松山出張生活が続く。 この地に長期出張に訪れてから漸くというかあっという間にというか、まずは1ヶ月が経過した。思い起こせば今年の始まりも長期出張であった。まだまだ記憶に新しい滋賀県大津市。琵琶湖の辺に暖房の殆ど効かないマンスリーマンションを借りて約3ヶ月、疲労と充実の日々がそこにあった。そして今は愛媛県松山市。こう、指折り数えてみると今年1年間の約4ヶ月は出張生活をしていた計算になる。あまつさえ本来の業務での出張も少なくは無かったので丸5ヶ月は家を留守にしていたことになるのだろう。そういう意味では、俺の不在について余り兎や角言わないツマには感謝しなければならない。 松山での生活が滋賀にいたときと決定的に違うのが“自分用の営業車がない”ということだ。今回は完ペキに事務方の仕事で松山にやってきているので営業車の割り当てがないのも仕方がない。車を駆って走り回っていればちょっとの合間に本屋などで情報を仕入れて、休日に遊びに出かける計画も立てようかという気にもなるのだが、滅多に車に乗らず一日狭い事務所に閉じ込められてノートパソコンに向かい、会社のあちこちからの電話問い合わせに対応していると、こう気分がナナメに鬱屈してくるのが分かる。だから無理やり車を使うような用事を作るようにはしているのだが。 今回の出張は滋賀と比べて仕事の質は高いが、休みの日などの楽しみは少ない。
その女性アーティストのことがいつ頃から気になりだしたのか、余り記憶にない。CDは全部持ってます、というわけでもなく、何年か前にレンタル屋で借りたベスト盤をMD録音したものが一枚愛車の中に入れ放しになっている、という程度だ。 例えば独り実家の母を見舞った帰りに、高速道路を走っているときに“彼女”をよく聴いている。それも夜、雨などがそぼ降っているとシチュエーション的にはベストだ。 その切ない歌声。透明感。楽曲そのものにはあまり惹かれないけれど、彼女が歌うその歌はとても切なく、可愛らしく、すこし元気を分けてもらえそうな魅力的な歌声。ココロのベストテン・俺の愛するアーティスト部門の中では、目立たないながらもいつも地道に10位前後を確保しているのだろう。 実は彼女がここ愛媛県松山市の出身である、ということを知ったのはつい最近だった。 朝の情報番組で彼女のライヴ情報を放送しているのを、俺はまだ20%程しか覚醒していないベッドの中でぼんやりと見ていた。 「ライヴにぜひお越しください」 彼女がブラウン館の中で小さく手を振っていた。たまたま営業車の中でFM放送で彼女が出演しているのを聴いたことがあったが、そういえばその時も松山が地元でどうのこうの……という話をしていたような気がする。 「そうか。ライヴがあるのか」 心が、動いた。
昼食をとるために事務所近くの大型スーパーへ行くと、大きなクリスマスツリーが店頭にディスプレイされていた。 「ああ……」 それを見るまで、その日がクリスマス・イヴであることに俺は少しも気づいていなかった。午前中にはファクス送付表に日付を書いたり、電話で「明日の25日までに──」だのと話しているのに、だ。結局イヴは全くフツーに過ごし(付き合いで買わざるを得なかったクリスマスケーキを少しほおばっただけで)、25日もなんら変化もなく一日が終わろうとしていた。そして奇妙な咽喉の痛みと咳は一週間前くらいからよくなる気配も見せず、風邪っぴきは直らないままであった。 タイミングとしては絶妙だ。 「すいません。今日はこれでアガらせていただきたいんですけど……」 終業時刻を少し過ぎたころ、俺は上長にか細く告げた。俺が連日深夜に及ぶ残業をこなしていることを知っていれば、それを咎めることはできないはずだ。 「早く帰って、美味いもん食って、早く寝ることだ」 事務所を後にしようとする俺の背中に、先輩社員が言った。ちょっとだけココロが傷んだけれど、まあ、仕事をサボるわけではない。 俺の行き先は、事務所からタクシーでワンメータ程の松山市内の繁華街にある小さなライヴハウス。 地図と店構えの画像を予め懐のPDAに保存しておいたので、そいつを頼りに迷うことなく店の扉を開くことができた。想像以上に小さなライヴハウス。開演20分前、小さな木の椅子やテーブルが並べられていて、ステージとも言えないような小さなステージにマイクスタンドとピアノ、アコースティックギターが傍らに2本。60人くらいの観客が少し窮屈そうに座っていた。最前列とマイクスタンドの距離は概ね2m程度、かなり手作り感の強いライヴになりそうだった。 ワンドリンク制で、俺はカンパリソーダを所望。 今はそれほどメジャーシーンで活躍しているアーティストでもなく、ましては(それがたとえ本人の地元であるにしても)こんな地方のライヴハウスに足を運ぶような客は相当のファンもしくはマニアあるいはオタクだ。たまたま2列目の一番端っこの席がひとつぽつねんと空席だったので俺はそこに案内されたのだけれど、丁度俺の前と隣の観客が“オタク”に属するタイプの連中のようだった。やれいつぞやのイベントではどうだっただの、やれ前回のツアーは福岡には行けたけど金沢は行けなかっただの(おいおい)、会話の内容がかなり耳障り。おまけに、松山市内の古本屋は掘り出し物がたくさんあって、その中でも84年の「航空ファン」(という雑誌。かなりマニアック)を見つけたときには感動しただのとこのライヴ会場とはかなり方向性の違うところで熱く語っている。俺は「航空ファン」そのものを読んでるオマエに感動したぞ、とココロのなかで軽くツッコんでみたりもした。 見れば、観客層は20代半ばを最低として、俺と同年代か少し上、といったあたりが中心。目の前のオタクはちょっと鬱陶しかったけれど、この店そのものの雰囲気は心地よかった。 「メリークリスマース……」 会場の後方席のほうから、彼女がふらりと現れた。 数年前から聴き始め、ココロのベストテンでランクインするくらいのアーティストがすぐ目の前にいるのに、俺は彼女を自然に迎え入れていた。高校生の時の同級生がライヴをやるというので見に来ました、気分はそんな感じだ。
(続く)
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