Sun Set Days
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2001年10月31日(水) 『Bruder,Locke』+『ツチケンモモコラーゲン』

 今日はほぼ満月。

 まずは『Bruder,Locke』(ブルーダーとラッケ)から。
 これはもちろん新しいAIBOの名前ではなくて、ある絵本の名前だ。
 池田まり子という若手の絵本作家の作品。
 発行所:バンダイ(グッズ化?)、発売元:主婦と生活社で1000円+税。
 これはオススメです。

 僕はもちろんそれなりの年齢の男の人なので絵本を日常的に買ったりはしないのだけれど(でも20歳を過ぎてから、なぜなのかいままで3人から絵本をプレゼントにもらったことがある。……本が好きと話したから?)、本に関してはそれがどんなジャンルのものであれよいと思えば買うようには(できるだけ)している。自分の関心のようなものが向くものって限られているから、それで伸ばしかけた手を引っ込めるのはもったいないと思うのだ。だから僕は普通の小説を買うように絵本を買うことができるし、『Papa told me』も買えるし、リュウ・ハナブサの『Femme Fatale』(モノクロのヌード写真集)だって買うことができる。
 いいと思えば。
 そして今回は、書店でなんとなく新刊のコーナーに置かれていたこの薄い絵本をめくってみたら、なんだかとてもよい感じだったのだ。
 それなので、さらに数ページめくってみて、ちょっとだけ考えて、手にとってレジに向かった。

 お話自体は、まだちっちゃかったときにママのうたう歌によく出てきたお星様に会いに行きたくなった二人が、お星様を探していろいろな場所をめぐるというものなのだけれど、手書き風のその文字と、絵がとても魅力的だった。
 これは実際に自分の目で確かめてもらいたかったりするので話についてはあんまり触れないけれど、たとえばブルーダーとラッケの二人は、どこにいてもマンテルというフード付のマントを着込んでいる。どのページの絵でもそうで、周りにいるほかの人たちが半袖でも、二人は頑なにマンテル姿なのだ。そういうところも結構おかしかったりする。最初に、そのマンテルについての説明がついているので、そこだけ引用。


 mantel マンテル

 いつも茶色いふわふわ毛のついたフード付のマント(茶色のコートをマントといいます。くり色になったり、チョコレート色になったり、ときにはミルクティーのような色にもなります。)を着ています。それは、春でも夏でもです。なぜかというと、そのマントが大好きだし、寒がりだからです。


 こういうのって、すごくよいと思う(寒がりって、みんな半袖だよ! とか思うのもたのしくて。よっぽど寒がりなんだなとか)。
 また、すべてのセリフに英訳も一緒についているので、そういうところも結構凝っている。
 この絵本で1000円+税っていうのは絶対にリーズナブルだと思うのだけれど、どうなのだろう。
 いま時期だと、クリスマスプレゼントにもよいような。
 僕は密かに親戚の子供にプレゼントを買ったりするおじさんというのに憧れているのだけれど、そういう親戚の子供もいないし、友人の子供はまだ小さいし。とりあえず自分で買うしかないというところ。

 でも、絵本ってそんなに読むわけじゃないから詳しくはわからないのだけれど、これはかなり当たりのような気がするのだけれど。
 絵とか絵本って自分では絶対に描けないので(ドラえもんでさえ謎の生物になる)、すごいとかんしんしてしまうし。


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 次に『ツチケンモモコラーゲン』。
 これはさくらももこと土屋賢二の書き下ろし対談集。
 おもしろかった。
 僕はさくらももこがかなり好きで、ちびまる子ちゃんのコミックスだって(実家には)全巻あるくらいだ。
 エッセイも全部読んでいるし、出たら必ず買うようにしている。
 今回はお茶の水女子大の教授で、哲学家であり、そして週刊文春などでお笑いエッセイを連載したりしている土屋賢二との対談で、「恋愛・結婚について」から「健康について」など、様々な事柄について二人が(おもしろおかしく)語り合っている。
 読んでいて思うのは、さくらももこのスタンスがすごいなあということ。
 たとえば、こういう文章がある。

 あらゆることの興味が、あまり外に向けられていないとは思います。ただ、退屈な日々ではないんですよ。仕事場で仕事をしていたら、真剣に仕事をしますし、家族と過ごす時間も真剣に過ごしています。お母さんの方を真剣にもんだり、息子のゲームに真剣につきあったり、(……)それで眠くなって真剣に睡眠をとるんです。友達と遊ぶのも真剣に遊びますし、スタッフとも真剣に仕事をしたりして真剣に食事を楽しんだりしますね。だから、その都度何をしていても真剣なので、毎日充実していますね。(123-124ページ)

 ちょっとした、ある種の悟りのような状態にいるのだ。
 たしかに、それだけ何をするにも真剣な人生というのは、充実しているのだろうなと思う。
 そして自分を省みて、そういうふうな人生を送れているだろうかと思うと、ほとんどの人はたぶんうーんとなってしまうのだろう。
 もちろん、僕もそう。
 僕も(個人的には)充実していると思っているけれど、それでも何をするにも真剣かといわれたらそんなことはない。
 ねーむーいーとベッドのうえに倒れこんだりもするし、ぼんやりとしていたらものすごい時間が経っている! という休日だってもちろんある。日々のなかで惰性でやっていることだってもちろんある。
 それなので、ちょっと衿を正そう! とか思ってしまったりもして。仕事でも遊びでもなんでも(ぼうっとするのでも)真剣にするというのは大切かもしれないと。
 あともうふたつ、よかった部分があって、

 子供の頃って、別にたいした意味もないのに、ただ空が晴れてるっていうだけでうれしかったりしたじゃないですか。町内でお祭りをやるなんてきいただけでもう胸がはりさけそうなぐらいわくわくしたり、そういう感じって大人になってからあんまり感じたことなかったんですよね。子供の頃より楽しいことがいっぱいあるはずなのに、どうしてだろうって思ってたら、久しぶりにそういう感じが戻ってきたんです。(61ページ)。

 というところと、

 私自身に関していえば、選択しているという自覚をもつことは大切だと思っているんですけど。そのほうが、誤った選択をした場合の軌道修正もすぐにできますしね。自分がどういう選択をしているかということを、日常的にクリアにしていることが肝心だと思っているんです。(161ページ)

 というところ。どちらも、考えに迷いがなくて共感がもてる。引用した文章にも同じ単語があるけれど、さくらももこはとてもクリアな人だよなあと思う。

 もちろん、土屋氏の文章もおもしろかった。

 1時間もしないで読み終えてしまえるくらいの分量なので、気軽にページをめくりたいときにはオススメです。


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 先日、とある先輩(男)といろいろと話している内に、なぜか結婚についての話になった。
 なんでそんな話になったのかはよくわからないのだけれど、意外と盛り上がる。

 その先輩はもう少しで29歳で、いまは恋人はいない。
 結構よい感じの相手はいるらしいのだが(最近も映画を観に行ったと話していた)、それでも躊躇してしまうのだそうだ。
 というのも、年齢的なもので。
 このくらいの年齢になると、付き合う=結婚となってしまう可能性が高いから、おいそれと軽い気持ちでまずは付き合ってみるということがしずらいというのだ。リスクが大きい、というような言葉を選んでいた。
 確かにそういう部分はなきにしもあらずだとは思う(このことばはひさしぶりに使ったよ)。実際、僕らの周りの同年代の友人のなかにはすでに結婚して、子供が生まれている人だってそれなりにいる(友人が子供の写真をE-mailしてきたときには、自分がものすごく大人になったような気がして、感慨深いものがあった)。だからこのくらいの年齢の人たちにとってみると、どうしたって付き合う相手との結婚をより意識せざるをえなくなってしまうのだろう。言葉に出しても出さなくても。
 だからよっぽど好きにならないと付き合えないとその先輩は話していた。
 人によっては、付き合ってみないと好きになるかどうかなんてわからないという人もいるけれど。
 まだまだ遊ぶぞと公言して憚らないやつも結構いるけど。

 長年の友人(女)と電話で話しているときには、その子はやりたい仕事ができてそのために学校を受け直すために会社を辞めて勉強をしているのだけれど、実際学校に行ったら出るときには30を越えているし、いろいろと考えてしまうところはあると話していた。ただ、後悔はしたくないので自分の夢のほうを優先させるのだということを話していて。
 その姿勢はすごいと尊敬してしまうのだけれど(応援もしている)、そういう話を聞くと、確かに自分たちがいろいろと微妙な局面に立たされるような年代になってきたのだとは思う。
 まあ、もちろん学校にいながら結婚することだってできるわけだけれど。

 ある程度の年齢になってきたら、いい人はたいてい結婚しているのと話している人もいた。
 これって、結構乱暴な言葉だと思うのだけれど。

 それにしても、今回の先輩の話ではないけれど、結婚にまつわる話題は昔と比べるとかなりの頻度で周囲から聞こえてくるようになったし、面白いエピソードだってそれなりに聞くようになってきた。
 たとえば、出会ってから2ヶ月くらいで結婚を決めた某カップルや(『60日間』っていう短編ができそう)、7年間付き合ってきて、途中に数年の遠距離を挟みつつゴールインした某カップル(おめでとう!)、幼なじみ同士で結婚した某カップル(マンガみたい)など、いろんな形があってなかなかに面白い。偶然なのか必然なのか友人のカップルで離婚をしたところはまだなくて、それなのでいまのところ話を聞く分には、結婚は(何だかんだ言っても)いいもののように思っている。
 過剰な憧れは持ってはいないつもりだけれど、結婚願望がそんなに強くはない僕でも、楽しそうに見えるくらいには。

 
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 お知らせ

 1度だけ友人の結婚式で、友人代表のスピーチというやつをやったことがあるのですが、あれは紙を見て話してもいいものだということを知らなくて、滅茶苦茶練習して何も見ないで喋りました。
 だって、(基本的には)一生に一度の舞台だから、ぶち壊しにしたらまずいと思って。しかも新郎は某県庁に勤めていたので、お偉いさんがずらりだったし……そうしたら、他の人は「最近記憶力が悪くなってしまって……失礼して紙を読ませてもらいます」とか言ってました……あの時は最高に「ええーっ」と思ったしますます緊張しました(式場には自分を追い込む意味もあって紙を持っていっていなかったので……結果は好評だったのでよかったのですけど)。


2001年10月30日(火) 伊東屋+マックトーキョー

 今日はとても嬉しいことがあったので、うかれつつ更新。


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 今日は仕事で新橋まで出掛けていて、用事終了後直帰ということになる。
 そのときの時間は18時。え、いいの? というような時間だ。
 同僚と二人でいたのだけれど、それならばせっかくだから伊東屋に行こうという話になる。
 伊東屋というのは銀座にある日本で(おそらく)一番大きな文房具店だ。地下から9階までの全フロアが文房具で埋められているビルで、文房具好きにはこたえられない場所。
 今年の夏に初めて入ったときには、もうくらくらと眩暈すらしてしまったくらい。こんな場所があったなんてという驚きと、魅力的な商品に思わずほれぼれとしてしまったのと。そのときには、スタッキングできるプラスチックの白いトレーを3つ買った(部屋のテーブルの上に置いて、公共料金の請求書とか仕事の文書などを入れて活用している)。
 そして、僕とかなりの文房具好きである上司の二人で、事あるごとにチームのメンバーに「伊東屋いいよ」と言っていたので、同僚もせっかくだから行ってみたいということになったのだ。
 同僚は、かなり喜んでいた。
 僕も改めて、いいよなあとしみじみ思っていた。いちいち手にとったりガラスケースの中の文房具を眺めているだけで嬉しくなってくる。
 ただ、今日は何も買わなかった。
 本当は昔から革表紙のノートに憧れているのだけれど、それはそういうちゃんとしたノートに日記をつけるのっていいよなあと憧れていたのであって、Web上にDaysを書いているいまとなっては買ってもきっと使わないしなと思ったりもして。

