着が15分ほど遅れるそうです」
 篠塚のブッキングを担当した某大手広告代理店の営業担当くんがそう俺に伝えた。了解、とだけ言って、俺はやや深刻な顔つきで彼ににじり寄った。
「○○さん、実は……」
「なんですか、のづさん」
「先ほど用意してくださったサイン色紙なんですが……」
「ああ、アレは御社の各事務所宛に書いてもらうつもりなんですが」
「承知しています」 俺はアイフルのお父さんに見つめられるチワワのような瞳で、彼にまなざしを投げかけた。
「――ああ、サイン、いります? 僕、頼んでみますよ」
「話が早い! 実はこういうものを用意していまして……」


「ええっ、オットは篠塚に会えるの?」
 ツマはかなり本気のリアクションをしてくれた。ゲスト後援者を篠塚と決めた、その晩。
「うん、かくかくしかじかで篠塚をゲストとして招くことになったんだ」
「えー、いいなあ! 私も行こうかなあ!」
 こいつ、本気じゃねーだろうな、そう思ったが口にはしなかった。
 夫婦そろってジャイアンツファンの我が家だが、ツマはかつて篠塚の大ファンであった。篠塚がジャイアンツに入団してから紆余曲折の末レギュラーポジションを獲得するまでの顛末など、ちょうどその時代のジャイアンツのことは俺より詳しい。「中畑が怪我したおかげで篠塚はレギュラーになれたようなものなのよ」とツマはよく話していた。
「じゃあ、オットはサインをもらうんでしょ」
「一応、頼んでみようと思ってる」
「ならばゼヒこれを持って行ってくれたまえ」
 そう言って、ツマは本棚の奥底のほうから、リブロのブックカバーに包まれた一冊の本を取り出した。
「この本の、ここんとこね。ここんとこにサイン貰ってきて。私の名前で、ね」
「……」


「『嵐を超えて』ですか。篠塚さんがずいぶん昔に書いた本ですね」
 営業担当はページをめくりながら言った。
「うちの家内に持たされまして……」
「かなり古い本ですよ。よく持ってますねえ」
「なんとか篠塚さんにサインをもらっていただけませんか。社内の連中には内緒で……」
「はい、あとでタイミングをみてもらっておきますよ。まったく問題ないです」
「ありがとう!こそこそっと頼むね、こそこそっと」
「分かってます」
 “仕切り”という立場を利用して、個人的にサインなどもらいやがって――なんていう心無い批判をする輩もいるので、俺は極秘裏のうちに篠塚のサインを手に入れる必要があったのだ。

 篠塚の講演会はなかなかいい話が聞けたらしい。俺はのんびりと彼の後援を聞いているわけには行かない立場だったので、ほんの数分、会場にもぐりこんだだけだったが、あとから先輩社員に聞いてみると、一様に「やっぱプロは違うな。いい事言うよ、篠塚は」という評価が大半であった。
 講演会を終え、篠塚とわが社の役員達が控え室に戻ってきた。いやいやどうも篠塚さん本日は誠にいいお話をありがとうございました状態である。しばし雑談をした後で、くだんの営業担当くんが切り出した。
「篠塚さん、サインを頂戴したいのですが」
「ああ、いいですよ」
 篠塚は快くサインに応じてくれた。営業担当くんが篠塚に手渡したのは5枚のサイン色紙。あまり上手とは言えない文字で「○○事務所さん江」と書き添えたサインをさらさらっと書き出した。本当か否かは分からないけれど、役員達全員ジャイアンツファンということで、その間、固唾を飲んで篠塚がサインを書いている様子を一同起立で見守っていた。
 ここで俺は突如としてピンチを迎えた。俺はいつもこういう星の元に生まれていると思う。マジで。
 “こそこそっと”がキーワードだったはずの、俺が頼んだサイン。営業担当くんはナニを血迷ったか、役員たちがずらり並ぶこの場に俺の託した篠塚本を差し出してしまったのだ。
「はい、ここにサインね」人のいい篠塚は、改めてサインペンを手にした。
 おいばか、営業担当。“こそこそっと”って頼んだだろ、俺。おまえも“タイミング見て”って言ってたじゃねえかよ。
 引き続き役員達は笑顔で篠塚のサインしている様子を見守っている。もしこの場面が漫画だったら、役員達の頭の上には『その本、誰ンだよ……?』という吹き出しが浮かんでいるに違いない。
「ええと、名前もお願いします。“恵”という字にですね……」
 営業担当くんが俺のツマの名前を教えている。
「名前は間違ったら失礼だからなあ」
 いいから早く書けよ、篠塚!
 背中にいやな汗。
「おい、あの本は、なんだ?」
 俺の横に立っていた役員のひとりが、俺に静かにたずねた。そりゃそうだ、この場で突然不自然に現れた古ぼけた本。誰もがそう思っている。
「ええと――」 俺は答えた。「ずいぶん昔に、篠塚さんが書かれた本です」
「ほお……」
 いいぞ、俺!ナイス回答だ、俺! 役員の質問には答えたが、実は核心には触れていない! とっさにしてはいい回答だ! ココロの中で俺は“俺”とハイタッチをした。
 しかし、不自然な空気は依然漂い続けている。実はこの間わずか数十秒も俺には悠久の時間が流れたような感じだった。この不自然さに耐え切れず、
「すいません!そのサインは私のツマに頼まれたものなんです!」
と、俺は何度その場で土下座しそうになったか。

 出張から帰った俺は、もったいぶって篠塚サインの本をツマに差し出した。まずは喜んでくれたようなので、あの背中のいやな汗も報われたと思いたい。


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