2004年02月06日(金) |
忘れてしまう、ということ |
自覚しているのだけれど、これで結構抜けが多い。ちょっとした忘れ物や、「あれ、どこに置いたっけ」「ええと、何しようと思ったんだっけな」というようなこと。加齢による衰えというわけではない、ということは一応ここではっきりさせなければならないだろう。なぜなら、それはずいぶん昔からのことなのだ。“抜けが多い”というのは、言わば俺のキャラクターグッズみたいなもの。意味が通らないかもしれないが、まあ深く考えなくていいです。
営業の仕事で外回りをしていたとき、朝の事務所で本日の外出先での資料の準備やらスケジュールの確認やら電話対応やらばたばたすることがよくある。ようやく荷物をまとめて、「んじゃ、行ってきます!」ということになるのだが、庶務の女性に「行ってらっしゃい!」と声を掛けられれば、そんな姿があわただしくも颯爽と事務所を後にするヤリ手営業マン──という(誰にも感じることの出来ない)オーラを自身の周りに発している気分になる。 ところが、抜けの多い俺は大抵事務所を出てすぐ、たとえばエレベータを待っている瞬間などに、 「あ、××忘れた」 となることが頻繁。そのまま事務所に戻る格好の悪いことといったら。「行ってきます」と事務所を出て、そのまま外出できることのほうが少ないのではないか、というくらい、ナニかの忘れ物に気付くのだ。
今日は自分の愛用のペンを事務所内で紛失してしまって、素振りには見せなかったものの、自然な体を装いながらもココロの中はかなり狼狽していた。シャープペン・ボールペン・PDAの入力ペンという3WAYの、2,000円もしたペンだ。今日は特に外出をしたわけではないので、どこかで落としてしまったなどということは考えられない。なにより、ついさっきまで俺の右手の中にあったはずだ、という確信がかえって自分に腹立たしい。ついさっきまで俺の右手の中にあったはずのものが、何故、ない。約15分も仕事を中断して探しまくった挙句、事務所の小型冷蔵庫の上に転がっていたのを発見したときは、もう、情けなくなった。
“あるはずのものがなくなってしまい、実はこんなところにあった”という話は、実家の母親の話が最高だ。 それは俺が高校生くらいのときであったろうか。仕事から帰る母は、時折食材などを大量に買い込んでくることがあった。その日も、スーパーマーケットの大きなビニール袋を両手に提げて、母は帰宅した。そして、すぐに冷蔵庫に入れなければならない食材を選び出して、冷蔵庫の中に押し込んでいった。 しばらくして、台所で夕食の支度をしている母の様子が少しおかしいことに気付いた。俺はリビングでごろり横になりテレビを見ていたのだが、背後の母は冷蔵庫の扉を何度もぞんざいに開け閉めし、確実にいらついているようだ。 「どしたの?」 「ないのよ」 「ナニが」 「鶏肉」 「え」 「今日、スーパーで買ってきたはずの鶏肉がないのよ」 冷蔵庫の中は──と言おうとしたら、母はすでに再び冷蔵庫の中に顔を突っ込んでいる。 「ないわないわ。鶏肉がないわ」 勝手にしてくれ……。そう思いながら俺はテレビに戻った。 それから10分程してからだったろうか。「あった! 見つかった!」という母の歓喜の声が台所から聞こえてきた。俺が頭をめぐらすと、まるで格さんが悪代官達に葵の印籠を見せ付けるかのように、母はパックに入った鶏肉をこちらへ差し出していた。 「どこにあったの」 「それがね、ここ」 嬉しそうに母が指差す先は、包丁やおたまなどが収納されている台所の小さな引き出し。
なぜそんなところに鶏肉をしまったんだ。 そして、なぜそこを探したんだ。
母のそんな部分は、確実に俺に引き継がれている。
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