 もちろん、店内には普通の文房具屋さんに置いてあるようなものもたくさんある。というか、そういったものが大半だ。ただ、店舗が大きいので普通なら置いていないような型番のものまで在庫していたり、製図やカリグラフィの道具とか、ちょっと専門的なものまで扱っているいたりするのが大きな差別化となっているのだ。
 そして何より、輸入文具を扱っているのが好きな人にはたまらないのだろう。
 いまの時期なら手帳がそうだし、万年筆なんか聞いたこともないような(おそらくはすごいはずの)メーカーのものがたくさん並んでいる(値段ももちろんすごい)。
 また、デザイン製の高い文房具も多く置いていて、見ているだけで物欲が刺激されてしまう(買えないけど)。
 たとえば、電卓だってよくオシャレ系の雑貨屋に置いてあるLEXONのものだけではなくて、もっと何だかよくわからないけれど格好いいものをたくさん置いてあるのだ。それに財布や名刺入れや鞄も一流のビジネスマンが持つようなすごそうなやつがたくさん置いてある。個人的にはそういうのはとてもおそれおおいので、手の届く範囲の外国製のノートとか手帳に憧れたりしてしまうのだけれど。

 伊東屋みたいなお店に行くと、見る楽しさというのも買物のひとつなのだなとあらためて思わされる。

 そして季節柄、9階の特設会場ではカレンダーフェアのようなものをやっていた。
 カレンダー!
 カレンダー選びって、どうしたって慎重にならざるを得ない暮れの一大イベントのひとつだ。
 だって、一年間も部屋にあるものなのだ。お気に入りのものにしたいと切実に思ってしまう。
 実家にあるカレンダーは近くのプロパンガスの会社とか何だか商店のやつがいいのだけれど、一人暮らしの自分の部屋のやつはやっぱり自分でちゃんと選びたいのだ(勝手だなあ。でも、そういうカレンダーの横に毎月書いてあった格言は結構深層心理に叩き込まれていると思う。あれは子供の頃に見させるべき)。
 ということで、結構真剣にいろいろ見比べてしまったのだけれど、今日は買わなかった。
 今度また他の店でも見てみよう。
 昔はシンプル・イズ・ベストということで無印良品の白い書き込みができるやつを何年も使っていたのだけれど、今年はいままで買わなかったようなやつにしようかなと思ったりもしている(ちなみに、無印のを使っていたときにはそれに読んだ本や見た映画のタイトルを色を分けて書き込んでいた。そして年末にカレンダーをめくりながらその年の個人的なベスト10を決めていたのだ。そういうのって、誰に見せるわけでもないのにやたらと楽しかった)。
 いずれにしても、カレンダーや手帳選びで迷うのは年末がきたという感じがして嬉しくなるし、年末という言葉でくくられるできごとのほとんどすべてを、僕はすきなのだなとあらためて思わされる。


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 以前のDaysに、10月から山手線沿内のマックが「マックトーキョー」という名称に変わり、サラダやシナモンロールなどのメニューが追加されるようになると書いた。
 今日、朝マックで初の「マックトーキョー」体験をした。
 もちろん、看板が掛け変わっているわけでもないし、ただ入り口に「マックトーキョー」と書かれたシールが貼られているくらい。ものすごく控え目だ。
 ただ、メニューを見ると、オムレタスサンドという見たことのないメニューがあって、サラダが2種類、スープが3種類(クラムチャウダーなど)、プレミアムコーヒーが数種類、そしてシナモンロールなどがちゃんと追加されている。マックでサラダ、というのがあらためて見ると結構新鮮。
 オムレタスサンドのバリューセットとチキンサラダを頼んだのだけれど、オムレタスはともかく、サラダはおいしかった。セットに(たしか)180円追加でサラダを頼むことができるので、他のチェーンと比べるとかなりリーズナブルと言えるだろうし。
 また、そこはマックビジョンのある店だった。
 マックビジョンというのは、店内の壁にかけられた大型ディスプレイで、そこでオリジナルの情報番組(音楽系が多い)を放映しているものだ。画面の右3分の1が広告で、それがころころ変わるので結構忙しない感じだったりする。ガストの一部の店舗にもそういった大型ディスプレイがあるけれど、食べている人のほとんどが見ていないような気がしないでもない。
 ただ、新聞に書いていたのだけれど、マックでも注文を受けてから作りはじめる実験をはじめているということでもあるし、ある本にはカウンターの上にあるメニューを液晶ディスプレイにしたいというようなことが書かれていたから、もっともっと様々なところが変わっていくのだろうなと思う。
 

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 そしてそして、ジャネット・ジャクソンのコンサートのチケットが手配できました!
 ものすごーく、嬉しいのです。
 来年の1月17日に東京ドームでコンサートがあるのだけれど、そのチケットを「e+」というサイトでプレオーダー(一般発売の前に予約抽選の申し込みをするサービス)していて、今日無事チケットが手配できたというメールが入っていたのです。
 これはもう、本当に嬉しい。
 ジャネット・ジャクソンの曲には本当に様々な意味でたくさんの思い入れがあるので(いい記憶もかなしい記憶も)、生で見ることができるなんてと思うと信じられないという感じ。ライブ・ビデオを持っていて、それを見ているだけで満足していたので、臨場感もたぶんすごいだろうなと。たぶんきっとあまりの感動に泣いてしまうかもしれない……とすでに一人で盛り上がっているし。
 違う会社に勤めている先輩と一緒に行く約束なのだけれど、いずれにしても、これからコンサートの日までは、どんなに辛いことがあっても、どんなに大変なことになっても、きっと耐えられると根拠もなく思ってしまったりもして。

 嬉しいなあ。


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 お知らせ

 一般発売は11月4日10:00から。詳しくはe+のホームページへ。

 http://eee.eplus.co.jp/


2001年10月28日(日) 違うホーム

 昔、駅の時刻掲示板を見るのが好きだと話している人がいた。
 大抵の場合改札口の上にぶらさがっている、それぞれの路線の次とその次の電車の行き先と時刻を知らせているやつのことだ。
 普段は山手線とか、京浜東北線だとかを使うのに、それ以外の路線が気になってしまうと話していた。
 いやなことがあった夜なんかに、随分と遠い街が行き先になっているのを見て、いいよなと思ってしまうそうなのだ。
 実際に行くことはできなくても。
 確かに、そういう日常からの逸脱(場合によっては逃避)というものは結構魅力的だ。
 たとえば、大宮に帰らなければならないサラリーマンが、なんとなく時刻掲示板を見ているうちに東海道線に乗りこんで衝動的に小田原まで行ってしまう。
 そして、甘い後悔の余韻を噛み締めながら、思いがけない開放感を味わいながら、随分と暗くなってしまった小田原駅に降り立つのだ。
 当日だからホテルには泊まれないかもしれない。すぐに最終電車でとりあえず東京にまで戻るのかもしれない。自分の突発的な行動に狼狽して、どうしたらいいかわからなくなってしまうかもしれない。携帯電話とか、公衆電話で家族に小田原にきてしまったことを伝えるのかもしれない。伝えられないのかもしれない。結局24時間営業の健康ランドで夜を過ごすのかもしれない。

 そんな想像に駆り立てられる。
 けれども、彼は改札口を抜けたところでそういう誘惑にかられることがあっても、実際にはいつもと同じ路線に乗り込むだろう。
 ぎゅうぎゅうに混みあった埼京線で吊り革につかまりながら、押し合いへし合いしながら、いつもの家路を急ぐことだろう。

 選択肢なんてきっと無数にある。
 越えてしまえば、それらの心理的な壁なんかきっととても低い。
 ただ違うホームを選ぶだけだ。
 ただ反対方向に向かうだけだ。

 けれど、彼はやっぱりいつもと同じ路線に乗り込んでしまう。
 家族だとか、帰る部屋だとか、そういうしがらみのようなものは柔らかな縛り方ではあっても、やっぱりとても力強く人をからめとっていくものだから。そして、そういうものからの逸脱を願いつつも、からめとられているほうが、人はきっと肩の力を抜くことができるものなのだと思うし。

 そして、自分を納得させようとするなかに幸福感が生まれるし、逃避を避け得たことについての軽い安堵と自嘲がある。
 1日1日は全然違う。
 けれど、振り返ってみると同じような日々にまとめてしまおうとするのは、ほかならぬ自分の心であるわけだ。
 その方が心休まるから。
 日々はずっと続いてきたし、これからもずっと続くと錯覚しているから。

 だから、そういう日常の枠を蹴破っていく人たちは、きっとまぶしく(あやうく)見えるのだろう。
 そういう人たちって確かに少なくはあるけれどいるわけだし。
 基本的にアウトローな、奔放な人たち。
 けれども、同じ日常をおくっているという錯覚も、自由奔放な人生と同じくらい、大切なものではあると思うのだけれど。
 あとは人が、どちら側を自分で選び取るのかの話。
 何かの本にかかれていたフレーズで言えば、「人は自分が思うような自分」にしかなれないわけだし。


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 お知らせ

 僕の知り合いには、そのつもりがないのに反対方向の電車に乗ってしまう人もいます。
 致命的にないらしい方向感覚を少しは鍛えてもらいたいものです。


2001年10月27日(土) ananごっこ

 また日付が変わってから書きはじめている。

 今日はというか、今日も飲み。
 横浜駅西口交番の前で19時に待ち合わせ。
 駅から徒歩5分くらいのところにあるピザをピッツアと書いてあるような飲み屋。
 注文するときに、ピザのほうがいいのに……とか思う。
 ピッツアとか発音するのが恥ずかしいのだ。
 格好つけたような名前のメニューって、注文するのに照れてしまう。
 基本的な属性が田舎者だからかもしれない。
 そしてやや照れながら発音するので、「ナスとひき肉のピッザ」と言ってしまう。


 ピッザ。


 なんだよ、いいじゃないかあ……。


 それでも全然通じるので、なんとなく複雑な気分になる。
 まあ、とてもささやかな取るに足らないことではあるのだけれど。

 何だかんだで3時間以上話していたのだけれど、いろいろな話が出てきた中で、今日飲んでいた相手(男。5歳年下)がクリスマスを一人で過ごさないためにこれから短期集中で頑張るという話を力を込めてしていた。もうなんなら、期間限定でもいいっすから、と。
 その話を聞いていて、そうかーとか思った。もうクリスマスとか言いはじめる時期なんだ。
 来週には11月だし、確かにあっという間に12月になって、クリスマスになってしまうのだろう。
 そして、クリスマスは一人身には結構こたえる時期ということなんだろう。
 とは言え、期間限定っていうのはどうかとは思うのだけれど。
 修学旅行じゃないんだから。

 その男が前の恋人と別れてからの時期がちょうど僕と同じくらいで、じゃあ僕はどうなんだろうとちょっと思った。
 もちろんクリスマスを一人で過ごすことは寂しくはあるけれど、別にそれでもいいやという感じ。どちらにしてもケーキはちゃんと買うけど。
 よく考えたら僕はそんなにモテる方ではないし、いままでにちゃんと付き合った人は(それなりに長い期間だったにしても)5人だし、27歳の男としてはすでに枯れているのかもしれない。
 そして昨日同期と飲んでいるときに話が出てきたのだけれど、僕の場合は基本的にいろいろなことが自己完結しているので、一人の暮らしを満喫しているので別にこのままでもいいやとなってしまいがちであるようなのだ。
 でもまあ、まだ27歳なのだし、日々はなかなかに楽しいし、いいかなと思ってしまう。
 もしかしたらまだじゃなくて、もうなのかもしれないけど。


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 今日は最寄駅のひとつ前の駅で降りる。
 気持ちよく酔っ払っていたので、酔いを覚ますためにも一駅分歩こうとか思っていたのだ。
 メモリースティックウォークマンも持っているし。
 今日はCoocoや椎名林檎やJanetなんかをランダムに入れていたし。

 そのひとつ前の駅で降りると、近くに0時までやっているミスタードーナツがあって、店構えを見ているとやたらとコーヒーが飲みたくなったのでそこに入った。
 ドーナツ100円セールをやっていたので、エンゼルフレンチをひとつ頼む。
 ミスタードーナツって結構好きだ。
 ホットコーヒーとドーナツ1個という組み合わせはすごくいいと思う。
 ドーナツって、ぱさぱさしているのでそれだけでは食べられないから、飲み物が一緒のほうがよくて、その飲み物はやっぱりホットコーヒーかホットティーだよなあとか思う。
 コーヒーがおかわり自由なところもとてもよくて。
 今夜は、その前に結構いろいろ飲んだりしているので、おかわりをせずに一杯だけにしておいた。
 ミスタードーナツを出ると、ちょうど電車がきていたのか、駅の入り口からたくさんの人たちが吐き出されてきていた。
 僕もその波に混ざって歩き出す。
 この隣の駅はよく散歩の折り返し地点にする駅なので、距離感もよくわかっている。
 あんまり寒くも風が強くもなくて、普通の深夜という感じ。
 途中、こんな道路は男じゃないと歩けないというような暗い道なんかもあって(ずっと電灯がない坂道があるのだ)、なんとなく人気がないのでうたを口ずさみたくなる。
 ウォークマンから流れていたのはCoccoの「雲路の果て」や椎名林檎の「依存症」、それからJanetの「Truth」(←個人的な心のベスト10、今年のいまのところの第1位。最新アルバム『ALL FOR YOU』に収録)などなど。お気に入りの音楽があれば、散歩はよけいに楽しくなる。気持ちだけは、どこまでも歩いていける、と思える。


