2004年01月05日(月) |
たいせつなひと(後編) |
ニットのショールを羽織り、紅色に花模様の入ったワンピース姿の彼女はそっと自分の名を名乗り、深々と頭を下げた。遅れて傍らの椅子に座ったギタリストを同時に紹介したが、どうやらそのギタリストが彼女自身のプロデューサーでもあるらしかった。 観客の目の前に彼女がいるということは、彼女の目の前に観客がいるということで、最前列の女性客に照れくさそうにまなざしの微笑を送っていた。センターの椅子に腰掛け、手の平サイズのマラカスを手にすると、アコースティックギターのストロークと同時に彼女はリズムを刻み始めた。
このライヴに足を運ぶのは、実はちょっとだけ勇気が必要だった。 まず、最近の彼女の音楽活動を全く知らないということ。俺が好きなのは、まさに俺の愛車の中にしまいっぱなしになってしまっているベストアルバムを歌っている彼女だ。しかしそのアルバムがリリースされたのは7、8年も前のこと。アーティストであれば感性や目指す音楽の方向性、音域や歌唱方法などがいい意味でも悪い意味でも変わっていって当然なのだが、俺はそれを彼女には求めたくなかった。俺が知っている彼女を、俺が知っているままで、(あわよくば彼女の代表曲も合わせて)聴きたかったのだ。 最新アルバムがリリースされていたのは知っていたが、それを買って“予習”をしなかったのも、そんなちいさな不安があったからかもしれない。全く知らない曲ばかりを聴かされるライヴというものもかなり、辛い。
モノクロームの夢を見ることがある なにもかも白と黒の世界
一曲目はやはり知らない曲だった。けれど、彼女の歌声はそんな俺のちいさな不安をすべて吹き飛ばしてくれた。知らない曲だけれど、目の前で歌ってくれている彼女は、俺が好きな彼女だ。透き通っていて、時に少女のような歌い回しの、俺が愛車のカーステレオで聴いている彼女のままだ。アコースティックギターの軽やかなストロークと小気味よいマラカスのリズムに乗って、彼女の爽やかな歌声が心に沁みてきた。 一応ファンだ、と言いたいくらいに彼女には多少の思い入れはあるが、何にしろ予備知識が皆無に等しいので、彼女が高校時代に原チャリでよく訪れた海の話(そこは、つい先日、仕事で通りかかった海辺だった)や、小田和正のツアーに参加していた話、出来上がったばかりのアルバムの話など、曲間のMCは知らないことばかりでかえって興味深かった。 そして、まさに「あっけなく」という言葉が似合うくらい、唐突にその曲が演奏された。彼女の代表曲であり、俺がその日一番聴きたかった曲だ。
好きになってよかった はじめてそう思った
目を閉じ、静かにこの曲を歌い上げる彼女を目の前にしていると、俺はこのライヴに来てよかったと心からそう思った。 小田和正のツアーに参加している最中に、小田が彼女にプレゼントしたという曲は、彼女自身のピアノ弾き語りで演奏された。ステージのピアノはセンターから俺が座っている左側に置かれていたので、その曲の間だけ、俺と彼女の距離は少しだけ短くなった。 「とっても素敵な曲なので、聴いてくださいね」 そう言いながら彼女は右手の指輪をその細い指から外し、ピアノの上にそっと置いた。そのか細い仕草とは正反対に、ゆったりとした袖口を少しだけ乱暴にたくし上げるところがかえって可愛らしく映った。 それは小田和正の曲といわれれば成る程そうだろうなあ、と聴こえる静かなメロディだった。地元の海を歌った曲でもあり、彼女自身にとっても思い入れの深い一曲のようだった。
ピアノを前に歌う彼女の横顔を見つめながら、俺は妙な錯覚に陥ったような気分だった。 俺は、もしかしたら、彼女に恋をしているのではないだろうか。それも、きっと遠くから見つめている、恋。 きっと、こんなシチュエーションだ。男とその歌い手は高校時代の同窓生。きっと男のほうが先輩なのだろう。学生時代は特別親しいという間柄ではなかったが、たまたま共通の友人がいて、ひょんなことから好きなアーティストが一緒だということが分かって、一度だけそのアーティストのコンサートに二人きりで出掛けたことがある。二人とも恋に不器用で――。 あまりにベタなシチュエーションでそれ以上の妄想はやめてしまったけれど、俺は俺のココロノナカに沸きあがった不思議な感情をヒトゴトのように面白がっていた。
ニューアルバムを中心に、彼女の代表曲、デビュー曲など、アンコールも含めた2時間弱はあっという間に過ぎていった。地元の友人達も幾人か駆けつけていたらしく、歌いながらはじけるような笑顔を見せるくらいに彼女自身もこのライヴを楽しんでいたようだった。
メリークリスマス メリークリスマス ラララ……
アンコールで最後に演奏された曲を小さく口ずさみながら、俺は席を立った。心地よい、ひとりきりのクリスマスだった。
※ ※ ※
会場の隅のほうで販売されていたCDと彼女のエッセイの両方を買うと決めたのは、決して、その場で彼女のサインがもらえるから、ということではない。──と、36歳の自分に強く言い聞かせ、俺は整理券を握り締めて所在無く会場に立ちすくんでいた。 程なくして、小さなテーブルに腰掛ける彼女の前に数人の列が出来上がった。もうちょっと、こう、仰々しさというか、もったいぶってもいいのではないかと思いたくなるくらい、自然な即席サイン会といった感じだった。サインをしてもらっている間、ファンは思い思いのことを彼女に話しかけ、彼女は両手で握手しながら笑顔で応えている。よくある光景だ。 「東京でも、こんな風なアコースティックライヴをゼヒお願いしますよ」 俺は買ったばかりのCDのジャケット写真を差し出しながら、言った。サインを手早く終えた彼女は俺を見上げて応えた。 「2月にも東京でやるんですよ。ここくらいのハコで。……今日はどちらから?」 「たまたま出張で松山に来ているんです」 目を大きく広げて、彼女はかなり驚いた表情を浮かべた。「それはそれは!」 深々とお辞儀をし、サインの礼を言うと、彼女は両手を俺に差し出しながらこう付け加えた。 「ゼヒ、2月も遊びに来てくださいね。お待ちしてますよ」 「ええ、必ず行きます」 彼女の手は細く、小さく、すこし冷たかった。 CDと彼女のエッセイの両方を買うと決めたのは、決して、その場で彼女のサインがもらえるから、ということではない。──と、36歳の自分に強く言い聞かせたが、握手できると知っていたら、もう2セットくらいは購入してしまっていたかもしれない。
今は第一線からは退いているけれど、愛する歌を歌い続けている女性アーティストと、どこにでもいるサラリーマン。意を決してたった一人で出掛けたライヴで、男は戯れだと知る彼女への恋心を抱く。その翌日、女性アーティストから男へメールが届いた。男は思い出す。そうだ、アンケート用紙にはメールアドレスを書く欄があったっけ──。
うん、これなら物語になりそうかな。 そんなことを考えながら、俺は松山の繁華街を歩いていた
|