 こういう、ひとつ前の駅で降りて部屋まで歩くことを、僕はふざけて「ananごっこ」と呼んでいる。
 別にまあananじゃなくてもいいのだけれど、いかにもananなんかに書いていそうなことだからだ。

”一駅手前で降りて、部屋までウォーキング”

 とか。

 僕は基本的にインテリアと収納特集の時には男ではありながらもananを買っているので(いろんな雑誌の特集をぱらぱらと見るけれど、やっぱりananのインテリア特集はわかりやすいしためになると思う。岩立通子さんすごいよ、とか思うし)、そういうときに上記みたいな内容が書いてあったりすることもあるのだ。
 読み物ジャンキーなのでいろいろと読むのだけれど、男性誌と女性誌の違いをひとつ述べよと言われたら、女性誌のほうが圧倒的に向上心のようなものに溢れているところ、と答えるだろう。たぶん男性よりキャリアとかきちんとした生活ということに意識的な割合が高いんじゃないかと思ってしまう。
 他にも、日常でもちょっと背筋を伸ばしてみましょう的な内容が衣食住に渡って書かれているのは女性誌であることが多い。
 男性誌の場合は、もうちょっと、というか結構俗っぽいのが多いのだ。もちろん、それはそれでよいのだけれど(実際読むし)、一部のビジネス誌以外では一駅手前で降りて的な内容はまず皆無だし、一部の雑誌ではそういうのを小バカにしているようなところさえあるし。

 個人的にはそういう行動がどう見られようが別にどうでもよいのだけれど、一駅手前で降りて歩いたりするときには「ananっぽいよなー」とか勝手に思っている。昔の恋人ともそういう話をしていたりした。「あ、これってananっぽい」とか。

 でも女性誌でやれやれと思うのは、広告が多すぎるところ。
 洒落た好々爺でもあった植草甚一氏は、雑誌を読むときにまず広告を全部破いてしまうというようなことをどこかに書いていたけれど、確かにそうして見るといかに広告が多いのかがよくわかるようになる。
 広告を剥ぎ取られた雑誌(とりわけ女性誌)は、なんだか心細そうに薄くなってしまうのだ。
 女性の方は一度試してみると、なかなかに感慨深いものがあるかも。


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 今日電車の中で、「冬物欲しいなあ」とふと思った。
 横浜駅近くは、人がたくさんいるのに、渋谷ほど空間が詰まっていない。
 あんまり来ないのだけれど、結構好きな感じの駅だ。


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 お知らせ

「Truth」はほんとうに名曲なのです。サビとかいつもむねがくるしくなるくらいに。この世のあたたかいものとかせつないものとか過去のおもいでだとか、未来へのきぼうだとか、そういうものをすべて押し込んだような曲。


 歌詞カード(日本語訳のほう)よりコーラス部分を引用すると、


 真実から目を背けないで
 だって心の奥では ちゃんと分っているんでしょう
 吐き出して
 Ooh あなた
 きっとラクになるから
 Ooh あなた 人生きっと明るくなるから
 だって真実とは 人を自由にしてくれるもの


 ジャネットがいつもジャム&ルイスと一緒にアルバムを作るのが嬉しくなるのです。


2001年10月26日(金) 『正しいコンピテンシーの使い方』

 最寄駅に着いたのが0時30分。ホームに降りて行く人たちを見やりながら、こんな時間にこんなにたくさんの人たちが活動していたことになんとなく驚いてしまう。階段を下りると、タクシー乗り場には長蛇の列ができていて、今日は24人並んでいた。
 たくさん並んでいるのを見ると、ついつい面白がって数えてしまう。
 この時間帯の駅前って、タクシーの運転手にとってみれば、釣り竿を差し入れるたびに魚が釣れるような状況なんだろうなと思う。

 ちなみに、この文章を書きはじめているのは27日の午前1時15分過ぎだ。基本的にこのDaysは日をまたいでから書いたり更新することが多くなっている。

 今日は渋谷で仙台からきた同期と合流して、飲みに行く。
 待ち合わせていたのがQ-FRONTの前。
 1FがDVD売場になっていて、黒山の人だかりができていたのでちょっと覗いてみる。
 そこではBOOWY(Oに/がついている文字がなくて残念)のDVDが流れていた。

『LAST GIGS』

 当時(1988年!)の東京ドームでの解散コンサートの様子を収録したものだ。店内で画面を覗き込んでいるのは、大体僕と同じくらいの、いわゆるBOOWY世代の方たち。僕もちょっと見る。氷室京介が映っていて、若いなーと思う。
 僕はCDは持ってはいないのだけれど、もちろん聴いてはいた。僕らの世代では、学園祭にはかならずBOOWYとユニコーンをやるバンドがいたし、当時カラオケに行くと必ず一人は「ONLY YOU」とか「わがままジュリエット」なんかを歌っていた。CDを持っていなくても曲を知っているようにはなる。
 僕は上記の二つのバンドならユニコーンの方が好きだったのだけれど(と言うか、昔はCDを全部持っていたし。奥田民夫が好きだったのだ)、高校生くらいに聴いていたりまわりで流れていた音楽はやっぱり思い出深いものがある。このDVDはどれくらい売れるのだろう。
 BOOWY世代の方々は可処分所得が多そうなので、結構みんなDVDを持っていそうな感じもするし(PLAY STATION2でも見ることができるし)。

 飲みに行った店では、話に花が咲き、今日は珍しくビールの他にカクテルを一杯飲む。同期の頼んだものも「飲んでみろよ」と勧められて一口飲む。うう……苦いよ、としかめつらをつくる。ショートのカクテルは強すぎてダメだ。今日は3人で飲んだのだけれど、2人は強いので(うち1人は洒落にならない強さ)やれやれと思う。しょうがないので、アプリコットジュースなんかを飲んでいた。

 店を出たら、飲んでいたお店(道玄坂沿い)の1Fにシアトルズベスト・コーヒーがあったので、チャイをテイクアウト。シアトルズベスト・コーヒーははじめて。メニューを見て一瞬どれにしようかなと迷うのだけれど、酔っ払っていることもあって、喉が渇いているのにホットを頼んでしまう。まあ、おいしかったけれど。
 それにしてもすごい人の数。時計がなければ時間を勘違いしてしまいそうだ。

 週末の終電近くの東急線はちょっとした地獄絵図だ。ぎゅうぎゅうに混み合い、つぶされそうになる。しかも、僕は今日出張先からそのまま移動してきていたのでカバンを二つ持っていて、手がちぎれそうになる。発車間際に、これでもかと言わんばかりにさらに人が乗ってきて、うう……とか心の中でつぶやく。
 手を伸ばしてなんとか吊り革を確保する。片方のカバンを肩にかけて、もう片方のカバンをしっかりと手にとって。
 カバンの中の本を取り出すこともできない。
 ウォークマンで音楽を聴いていたのでよかったのだけれど。
 途中の駅からようやく電車内に隙間ができて、本を読みはじめることができた。


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『正しいコンピテンシーの使い方』読了。ヘイコンサルティンググループ著。PHP研究所。
 最近の人事のはやりでもあるコンピテンシーが、誤解されて理解されているという導入部分からはじまり、タイトル通り正しいコンピテンシーについて解説を行っている本。
 その誤解とは、「高い成果を出せる優秀な社員が普段とっている行動特性」という認識であり、コンピテンシーというのはそういった表面的なものではないのだということを様々なアプローチから述べていっている。このヘイコンサルティンググループというのはアメリカでのコンピテンシーの概念の提唱者デビッド・マクレランドがつくったものであり、自分たちが本流だというような説明が導入部分で触れられている。そして、最近の流行の中で、ちょっと表層をかじっただけのコンピテンシー関連本が多いと控えめに糾弾している。
 もちろん、読むほうからすると、表層をかじっただけではないのは歓迎なのだけれど、だからといって全面的にこの本が最高だと鵜呑みにできるわけでもないし。大切なのはやっぱり内容だし。
 その内容はと言うと、そういうことを書くだけあってわかりやすかった。図表が多く、最近は一時ほどのブームは去ったEQ(厳密にはEI)との絡みもあったし、とりかかりとして、コンピテンシーの概要を知るためにはよかったのではないかと思う。僕の勤めている会社でも昨年からコンピテンシーを使用しはじめているし、なにかと参考になるところも多かったし。


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 お知らせ

 さすがに今日はちゃんとねむろう。


2001年10月25日(木) たぶんもう見ることのない景色

 今日は出張先のビジネスホテルから。
 埼玉県。
 ネットにはノートパソコン+PHSで繋いでいる。僕はDoccimoユーザーなので、携帯もPHSも使うことができるのだ。そしてPHSのほうは、部屋以外でネットに繋ぐときに利用している。64Kって、いまでは早くもなんでもない速度になってしまっているようだけれど。
 ホテルは新幹線の高架の近くにあって、音が結構響くのだと聞かされていたのだけれど、帰ってきた時間が遅かったので気にはならない。
 仕事を終えた後、出張先の後輩と飲みに行ってきた。いろいろ話す。最近はこんなのが多い。もちろん今日も中ジョッキ1杯+ウーロン茶(今日は2杯)。
 明日は出張先での仕事が終わった後都内で仙台からやってくる同期と待ち合わせをしているから(そして飲むわけだから)、なかなかにタイトなスケジュールであるということができるかもしれない(終電には間に合うのだろうか?)。

 いまこの文章を書いているビジネスホテルはどうしても間接照明なので、随分と薄暗い。
 部屋の中には小さなテレビがあって、カーテンは遮光のペーズリー柄。もちろんユニットバス。
 窓の向こう側には大きな駐車場と、大きな電信塔が見えている。
 遠くにコンビニの明かり。
 たぶんもう見ることのない景色なんだと思う。

 そう考えると、不思議な気がする。

 ホテルの部屋では、椅子に座ってこの間先輩が持ってきてくれたJALの機内誌「winds」を読んでいた。先輩が飛行機に乗ったときに持ち帰ってくれたもので、10月号。読み物好きの僕のことを思い出して、おみやげに(?)持ってきてくれたのだ。そういう経緯だったので、もちろん有難くもらいながら、カバンのなかに入れっぱなしになっていた。で、今日ビジネスホテルの部屋でそれをぱらぱらと読んでいたのだ。
 その中に、飯田裕子というカメラマンがミッドウェイ環礁(北回帰線よりは北、日付変更線よりは少し東)を訪れた写真と文章のページがあって、その中の一つのエピソードがとてもよい感じだった。

「ボウリング場」というやつ。

 かつてミッドウェイに米海軍が駐留していた当時に作られた「ミッドウェイ・ボウル」という名前のボウリング場が、いまでも夕方の2時間だけ営業しているというエピソード。写真は、薄暗い、貸し切り状態になっているボウリング場のなかのものと、建物を写したものの2枚。
 レーンは歳月の後に随分とくせのある歪みをみせるようになっているとのことで、そういうところにとても味があるような気がする。
 ほとんど人のいない打ち捨てられた土地に、夕方の2時間だけ営業を続けているボウリング場。
 まるで一昔前のハードボイルド・ムービーのようだ。


――――――――――

 そして、昨晩も午前3時就寝、午前5時起床のままいまの時間まで起き続けている僕としては、さすがにそろそろ眠らないといけないような気がする。
 最近はどうも、夜中になると目が冴えてくるので、ちょっと修正していかないといけないなと思う。
 もう少しお酒の量を増やしたらすぐに眠れるような気もするけれど、疲れているときにお酒をたくさん飲むと危なそうだから、それ以外の方法で考えよう。

 もちろん、頭は眠くなくても身体は眠りを欲しているから、横になればすぐに眠ることができるとも思うのだけれど。


2001年10月24日(水) 最初で最後のテント

 小学校低学年の頃、両親がテントを買ってきた。
 うちは両親と僕と妹の4人家族なので、5〜6人用のテント。
 外側が水色のビニールで、内側が黄色になっているツートンカラーのテントだ。
 その年から、毎年夏休みのキャンプは、我が家の恒例行事となった。
 毎年お盆前後になると、車にテントを詰め込んで、北海道を回るのだ。
 ある年はサロマ湖や阿寒湖、摩周湖などの湖をめぐり、またある年にはフェリーに乗って道北の利尻・礼文島に行き、またある年には道南函館に、数年越しで北海道のメジャーな観光地をあらかた見て回った。
 その間、テントは毎年大活躍だった。旅行の日程の中にはホテルに宿泊する日もあったのだけれど、基本的には1泊はキャンプをした。車のトランクに、いつもテントを入れて出発した。
 もちろん、何年も使っていくなかで、そのテントも段々とさびれていった。支柱を形成するパイプはさび付き、ビニールにはふきとってもとることのできない汚れが致命的な影のようにこびりついて、組み立ててみるとまるでもう何年も生きている老犬のようにすら見えた。
 そして僕らにはテントを介した思い出が増えていった。

 たとえば、洞爺湖畔でキャンプをしていたときには、隣でテントを張っていた男女4人組の女の人が一人溺れてしまい、僕の父親やその辺にテントを張っていた人たちみんなが介抱を手伝っていたし(お礼にチップスターをもらった)、利尻島でキャンプをしたときには、北海道では珍しいくらいの暴風雨のなかでのキャンプになった(飛ばされてしまうかと思うような風だったのに、テントはしっかりと夜を耐え抜いた。けれど、なかなか寝付かれなかった)。
 幾つかのキャンプ場では夜に花火をしたし、テントのすぐ前にキャンピング・セットを用意して、ジンギスカンやカレーライスを食べた。そのときには携帯用ラジオからは巨人戦の実況が流れていた。
 点はやがて線となり、その記憶はゆっくりと面になっていく。
 だからいまでも、僕はそのテントの色も形も、それからそれにまつわる様々な些細な思い出もちゃんと覚えている。思い返すことができる。

 そんな夏の旅行中にはいろいろな情景があった。その大半は他愛のないものばかりだ。
 たとえば、車の中で流れていた高校野球の実況中継のことであるとか、窓の外を流れていく雄大な景色であるとか、長距離ドライブということで靴を脱いで、後部座席で眠っていたこととか。帰りに渋滞に巻き込まれたときに、ラジオでやけに懐かしいグループサウンズばかりが流れていたこととか、途中でコンビニに入ったときに、どさくさに紛れて普段は買ってもらえないマンガや雑誌を買ってもらったこととか、知らない町を幾つも眺めているのが楽しかったこととか、そういう他愛のないことをたくさん覚えている。
 その家族のキャンプは、北海道から出なかったし、たとえば道東地方なんかは何度も行くことになった。それでも、逆にそうだったからこそ、同じ観光地を数年をおいて再訪するという楽しみも得る事ができたのだった。ある観光地を車で通ったときに、小学校の頃にも来たことがあるんだよと言われる。そうだっけと答える。けれど、なんとなく記憶の片隅にそれが残っている。そしてそう言えばこれと同じ景色を見たことがあるかもしれないとか、この小さな町で確かガソリンを入れて、そのスタンドのお姉さん(当時僕は小学生だったから、そう見えた)がとても感じのよい人だったという、そのときまで忘れていたような記憶が蘇ってくるのだった。

 そのテントはいまはもうない。
 テントの最後は、僕が大学生だったときのことだ。
 大学4年間を通じて、僕抜きでも実施されていた夏のキャンプに参加したのは一度だけだった。その年はやっぱり道東を回った。
 朝から天気が悪くて、夕方から雨が降り始めた。僕らは早めに食事を済ませると、早々とテントの中に入った。
 テントのなかで、僕は小さな蛍光灯タイプの懐中電灯で照らして雑誌を読んでいた。
 テントを叩く雨の音が終わりなく聴こえている。
 風が強かった。いつの間にか眠っていた。風鳴りの音で、深夜に何度か目を覚ました。
 翌朝になっても、風は相変わらず強いままだった。
 空は曇天で、低いところを帯状の雲がやけに早く流れていた。遠く海上は幾重にも灰色の雲が連なっている。
 そのキャンプ場は海に面した草原にあって、なだらかな斜面が続いていた。海側は崖になっていて、近づくことができないように低い柵がはりめぐらされている。激しい風が吹いていて、その浅緑色の斜面では、色とりどりのテントが寒さに身を縮ませるように震えていた。
 朝はテントを片付ける時間だ。
 僕らも朝食をとったあと、他のキャンパーたちと同じように片付けをはじめた。父親と一緒にもうすでに慣れてしまったやり方で片付け始める。
 そのとき、一際強い風が吹いた。ちょうど父親と一緒に外そうとしていたテントのビニールが僕の足に絡まった。風の勢いにテントごと引きずられそうになり、父親がやってきて、僕の足に絡まったビニールを引き剥がしてくれた。
 その刹那、テントを覆っていたビニールは一気に風に運ばれた。
 テントは斜面をぐるぐると風を受けて転がると、途中から風に乗って浮かび上がり、そのまま勢いを緩めずに、柵も越えて、眼下の崖へと、海へと消えていった。ばさばさというやけに大きな音とともに。
 家族みんながそれを見ていた。近くのテントの人たちもそれを見ていた。
 テントは飛んでいってしまった。
 後には土台と、骨のようになっている支柱が残された。

 それが、10年以上もった我が家のテントの最後だった。
 崖の下でどうなっているのかは柵があって近づくことができなかったから見ることができなかった。
 ただ、それは本当に一瞬の出来事だったのだ。
 あっという間の出来事で、ただ見ていることしかできなかった。
 ちょっとの間、僕らは無言だった。
 けれども、それから気を取り直したように、まあもう使い倒したしなという話が出て、寿命だったんだよとまるでテントに命があるかのように話していた。
 その何気ない言葉がずっと耳に残っていた。
 だから、後になって僕が思ったのは、僕らのテントが、最後にテントの墓場にいったのだろうということだ。
 象が最後に誰に知られることもなく象の墓場に向かうように、テントは自らの寿命を察して、ちゃんとテントの墓場に向かっていったのだということ。
 もちろん、そんなものはどこにもないのかもしれない。テントはただ、崖下の海に浮かんでいただけなのかもしれない。やがて海の底に沈んでいっただけなのかもしれない。
 けれども、最後の朝、僕の足に絡み付いたあと、それから躊躇もなく転がっていったテントのビニールには、ある種の潔さすら感じられ、そういう最後の地に向かうように見えてならなかったのだ。転がったあと浮かび上がるときには、まるで飛行機が離陸するときのようにとても鮮やかだったし。
 その朝、父親は気を取り直して残された支柱を片付けると、車のトランクにしまいこんでいた。僕もそれを手伝った。
 車に乗り込んでそのキャンプ場を出発する際、僕は最後に、もう一度海の方を見た。
 テントの姿はどこにもなかった。
 ただ強風のため地面にしがみつくように揺れる草原と、その先に鉛色の海が見えるだけだった。


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 その後、僕の家では新しいテントは買っていない。
 子供(僕と妹)が大きくなったことが主な理由だ。夏の旅行には相変わらず(僕はほとんど参加できないけれど)行ってはいるのだけれど、そういうときにはホテルなどに宿泊するようになっている。
 たぶん、これからもテントを買うことはないと思う。
 だから、僕らの家族のテントは、それが最初で最後のものだったということになる。
 それで、よいのだと思う。
 そのテントには、この最後の風変わりな別れ方など、そのテント人生をちゃんと全うしてくれたというような感覚のようなものが個人的にとても強くあるのだ。だからあのテント以外の僕ら4人のテント、というのはちょっと考えられないし。
 テントは何年にも及んだ夏の旅行を見続けていた。それにまつわるささやかな記憶がたくさんある。他愛のない記憶を共有している数が多ければ多いほど、その関係はより強く編まれていくものなんだろうなと思う。
 猫が100年生きると猫又になるように、物もある程度以上使い続けると、ある種の精霊のような感覚が出てくるのじゃないかと思ってしまうのは、ちょっと思い入れが強すぎるのだろうか。
 でも古い家なんかの場合には、きっと性格めいたものが付与されているだろうし。もしかしたら、テントだってそうかもしれない。
 考えすぎなのかもしれないけれど。


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 今日は代休、これから髪を切りにいってきます。


2001年10月23日(火) 26時間

 最近はまた仕事量が増えてきたのだけれど、今日重い仕事がまた一つ増えた。
 来期の僕の所属するチームの予算を作ること。
 書類上は上司の管轄なのだけれど、今年は実際に作るのは僕なので、いよいよ来たかという感じ。
 チームの予算を作るのははじめてなので、とても興味深い仕事になるんじゃないかなと、結構楽しみにしていたりする。
 予算案を作るということは、個人的には来期の流れをある程度以上把握していくこと、シュミレーションしていくことだと思うので、来年の仕事やその流れにもきっと(あるいはおそらく)役に立つのだろうし。
 他の仕事の合間をぬってやっていく形になるので、できるだけ集中できる時間を作ろうと意識してみようと思う。
 と言うのも、先日読んだドラッカーの本にも書いていたこの部分が大切だと思うから(再引用)、

 次に、時間を管理すべく、自分の時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。(119ページ)

 この後で、細切れの時間をいくら細切れのまま確保しても、成果を得られるような仕事の効率は決して上がらないというような内容に続いていくのだけれど、確かにその通りだと思う。ある種の仕事に取り組もうと思ったら、どうしたってまとまった時間が必要になってくるわけだし。
 けれども、実際の日々の業務はそうはいかないことが多い。たとえば今日も、午前中をある仕事に費やそうという計画でいたのだけれど、ふたを開けてみると急遽届いていたメールの処理絡みで午前中一杯が潰れてしまった。そういうのって、別によくあることだし、その後も様々なところから様々な連絡がきたり依頼がきたり、問題が持ち上がったりして時間がどんどん細切れになっていってしまったりした。そういうのって、一人で仕事をしているわけではないのだから、当たり前のことだ。日常的によくあること。
 そういうときにも、どんどん細切れになってしまいがちの時間をなんとかずらしたりしてある程度の時間のかたまりを作ることは大切なことだと思う。無理矢理にでも、ちょっとデフラグをするみたいな感覚で。今日の場合はそうして時間を繋ぎ合わせて、結局は予定していた分の仕事は終了することができたのだけれど(帰りは遅くなったのだけれど)。
 いずれにしても、大切なのは仕事の棚卸のようなものを常にしてみることなのだろうなとは思う。
 いましている仕事のすべてが本当に必要なのだろうか? しなくてもいいもの、やり方を変えたほうがいいものはないだろうか? と考え続けること。そういうことって、きっとたくさんあるはず。大切なのは、考えること。
 それを口癖のように自分に言い聞かせていこうと、いつも思う。


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 僕の部屋の近くにはコンビニが乱立しているので、たとえば飲料の品揃えでもチェーン毎に結構異なっていることがわかる。たとえば、アルミ缶の聞茶の店もあれば、ペットボトルの聞茶の店もあるというように。
 しかも、同じチェーン店でも微妙に違っていたりすることがある。たとえば、家のすぐ近く(徒歩2分)にはファミリーマートがあって、歩いて10分くらいのところにももう1軒ファミリーマートがある。その2軒の品揃えは、やっぱり同じではないのだ。同じチェーンで、それだけ近くにあっても、やっぱり立地が異なるということなのだろうなと思う。
 夜にちょっと歩きたいときには、わざとその遠い方のファミリーマートに行くことにしている。片道10分かかるので、往復で買物の時間も入れると30分くらいかかることになるのだ。普段、僕はものすごく早足なのだけれど、そういうときには(意識して)結構のんびりと歩く。最近は寒いので上に薄手のものを羽織っていくことが多いのだけれど、行って帰ってくるといまくらいの時期だとまだ身体が暖かくなっていたりする。
 何度も書いてはいるのだけれど、やっぱり歩くことは好きだ。とりわけ夜の散歩はかなり好きだ。歩きながら見る夜の町は、いつもと変わらないはずなのにより細部に目が行き届くような気がする。
 たとえば、通り道にある写真館に飾ってある写真――着物の女の人(美人)や、おじいちゃんを中心にした幸せそうな三世代家族、びしっと決めたお兄さん――は夜の散歩中に見るときのほうが、よりいきいきとよく撮れているように見えてしまう。他にも、坂道の途中に放置されている自転車の物悲しさが増すのも夜だし、終日営業のファミリーレストランを通り過ぎるときには、深夜でもそれなりにお客がいることに驚いてしまう。
 夜の散歩をしていると、昔の人は本当に夜になるとすぐに眠っていたのだろうかとちょっとだけ思ってしまう。もちろん、生活時間帯が深夜にずれ込んでいるのは現代特有のことではあるのだろう。けれども、昔の人だって、きっと夜更かししてしまいがちな人はいたと思うのだ。
 そしてそういう人たちは、いまよりもきっと感覚的に長かったはずのそれぞれの夜を、いったいどんな風にして過ごしたのだろうと考えてしまう。

 それともうひとつ思うことは、よく言われる25時とか、26時という言い方のこと。
 いちいち説明するまでもないのだけれど、午前1時や2時を指す言葉だ。「警視庁25時」というように使われる。あの言葉って、結構不思議な響きを持っている。あんまりそういうのに慣れてしまうと、世界には本当に25時とか26時というのが存在する場所があるのだという気になってくるから不思議だ。その世界では夜は僕らの世界よりもちょっとだけ、そうたとえば2時間だけ長くて、その後で0時をむかえるのだ。だから一日は26時間。
 長い夜を泳ぐ人たちのための時間軸。
 いまの時間の計り方が絶対ではないのだし、そう遠くない未来には、そんな時間軸も”あり”になってしまうのかもしれない。


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 お知らせ

 26時とかの呼び方は、徹夜をしているときによりしっくりくるような。


2001年10月22日(月) IT社会?

 現代はIT社会と呼ばれて久しい。
 IT革命という言葉が盛んに流布されているし、ドットコムやe-コマースなど、インターネットを中心とした言葉や現象が喧伝されている。
 ただ、ブームが起きればそれに乗ってくる人たちがいることもまた事実である。柳の下に鰌は二匹もいないはずなのに、それでも類似サービスや模倣をする人たちが後を絶たない。
 たとえば、なんでもかんでも「e-」をつけるだとか、「.com」をつけるだとか。そういう安易な二番煎じ的なものが多いのが現実だったりする。
 だから、そういった様々なサービスを利用する立場としては、しっかりと真贋を見極める目を持たなければならない。

 じゃあ、どうやって見極めることができるというのだろう。
 今日は、幾つかの例を挙げ、そのポイントを見ていきたいと思う。

 まず、e-oden。これは偽物である。日本語に直すと、e-おでん。これは、売上に困ったおでん屋の店主が集客のための苦肉の策として考えたものである。
 この場合のe-は「everywhere」である。「everywhere oden」。
 直訳すると、「どこにいても、おでん」。
 もちろん、そのおでん屋が姿を消したことは言うまでもない。

 次に、お台場どっと混む。これは本物なのだが偽者という微妙な代物だ。正直な話まったくといっていいほどITとは関係がないのだが、フジテレビが自社ビルの近くでやっているイベント等を総称しているものであることは事実であり、そういう意味では本物である。

 さらに、無線LANハンバーガーショップ。これは本物である。モス・バーガーが数店舗で実験を始めたものであり、店内で無線LANでの常時接続を楽しむことができる。今後、そういう店舗を増やしていくとのことだ。もちろん、どうしてハンバーガーショップでインターネットに繋ぐ必要があるのだろうという切実な理由が見つからないにしても、今後そういう場所は増えていくのだろう。本場アメリカのスターバックスも同じ事をやっているというニュースもあったし。

 さらにe-ラーメン。これは偽物。この場合のe-は、「everyday」。エブリデイ・ラーメン。直訳すると、「毎日ラーメン」。
 もちろん、栄養が偏るのでやめたほうがいい。

 最後にe-denpo。こっちは本物。「e-電報」。インターネット上から電報を送ることができるサービスのことだ。僕も招待されたのに仕事で行くことができなかった友人の結婚式のときに、夜にe-denpoを使って電報を送ったことがある。クレジットカードの番号を入力するときにはいまだにちょっと心配だけれど、それでも便利ではある。

 幾つか例を挙げてみたが、そこに共通する本物と偽物との区別は何か、なかなかにわかりずらいかもしれない。
 e-odenもe-denpoも、そのネーミングセンスのいい加減さではそれほど大きな違いはない。
 そして実は、導入部とは矛盾してしまうが、簡単な見極めの方法など存在しないのだ。
 つまり、これはもう消費者の自己防衛になってくるので、詳細をよく調べて、本当に便利なものかどうかを自分で判別していく他はないのだろう。
 これまで以上に、情報を選択する側に、使用する側に自己責任のようなものが求められてくる世界になっていくのだ。
 もちろん、それも成熟社会の一つの形ではあると思うのだけれど。


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 こんなところにもIT革命がシリーズ【動物編】

 
 たぬき.com


 きつね.com


 e-くま


 ITライオン


 e-カモノハシ.com


 うーん。


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 お知らせ

 e-odenとe-ラーメンはフィクションです。


2001年10月21日(日) 『プロフェッショナルの条件』

 昨日は有楽町にいたため、同僚と一緒にビックカメラを覗いてみた。
 旧そごう跡地に今年オープンした大型店。
 パソコン売場に行くと、そこには「AIBOパーク」というコーナーがあった。
 あの新タイプのAIBOのラッテ(白い方)とマカロン(黒い方)、それから旧タイプのやつの合計3匹(?)が動いていた。
 そのときの僕と同僚の会話。

 僕「あ、AIBOだ」
 同僚「なんか、やけにかわいくなってんな」
 僕「10万以上するんだ」
 同僚「高いな」
 僕「買うとしたらボーナスだよな」
 同僚「おい、そりゃまずいって。○(←名前)独り者なんだから絶対AIBO買ったらやばいって」
 僕「やばいかな……やっぱり」
 同僚「やばいって。休みの日にAIBOと遊んでいる独身男性27歳って恐いぞ、すごく」
 僕「……だよな」
 同僚「人としてやばいぞ」

 と、人としてやばいとまで言われてしまう。
 さらに続けて、

 同僚「そう言えば、○(←名前)の部屋って、バツイチの部屋みたいだよな」
 僕「は?」
 同僚「電化製品とか大体揃ってるし、なんか独身男の部屋って感じじゃないだろ」
 僕「そう?」
 同僚「ますますやばいぞ。休日にAIBOと遊んでいる27歳のバツイチ。名前付けて話し掛けたりしてな」
 僕「バツゼロだって」

 ということで、AIBO購入は諦める(もともと買う気はないけど)。
 でも、何で離婚が×になってしまうのだろう。それはちょっと疑問だ。○とか×とかそういう話じゃないだろうと思うし。

 大型店を見るのは楽しい。
 ホームシアターのコーナーに同僚と一緒に座って、その重低音やらDTSやら、サラウンドやらを体験してみた。
 すごい。
『ミッション・インポッシブル』が放映されていたのだけれど、大画面の迫力にノックアウト。
 ものすごく高いけど、家にあると確かに満足度が高いのだろうなと思う。
 アパートやマンションなら、騒音の苦情がくるくらいの迫力。
 後ろからも音が。
 ホラー映画なんか見たら絶対に心臓に悪そう。貞子の井戸のシーンとか、死んでしまうかも。

 同僚と別れ、渋谷へ。
 土曜日の夜だけあって、人人また人。
 飲んだお店も混んでいたし、帰り際もハチ公前出口の辺りでは、たくさんのストリートミュージシャンたちが声を張り上げていた。
 昨日も中ジョッキ1杯+ウーロン茶しか飲んでいないのに、ちょっと頭がぼんやりするような感じで。
 弱いなあと。
 でも、本当はもうちょっと飲めると思うのだ。
 ただ、過去に飲みすぎると吐いてしまうだとか、頭がイタくて、転げまわりたくなるようなのを経験しているので、セーブしているのだ。
 お酒の席で人に迷惑をかけたくはないので。
 酒癖の悪い人をたくさんみてきているので、ああいうふうにならないようにしようと思ってしまっているようなところがあるのかもしれない。

 でも、美味しそうにお酒を飲んでいる人を見ているのは好きだったりする。
 周りの人がゆっくりと陽気になっていくのを見るのは楽しい。
 そういうときって、会話も弾むことが多いし。
 いきなりハイ・テンション! 倒れるまで叫びます! というようなのはちょっと勘弁だ。だから逆に、普通に楽しく、いろいろ話しながら飲みましょう、というような感じのほうがいい。

 今週は僕にとってはものすごく珍しく週に4日飲む機会があったのだけれど、思ったのは、自分が「やっぱりお酒は苦手なのだけれど、飲みの雰囲気自体は好き」だというごくごく当たり前の感想。

 ちょうど、昨日の「日経MJ」に若い人たちの飲酒行動についてのアンケート結果が出ていたので、若干引用。
 今月12日、13日に東京・渋谷で、20代、30代の男女百人に聞いたとのこと(平均年齢29.9歳)。

 外での飲酒機会が増えたが20人、減ったが40人、変わらないが40人。

 飲みに行く頻度は「週2、3回」(28人)、「月2、3回」(27人)、「週一回」(24人)、「月一回」(19人)、「ほぼ毎日」(2名)の順。

 何人で飲むことが多いかという質問には、

「2、3人」(52人)、「4、5人」(40人)、「5人以上のグループ」(7人)、「ひとり」(1人)。

 全体的な傾向としては飲みに行く回数は減り、より「少人数で、互いに親しい人との飲み会」へとシフトしてきている。
 驚いたのは、毎週2、3回飲みに行く人が全体の3割近くもいるという事実。
 身体とお金が持つのか?


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『プロフェッショナルの条件』読了。P・F・ドラッカー。上田惇生編訳。ダイヤモンド社。
 副題は「いかに成果をあげ、成長するか」

 本書にははじめて読むドラッカー【自己実現編】と書かれている。膨大な数に及ぶドラッカーの著作の中から、より人間に焦点を合わせたものを抜粋した、ドラッカーによる生き方・働き方読本と呼ぶことのできるような本になっているのだ。
 マネジメントの権威でもあるドラッカーの本はいままで4冊しか読んだことはなくて、その都度難しいのだけれど(読むのにいつも時間がかかってしまう)面白くはあって、それで今回そのドラッカーのスタンスのようなものをまとめている本だったから手にとってみた。
 最後の編訳者あとがきから引用すると、

 本書は、一人ひとりの人間に焦点を合わせている。とはいえ、稼ぎ方の本ではないし、単なるキャリア・アップのためのものでもない。それは「何をしたらよいか」を越え、「自分を使って何をどのように貢献したらよいか」に答えを出そうとするものである。実に本書は、「何をもって記憶されたいか」を自問せざるをえなくする。(256ページ)

 僕は本を読んでいるときに、それが小説であれば気に入った文章を、ビジネス書であればなるほどと思わされたページの上隅を小さく折るようにしているのだけれど、今週少しずつ読み進めてきたこの本は、結果としてかなりのページが折られていて驚いてしまうくらいだった。もともと、本書の性格が、膨大な著作からの引用から成り立っているいわばベスト版のようなものなのだから、それにも納得させられてしまうのだけれど。いちいちすごいのだ。

 基本的には、全篇に渡って様々な角度から現在の(そしてこれからの)知識労働者の重要性について語られている。今後は知識労働者の生産性が競争力を左右するというのが前提になっている。そして、知識労働者はなすべきことに注力していくことによって、成果をあげていかなければならないと説明されている(知識労働者中心の情報型組織が、オーケストラにたとえられているのは興味深い。それぞれが、それぞれの楽器の(知識の)スペシャリストであるということ。その個々のスペシャリストたちが一つの目標に向かって、指揮者の指揮のもと演奏を続けていくというたとえ)。
 さらにそのなすべき成果というものについて詳細を述べていったり、そのために必要なあるべきコミュニケーションについて語られていたりするのだ。
 自己実現のためにこうしなさい的な本は世の中にたくさん出版されているし、重要なのはそういう本をただ読むことではなくて、実際に行動することだ。けれども、このドラッカーの本を読むと、書かれている内容の方向性は、そういった多数の本と大きくは変わることはないのに、より説得力があるように思えてしまう。それは自己実現的なものを独立したものととらえているのではなくて、社会や組織や個人の関係性のなかで位置付けていたり、マネジメントについて言及されている部分から派生してきている、分かち難い部分として説明しているからなんじゃないのかとは思う。

 また、理論的な部分よりも、経験的なエピソード的な部分の方がより印象に残るものだけれど、この本でも途中の章にある「私の人生を変えた七つの経験」という部分は非常に魅力的だった。ドラッカーがいかにして現在にいたったのかの、きっかけとなり教訓となった幾つかの個人的なエピソードを語っているところ。
 それらの経験から導き出された内容は多岐にわたる。たとえば、それはビジョンを持つことであり、神々が見ているという仕事の仕方をするということ(誰が見ていなくても、仕事に誇りを持ち、完全さを求める真摯な姿勢を持つこと)である。また、日常の中に継続学習を組み込んでいることもそうだし、新しい仕事が要求するものについて徹底的に考え抜くことも重要であると触れている(出世人事の際にそれを考えることをせずに、これまでの成功体験のある仕事のやり方を継続する者が多いと嘆いている。それでは新しい仕事では決して成功しない)。
 それらはすべて個人的な経験であるけれど、教訓自体はかなり普遍性をもっていることでもあるのだ。

 また、幾つかのなるほどと思った部分のうち幾つかを引用すると、
 
 成果を生み出すために、既存の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識がマネジメントである。しかも今日、知識は、「いかなる新しい知識が必要か」「その知識は可能か」「その知識を効果的にするためには何が必要か」を明らかにするうえでさえ、意識的かつ体系的に適用されるようになっている。知識はイノベーションにも不可欠である。(24ページ)

 貢献に焦点を合わせることこそ、成果をあげる鍵である。仕事の内容、水準、影響力において、あるいは、上司、同僚、部下との関係において、さらには会議や報告など日常の業務において、成果をあげる鍵である。
 ところがほとんどの人が、下のほうに焦点を合わせたがる。成果ではなく、権限に焦点を合わせる。(83ページ)

 私の観察によれば、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。次に、時間を管理すべく、自分の時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。そして最後に、その結果得られた時間を大きくまとめる。すなわち、時間を記録し、管理し、まとめるという三つの段階が、成果をあげるための時間管理の基本となる。(119ページ)

 情報型組織は多様性を許容する。たとえば、同じ組織構造の中に、既存のものの最適化を担当するマネジメント部門と、既存のものを陳腐化し、今日とは違った明日をつくり出すことを担当する企業化部門とを共存させる。(……)情報型組織は、組織内の個人と部門が、自らの目標、優先順位、他との関係、意思の疎通に責任をもつときにのみ有効に機能する。したがって情報型組織においては、みなが「いかなる貢献と業績が期待されているか」「何が責任か」「自分が行おうとしていることを、組織内の誰が知り、理解すれば、協力し合えるか」「組織内の誰に、いかなる情報、知識、技術を求めるべきか」「誰が、自分の情報、知識、技術を求めているか」「誰を支援すべきか」「誰に支援を求めるべきか」を問わなければならない。(170−180ページ)

 仕事が刺激を与えてくれるのは、自らの成長を期しつつ、自ら仕事の興奮と挑戦と変化を生み出しているときである。そのような能力は、自らと自らの仕事の双方を、新たな次元で見ることによって増大する。指揮者に勧められて、客席から演奏を聴いたクラリネット奏者がいる。そのとき彼は初めて音楽を聴いたという。その後彼は、上手に吹くことを越えて音楽を創造するようになった。これが成長である。仕事の仕方を変えたのではない。意味を加えたのだった。(233ページ)

 いずれにしても、「何をなすべきか」を常に考えること、成果に集中すること、弱みではなく強みに基づいて力を発揮していくこと、などが述べられている。難しい箇所も多々あるのも事実なのだけれど、それでも興味深いし、後で忘れないためにも幾つかの部分をこうやってDaysに書き留めておく。忘れてしまうことも多いから、読み返したときにまた思い起こすことができるだろうし。


――――――――――

 場所によって、交差点に横断歩道がなくて、地下道になっているところがある。
 階段を下りていくと、交差点の真下がちょっとした広場のようになっていて、それぞれの方面へ出る階段が伸びているような場所。
 いままでにそういう場所をたくさん通り抜けてきたけれど、大抵の場所にはその地域の観光地のパネルであるとか、地元のお店の看板であるとか、あるいはその市にある学校の生徒たちが作ったレリーフなんかが展示されていた。
 もちろん、地下だからスプレーでのいたずら書きのようなものもあって。
 たまに、そういう地下の中心にベンチが置かれていて、休憩ができるようになっているところもあった。
 大きな交差点の下だと、近くにある百貨店の地下入り口と繋がっているところもある。
 花屋や、カフェなんかがあったところもある。
 いずれにしても、そういう地下って少しだけ不思議だ。頭上では、たくさんの車が行き来しているのに、階段を下りただけで、やけに静かになることが多いからだ。トンネルによくあるようなオレンジ色の明かりや、青い蛍光灯のような色の照明のせいもあると思う。
 そして、どの地下もどうしてか過去にさかのぼってしまってしまっているような感覚に襲われるところも共通している。
 時間の軸がねじれてしまうように思えてしまうのだ。
 もちろん、実際にはそんなことはないのだけれど。


――――――――――

 お知らせ

 今日は仙台にいる同僚と長電話。
 来週末に東京の方に来るということで、また飲むことになりそう。


2001年10月19日(金) 季節

 今日も飲み。
 飲めないのに飲み。
 しかも、飲みってないときには全然ないのに、あるときには集中するので不思議なものだとか思う。
 実は明日も仕事が終わった後に飲みの約束が入っているし。
 今月は外食続きなのでエンゲル係数が高すぎるのだけれど、それぞれはじめて飲む人だったり半年振りに飲む人だったりするので、結局行ってしまっている。

 今日は3人で、個室っぽい空間がたくさんある居酒屋に入った。
 店内はやたらと暗くて。
 和紙の照明は定番だよなあとか思いつつ、いきなり大量のメニューを注文。
 しかもどれもかなり美味しかった。
 温泉卵の入ったサラダとか(半熟温泉卵をかき混ぜてから小皿に取り分ける)、レンコンの串焼きとか、鮭の北海漬だとか、出てきたものが当たりばかり。お通しのなすびの料理もとても美味しかったし。
 普段の食生活がかなりジャンクなので、美味しいものを食べるとやっぱり嬉しくなる。
 今日のアルコールもやっぱり中ジョッキを一杯だけで、後は定番のウーロン茶作戦。
 最後にはシャーベット(オレンジ味)。


―――――――――

 昨晩は午前3時くらいまで起きていて、眠る前にコンビニまでちょっと買物に行ってきた。
 ものすごく喉が渇いて、冷たいお茶が飲みたくなったのだ。
 そういう欲求をおさえられる夜とおさえられない夜があって、昨晩は後者。
 何がなんでもお茶を飲まなくちゃ、と唐突な衝動に見舞われたのだ。

 外に出ると、随分と寒かった。
 昨晩はかなり寒い夜で、その時間にはさらに冷え込んでいて。
 吐く息も白い。
 思わずポケットに手を入れてしまう。
 見上げると空も随分と高くて、オリオン座がうっすらと輝いているのが見えた。
 坂道を下っていく間には、ずっと「さむいさむい」と声に出さずに言いながら歩いていた。

 寒いのは嫌いじゃないし、むしろ好きなほうだと言える。
 昨晩のような冷え込みが訪れると、いよいよ長い冬がはじまるのかもしれないと思う。
 もちろん、いきなりは冬にはならないし、そのひとつのしるしでもある初雪だってまだしばらく先のはずだ。
 それでも、冬は少しずつ街を覆い始めている。
 北風が吹いて、気温が下がって、葉がゆっくりと失われ、曇り空の午後には空気が鉛を帯びたような色になる。
 そしていつの間にか、街はすっかり冬の装いを見せるようになるのだ。
 その変化はあまりにも巧妙なので、いつも不意打ちのように思える。
 そうやって、季節は移り変わっていく。

 そんなときにはたとえば夏の記憶はあまりにも遠く、まるで夢のなかでみる世界のように現実感を失っている。
 夏は確かにこの街にも存在していたはずなのに、その痕跡はもうどこにも残っていない。
 つい数ヶ月前までは、たとえば電信柱の影に、あるいは遠くに見える交差点の向こうに、確かにそれはあったのに。

 そして、そういう巧妙な季節の変化が起こっているとするなら、それは深夜であるような気がする。
 みんなが寝静まっている頃に、ゆっくりと季節同士がその位置を変えていく。
 訳知り顔の月だけがそれを見ている。季節がおとといよりも昨日、昨日よりも今日、少しずつ動き続けているのを冷静に観察している。

 夜中の国道で信号が変わるのを待ちながら、目の前を躊躇ないスピードで飛ばしていくトラックや自動車を見つめながら、そういう子供じみたことを考えていた。
 夜になると、とりわけ夜中になると、どうしたって感傷的になってしまうから、ついつい季節のことを考えたりしてしまうのだ。

 聞茶を買って帰った。
 国道で信号を待っている目の前では、相変わらずたくさんの車が猛スピードで通り過ぎていた。


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 お知らせ

 お酒一杯しか飲んでいないのに、まだちょっと頭が痛いかも。


2001年10月18日(木) スウィーテスト・デー

 今日は同僚と回転寿司に行ってきた。
 同僚が見つけてきた全部100円のお店。
 ものすごく混んでいて、結構遅い時間なのにかなりの数が流れてもいて。
 回転寿司ってすごく好きだ。
 最初にあれを考えた人は、本当にすごいと思う。
 僕の中では、カレーパンを考えた人と同じくらいすごい。
 最近は僕が入ったような低価格の店の他にもネタが新鮮な店も多いし、時間になったらタイムサービスで店の真ん中でまぐろを解体するお店なんかもあるし(あ、これは札幌にあるお店だけれど)。
 今日入ったお店は、席の前にちょっと顔をあげたくらいの高さのところにインターホンがついていて、好みのネタが回っていないときには、そのボタンを押してお好みで注文することができるようになっていた。
 ボタンを押すと、順番に声が聞こえて、「注文をどうぞ」って訊ねられる。で、「まぐろとえび」とか言うのだ。
 たくさん流れている皿のなかに「注文品」っていうのがあって、注文した皿はその上に載ってそのうち流れてくる。
 注文したからといって、自分のところまでは持ってきてくれないのだ。
 そして、目の前も壁になっていて職人さんたちが見えないようになっているので、手渡しでもらうこともできなくて。
 だから、注文してから自分のもとに流れてくるまで結構なタイムラグが生じてしまう。
 それでようやくそれらしき皿が流れてきたときには、もう随分時間が経っていたりして。

 しかも、実はそれって意外と盲点でもあって、「善意」というか「モラル」のようなものを信頼しているシステムだったりするのだ。
 だって、「注文品」と書いてあるやつでも取ろうと思えば取ることができてしまうわけだし。
 かなり座席数のあるお店でお皿もとても長い距離を回り続けているし、「注文品」もたくさん回っている。
 だから、誰のだかわからないだろうって、「注文品」って書いてある皿を食べ続けることも(推奨はされないけれど)できてしまうのだ。

 そして、回転寿司と言えば、座席に液晶テレビがついている店があるというのが最近何かで紹介されていた。
 液晶がタッチパネルになっていて、画面上で注文したいネタのところに触ると、それが流れてくるシステム。待っている間、その魚の特徴なんかも液晶画面に表示することができる。子供に喜ばれそう。
 あと、これは同僚が話していたのだけれど、お皿の下にセンサーだかチップだかが埋め込まれていて、食べ終わった後目の前の流し台のようなところにお皿を流すと、いくら食べたのかがちゃんと表示される店、というのもあるそうなのだ。
 すごい、というか驚いて声も出ない。
 技術革新が既存のサービスと結びついたときには、かなり興味深いことになるのだと思える。そんなになっていいのか? と思う反面、もっとびっくりすることになればいいのにとも思う。そして、そのうちスーパー寿司職人ロボット三平とかが開発されて、聖徳太子なみに同時にいくつ注文されてもちゃんとそれに応えることができるようになったりするのかもしれない。さらにスーパー寿司職人ロボット五郎XPとかにバージョンアップして、一分間に百以上作れるようになるとか、口からわさびが出てくるとか、目からしょうゆが出てくるとか、なぜかべらんべえ口調で喋るとか、何だかもう見ていられないようないろんな機能が備わっていくようになるかもしれない。
 ……また、脱線しはじめてる。

 いずれにしても、全皿100円だからそんなにたくさんの種類のネタがあったわけではないのだけれど、お腹一杯食べても千円と少しだったのでかなりお得な感じだった。いちいち計算もしなくてもいいし。数えればいいだけ。
 今日食べたのはおすしだったのだけれど、同じ価格の100円ショップが流行るのも納得できるような気がした。やっぱり、単純なものの方が気楽だし。


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 今週の土曜日は、「スウィーテスト・デー」なのだそうだ。10月の第3土曜日。
 【暦のツボ】っていうメールマガジンに書いていた。
 引用すると、

「親切に対して感謝と言葉とキャンディーを贈る日」

 とのこと。
 知らなかった。
 今週の土曜日は仕事で久しぶりに有楽町に行ってくるのだけれど、とりあえず出掛けにキオスクでキャンディーを買おうかなとかなんとなく思ったり。
 一日誰にもあげるチャンスがなかったらどうしようとも思うのだけれど、そんなことはまあないか。
 とりあえず、時期的に喉飴でも。
 ちょっと広めてみよう、とか思った。

 それにしても、このメールマガジン(『まぐまぐ』で登録することができる)を読んでいると、世の中には様々な記念日があるのだなと思わされる。
 たとえば、7月22日は「ナ(7)ッ(2)ツ(2)」の日だそうだ。1996年に日本ナッツ協会が制定している。
 また、5月29日は、「こんにゃく」の日だそうだ。1989年に日本こんにゃく協会が中心となって制定している。
 さらに、11月1日は、「犬の日」だったりする。これは「ワン・ワン・ワン」という犬の鳴き声から。1987年にペットフード工業会が制定している。

 世の中には、いまいち活動が見えない協会が多くてすごく楽しい。
 だって、日本ナッツ協会って、普段何をしているんだ? って結構本気で心配になってしまう。
 もしかしたらナッツ人気投票を開催したり、真剣にピーナッツの割り方を研究したりしているのかもしれない。
「ピーナッツだよ!」
「いや、ピスタチオだ!」
 とか激論を交わしていたりして。
 まあ、実際のところはナッツの良さをたくさんの人に知らしめるべく啓蒙活動を行っているのだろうけど。
 天下り機関だったりして。

 また、変り種では【拾得物の日】というのもある。
 引用すると、

「1980年(昭和55年)に東京・銀座で自動車運転手大貫久男さんが現金1億円を拾った日。結局落とし主は現れず、1億円は全額大貫さんの手に。」

 それで、【拾得物の日】が出来てしまうのだからもう本当になんでもありなんだなとか思う。

 メールマガジンを読んでいると、結構最近になって制定されたものも多い。と言うか、結構宣言した者勝ちなところすら垣間見える。
 制定って言っても、それをどこかの機関に申請し承認してもらうわけではないのだろうし。
 だから、自分たちが定めた記念日を何らかの形でアピールすれば、うまくいけばちゃんと定着したりするのだろう。メーカー側がある商品を売りたいがために、制定したような日もたくさんあるようだし。
 それだったら、自分でも勝手に記念日を作ることができるということになる。
 そういうのを考えてみるのも面白いかもしれない。

 【暦のツボ】は、いかに自分が暦に関して無知なのかがよくわかるし、おもしろいですよ。


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 お知らせ

 土曜日の朝にはとりあえずキャンディーを買ってみましょう。
 夜にはいくつ、残っているでしょう?


2001年10月17日(水) about 【Days】

 今日は久しぶりに渋谷に行ってきた。
 またもや飲み。
 と言っても、今日は一対一だったけれど。
 中ジョッキ一杯、それからウーロン茶の基本パターンは変えずに。
 渋谷のハチ公前出口に出ると、いつもQ-FRONTの壁に目がいってしまう。SHIBUYA TSUTAYAの入っているビル。
 壁に映像がいつも映し出されているところだ。今日は小雨で、交差点の映像が映し出されていた。
 以前雑誌の記事で、TSUTAYAを運営するCCCがTSUTAYAのフラッグシップとしてあの場所にこだわり続けたというような内容を読んだことがあるけれど、通常の郊外型の店舗は全国にものすごい数ある。
 個人的には、90年代とこれからきたる00年代にTSUTAYAがあった/あることって、すごく大きなことだったんじゃないかとか思っている。
 それはどういうことかというと、TSUTAYAは地方都市やかなり人口が少ないような小さな町にも結構出店しているのだ。もちろん、採算が合うかどうかは独自の出店調査ソフトのようなもので、リサーチを行ってからということは何かの雑誌で読んだのだけれど。
 そういう地方都市にTSUTAYAのような店があることで、そういう場所に住んでいる人たちにも、いわゆる旬のカルチャー(映画、音楽、本)に触れることができる機会が飛躍的に増えたと思うのだ。
 それって、きっととても大きなことだ。たとえば結構田舎の町に、フランス映画に興味がある高校生がいたとしても、基本的にはそれを見ることは難しいことが多い。ほとんどの場合、そういう映画は大都市でしか上映されないし、普通のレンタルビデオショップでは取り扱いがなかったりすることも多いし。テレビでの深夜の放映なんかを待っていたら、何年もかかってしまう。
 けれども、TSUTAYAではそういう作品の取り扱いをちゃんとしていることが多いのだ。だから、そういう高校生も興味のある、ある程度マイナーな作品を見ることができるようになる。音楽でも、本でも理屈は同じ。そして、そういうものに触れる機会が多いことが、もしかしたらその高校生の人生を変えていくかもしれないのだ。ちょっとオーバーな話になってしまったのかもしれないけれど。
 いま僕は関東に住んでいて、でもいろんな街や町に住んだり通り過ぎたりしてきて、情報格差のようなものは絶対的にあると当たり前だけれど思う。インターネットの普及は、文字通りまさに革命とも言えるような側面を拓いたけれど、かつてよく引き合いに出されていたビデオ・オン・デマンドはいまもまだ一般的に広まってはいないし、あと数年を必要としそうな感じでもあるし。

 けれど、いまの中学生や高校生が、中学生や高校生である時間はとても短いのだ。それを待っていることはできない。

 だから、レンタルビデオ/DVDを扱っている、しかも様々な作品を扱っているTSUTAYAのようなお店がたくさんあることが、実はすごく大切なことなんじゃないかと思うのだ。
 もちろん、これから技術が発達し、光ファイバーなんかのインフラが整い、ソフト面でのコンテンツも整備されたのなら、リアルな店舗に行くことなしに、部屋に居ながらにしてパソコンの前で好きな映画を見ることができるようになるのかもしれない。ネットから音楽をダウンロードするのにももっとずっと安い金額になるのかもしれない(というか、これはなるだろうけど)。けれども、それは01年の10月現在では、それらはまだもうちょっと先のことなのだ。
 この作品を見たいだとか、あの雑誌で紹介されていたCDを聴いてみたいだとか、そういう願望をかなえることができる状況に近づくこと。だから現時点ではそれはTSUTAYAやそれに類するお店が叶えてくれることなのだ。
 それって本当に大切なことだ。
 繰り返しになってしまうのだけれど、だからTSUTAYAが全国に店舗網を広げていったことはすごくよいことだと個人的には思う。
 そのおかげで、いわゆるカルチャー系へのアクセスが、東京のようにとは行かなくても(それはまずムリだろうし)、ある程度のレベルまでは平準化される助けにはなると思うし。
 CCCはCulture Convenience Clubの略だけれど、なるほど、という感じだ。
 別に回し者でも何でもないんだけど。

 もちろん、TSUTAYAだって、すべての町にあるわけじゃない。
 だからこそ、光ファイバーでも衛星でもどんどん発達すればいいのに、とも思う。
 あくまでも個人的な願望なんだけれど。


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 Text Sun Set もまる2ヶ月(ありがとうございます)。
 基本的に極個人的なページなので、有益な情報なんかも全然ないのだけれど、それでも見に来ていただいている人がいるというのは素直に嬉しかったりはする。一応カウンターが回っているので、見に来てくれている人がいるんだろうなとは思う。いるよね? もしかしたら、実は僕が夢遊病で、ねぼけながら自分でカウンターを回しているのかもしれないけど。カチカチってマウス押して。
 でも、Text Sun Set のカウンターは、更新ボタンを押してもカウントが追加されないタイプにしているので、やっぱり何人かの人には来てもらえているのだなと思う(Bbsにも書き込んでもらっているし)。
 現在のところは、基本的には日々のDaysを更新して、他のところは五月雨式に余力のあるときに更新、というスタイルを取っている(と言っても、他にたくさんコンテンツがあるわけでもないのだけれど)。自分の好きな物や事について、ちゃんと文章にしておく機会って実はなかなかなかったりもするから、それを書き留めておくことによって、自分の嗜好を自分でちゃんとわかっておこうというねらいがあったりするのだ。もちろん、それを公開しているのは同じ趣味や嗜好の人とコミュニケーションが取れたら、という気持ちでだし。
 また、Daysに関しては、日記(のようなもの)を公開するのってどうなんだろうって思うところはいまだにちょっとあるのだけれど、それでもやっぱり書き留めているし公開もしている。
 ただ、結構細かく、日々の出来事であったりかつての出来事を書き記しているのは、実はかなりの部分自分のためだったりする。数日前に昔も日記を書いていたという内容をDaysに書いたけれど、かつてノートにいちいち書いていたときにはそういうことをあんまり考えてはいなかった。ただ、日々の出来事を備忘録やスクラップブック的な意味合いで書き記していただけだった。けれど、今回のDaysの場合は、実はかなり意識的に「かつて」の出来事なんかも書くようにしている。いまのうちに、自分の記憶にある印象的な記憶をちゃんと残しておきたかったのだ。

 様々な出来事はあまりにも簡単に忘れてしまうし、いつまでもすべてを覚えている必要はもちろんないにしても、忘れ去られて記憶の海の底に沈んでしまった記憶は、もう二度と海面までは浮かび上がってはこない可能性だって結構ある。
 だから、こうやって書き留めておくことで、出来事ごと、エピソードごとに切り取っておくことによって、後になってもそれを読みさえすれば簡単に思い出せるようにしておきたかったのだ(もちろん、文章にしてしまうことで逆に制限されてしまう側面もあるのかもしれないけれど、少なくとも何もないよりはずっといい)。

 また、5年前の自分と、現在の自分と、5年後の自分は、基本的な考え方のベクトルの方向性自体はそれほど変わらなくても、その矢印の長さはおそらく変わってしまう。そして、たとえば散歩でも歩いた距離によって遠くに見える山の大きさが違って見えるように、矢印がどの長さなのかということによって、拠り立つ環境が移り変わっていくことによって、見えてくる世界もおのずと異なってくることに繋がると思うのだ。
 それなので、現在の場所からの見え方を書き記しておくことは、後になったときにあくまでも自分にとってはだけれど、興味深いものになるような気がする。
 かつての記憶も書き記しているのは、かつてのDaysがないからだ。そうやって意識的に思い立った今年から、いろいろと書き記しておこうという考えだったりするのだ。

 もちろん、そういうことをいつもいつも考えているわけではないし、ただ単純に文章を書くのが好きなので、毎日息抜きのために書いているようなところが理由のほとんどであるのも事実なのだけれど。

 それでも、こういう集積が自分にとってある種の意味を持つかもしれない、と考えると書くことがもっと楽しくなる(そしてどんなことだって、自分でやることを決めたなら楽しくなるように考えた方がいいし)。
 量より質なのかもしれないけれど、量が増えていくことがある種の質に転化するということだって十分あり得ることなのかもしれないしね。(まあ、都合のよい考えかもしれないけど)。

 あと、文章の練習だったりもする。こうやって、ある程度日々書き続けていくなかでは、調子の良いときも悪いときもきっとあって、元気なときも疲れているときもやっぱりあるのだけれど、そういうときでもある一定の調子では文章を書くことができるようになりたいなという気持ちがどこかにあるのだ。そのためには、毎日書くのがたぶん手っ取り早いのだと思うし。たとえるならスポーツだってストライクゾーンにストレートを投げることができるようになるには、何日も投げ込みの練習をしつづけないとならない、ということだ。カーブの練習をはじめるのは、ちゃんとストライクゾーンにボールが入るようになった後じゃないと。
 まずは基本の練習が大事なのだ。継続は力なり。
 もちろん、現実的に仕事が忙しくなりなりすぎてある程度以上の分量を書くことができなくなったり、何日も間隔が開いてしまうことも十分に考えられるし、様々な理由によって、更新をストップしてしまう事だってありえるのだけれど。
 それでも、いまのところは、マイペースで続けていこうと思っている(こういう個人的なものに関しては、マイペースってとても大事だ)。

 あと、昔何かの本で読んだ、

「日記には楽しいことしか書かない。読み返してふさぎこんでしまうようなものを書くのでは自己嫌悪に陥ってしまうから。そんな時間はもったいない」

 というような文章が結構印象に残っていたりするので、基本的にはふさぎこんでしまうような内容については書かないようにしよう、とも思うのだけれど。


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 アルバム『face 2 face』購入。Babyfaceのニューアルバム。
 輸入版セールか何かで、さらに300円引きだった。
 ベイビーフェイスはかなり好きだ。
 今日のDaysはアルバムを聴きながら書いている。
 ベイビーフェイスはミディアムやバラードのイメージが強いのだけれど、今回は結構アップテンポの曲も多い。店内のPOPでは、今回は自ら全曲作ったわけではなく、また様々なプロデューサーと組んでいたりするのだと書かれていた。確かに、これまでのアルバムと若干毛色が違う。
 アーティストとしてのベイビーフェイスの新境地、というやつみたいだ。
 まだ一回しか聴いていないから何とも言えない部分はあるのだけれど、結構よい感じの曲が何曲か入っている。

 ベイビーフェイスは、プロデューサーに名前が連なっていたら結構安心できるブランドのような名前だ。はじめて見るアーティストのジャケット買いのリスクを減らしてくれる魔法の名前。
 たとえば、有名なところではエリック・クラプトンの「change the world」がそうだし、他にもマライヤやホイットニー、トニ・ブラクストンなどなど早々たるメンバーに大ヒット曲を提供している。これまでにプロデュースした作品の総売上枚数は1億枚を超えているというのだから、もう半端じゃない。グラミー賞の最優秀プロデューサー部門も4度受賞している。

 そして、自分で歌っても特徴のあるよい感じの声をしているのだ。


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 お知らせ

 他にプロデューサーで期待してしまうのは、ジャム&ルイスとR.ケリー、そしてパトリック・レナードとか。


2001年10月16日(火) 『CHARA'S CLIPS 1997-2001』

 今日はプリン祭りの日。
 と言っても別に何かのお祭りが開催されたわけではなくて、実際のところは、休日だった上司が前々からみんなにオススメしていたプリンを買ってきてくれる日、というだけだったのだけれど。
 僕らはそれを勝手に「プリン祭り」と呼んでとても楽しみにしていたのだ。
 上司は前々から僕らの間にプリンを流行らせようと、様々な手を用いてきた。たとえば、プリンについて書かれたホームページをメールで紹介してきたり、そのプリンの良さを訥々と語ったりして。けれども、なかなかプリンは流行らなくて。それで、今回買って来てくれることになったのだ。
 しかも、2種類も。
 片方は「パステル」の”なめらかプリン”。
 プリンランキング(ネットの世界には、そういうのが本当にあるのだ)では常に上位を占める有名なやつ。これはなんと、上司がオススメするプリンと味の比較するために購入してきてくれたのだ。すごい。
 そして、その上司のオススメするプリンは「Gateaux de Voyage」というところの”Puding aux Vanilles”というやつ。
 プダン・オ・ヴァニーユ。
 バニラビーンズが入った、やっぱりとてもなめらかな味のカスタードプリンだ。表面に黒い小さな粒が点在しているのだけれど、それが天然のバニラビーンズ。
 両方食べてみた感想としては、両方とももちろんとても美味しいのだけれど、上司オススメの方が個人的には好きな感じだった。これは、オススメされたからというわけではなくて、本当に、なめらかなんだけどそんなにくせがなくて。
 でも、久しぶりに食べたプリンは本当においしかった。個人的にケーキは結構すきなのだけれど、プリンってなかなか買わないし、たまに買うとしてもプッチンプリンなので(※買わない)、かなり新鮮だった。カラメルもアクセントになっていてよい感じで。
 上司の希望通り、もしかりしたらプリンブームが起こるかもしれないと思えるくらいにはおいしかった。
 その上司って、個人的にとても尊敬しているできる人なので、そういうギャップがよいよなあとか思ったりもして。


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 夜は同僚と一緒にラーメン屋に行ってきた。
 いつも混んでいる店で、今度入りたいねと話していたところ。
 ちょうどその近くに行く用事があって、ついでに行ってきたのだ。
 こちらはダメでした。二人とも。
 ものすごく混んでいたのだけれど、期待していたのだけれど、それだけにショック。
 店内に入ってみるとお店がそれなりに大きくて、アルバイトが多そうなところでやばいかな、とは思ったのだけれど。
 しかも若いアルバイト同士が結構大きな声で世間話をしていて、そういうのってサービス業としてはなかなかに印象が悪くなってしまうものなのにとか思ったりもして。
 おいしいラーメン屋って、探すのは本当に難しい。
 ラーメンの嗜好って、本当に個人差が出るものだと思うのだ。もちろん、最大公約数的にみんなおいしいというところもあるけれど、ラーメンに関して言えば他の食べ物よりも、人によって味覚のストライクゾーンがより異なってくるような気がしてしまう。たとえば、僕の場合は札幌出身だしかなりラーメン好きだったりするので、やっぱり昔たくさん食べてきた札幌ラーメンが個人的にラーメンの基準になってしまっている。
 九州出身の人の多くがとんこつラーメンが基本になっているように。
 だから味で言えば味噌が多いし、麺で言えば太麺が好みだったりする。それなので関東では細麺が中心だから、なかなかに、個人的なストライクゾーンには入ってくれないということになる。まあ、注文が多いということも重々承知なのだけれど。
 そして、帰り道で「……ハズレだったね」とか言いながら歩いているときに、同僚が以前入った六角屋という有名店はやっぱりおいしかったという話をしていて、今度行ってみたいなと思う。やたらと混んでいて食べたらすぐに席を立たなきゃというオーラがすごいとも話していたのだけれど。
 さらに、理想のラーメン屋ってどういうのだろうねという話になる。
 頑固親父がやっているお店だとか、メニューが二つくらいしかないお店だとか、いろいろ話していて。
 そのときに出てきたのが、小人たちが店主のラーメン屋。
 たくさんの小人たちが眠っている間に靴を作ってくれるという童話があったけれど、こちらはたくさんの小人たちがラーメンを作ってくれるお店。もちろん日中から営業。
 ちょっと想像をふくらませてみる。

 お店に入ると、

「いらっしゃい☆」
 ってとても小さくてかわいい小人たちに挨拶されて(「ワーイ、ワーイ。お客さんだー」って後ろの方で飛び跳ねているのもいる)、

「うんしょ、うんしょ」
 ってとても小さくてかわいい小人が一生懸命スープをかきまぜてくれて、

「ジュー」
 ってとても小さくてかわいい小人が二人一組で必死に中華なべを揺らしてチャーハンをつくっていて、もう一人の小人が背伸びして塩コショーをふりかけていて、

「お待たせしましたっ」
 ってとても小さくてかわいい小人が踏み台に乗って、さらに背伸びしてカウンター越しにラーメンを渡してくれる。

 そんなお店。

 小人たちが作っているところをみるだけで、もう不味いだなんてとても言えない。
 ……って、恐いか。


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『CHARA'S CLIPS 1997-2001』のDVDを購入。
 収録曲は、

 ○ミルク
 ○DUCA
 ○光と私
 ○70%−夕暮れのうた
 ○月と甘い涙
 ○大切をきずくもの
 ○レモンキャンディ

 の全7曲。
 曲ごとに雰囲気もイメージも変わって、見ていて面白かった。特に「大切をきずくもの」のクリップ(身体と同じくらいの大きさの赤球が様々な場所を転がっていくというやつ。途中から、Charaがその赤球を押しながら閑静な住宅街の坂道や小高い丘などを歩いていく)がよかった。このクリップではCharaは長い金色(淡い茶色)の髪になっていて、それもまた似合っているし(その次の「レモンキャンディ」では黒髪なのだけれど、やっぱりそれも似合っているのだけれど)。
 映像で見るとCharaはかわかっこいい(かわいい+かっこいい)よなとやっぱり思う。特に、Charaがアップで微笑みながらうたっているときには、この人はなんでも全部お見通しなんだろうなとさえ思えてしまう。かわかっこいいなあ、ホントに。

 いまだに繰り返し見続けているCoccoにしてもそうなんだけれど、ビデオクリップってやっぱりすごく好きだ。好きなアーティストのものであればなおさら。音楽と映像の相乗効果でこられたら、魅力はやっぱり増してしまうよ。


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 変換と僕��

 プッチンプリンと出したくて変換したら、プッ陳腐リンと出てきました。
 完全黙秘を貫かせていただきます。

 →つづく


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 お知らせ

「変換と僕」は不定期連載です。


2001年10月15日(月) 試験管とかビーカーとか

 今日は8人で飲み会。
 中ジョッキ一杯で、後はウーロン茶。
 一杯でやっぱり劇的に赤くなってしまって、驚かれる。
 もう慣れっこになってはいるのだけれど、身体が受け付けないんだよなとか思う。
 ビールは最初の一口目だけ美味しいと思うのだけれど、これは厳密に言うと喉の渇きがいやされるからだし、味に関しては正直よくわからない。
 と言うことで、食べ物へ。
 カツオの刺身が美味しかった。
 牛タンは店側のほうで自粛して取り扱いを中止していた。
 狂牛病の影響のようなものは、やっぱり大きいのかもしれないと少しだけ思って。

 途中で方言の話になって、北海道出身者が他にもいたこともあって、お約束の方言が幾つか飛び交うことになった。
 たとえば、「ばくる」。
 これは交換するという意味。
 だから、「これをばくりっこしよう」というように使うのだけれど、意味は「これを交換し合いましょう」ということになる。
 あと、「なげる」。
 これは有名なんじゃないかと思うのだけれど、「捨てる」という意味。
「あ、それなげておいて」というように用いるのだけれど、相手には「?」と返されることが多い。
「……なげるんですか?」とか訊かれるし。
 方言って、その土地のものだけれど結構染み付いてしまっているから、たまに出てしまうときはやっぱりある。
 そして、中にはそれが方言だと気がついていないものなんかもあって、北海道は比較的標準語に近いと言われている分、なおさらそれが方言だと思っていなかったということもあったりする。
「とても」を示す「なまら」とかなら、すぐに方言なんだということがわかるのだけれど。


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 いままでに、何度か日記を書いたことがある。
 いままでのそれは手書きのものばかりだったのだけれど、学生だったときに断続的にと、社会人一年目から二年目にかけて、書いていた。ノートを使っていたから、気になった記事を切り取って貼り付けていたり、スクラップ・ブックみたいになっていたりもして。
 それぞれいつの間にか止めてしまったのだけれど、ちゃんととっておいてはいて、昨日ひさしぶりに目に入ったので(普段はクロゼットの奥のほうにしまってある)、ちょっと読み返してみた。全部ではないのだけれど、少し。
 それでも、やっぱり懐かしかった。当時、そんなことを考えていたんだだとか、そんな出来事があったよということだとか、あるいはそこには書かれなかったことまで、いろいろと思い出されることになって。その数年間に変わった部分はもちろんあるのだけれど、基本的な考え方や感想の抱き方のベクトルのようなものはあんまり変わっていなかったりもして。
 そして実際に読んでみて思ったのは、たとえば5年前や、7年前の自分が書いた日記を現在の自分が読むというのは、やっぱりどうしても不思議なことのような気がしてしまうということだ。書いているときには、数年後の自分が読むことになるなんてことは、ちゃんと意識して書いていたわけではないのだし。
 それでも、そんなに継続された長いものではないにしても、そうやって記録が残っていることはいいなと思った。記憶がもしかしたらすべて忘れずに自分の中に沈んでいるのだとしても、表面にまで浮かんでくるものはごくわずかだし。日記はそれを助けてくれるものになるのだろうし。
 特に、入社一年目に書いていた日記はなかなかにやる気に溢れていて、新鮮に思えたりもして(もちろん、いまだってやる気はちゃんとあるつもりではいるのだけれど)。
 いつか、このDaysのことも同じように読み返して懐かしく思ったりするのかもしれないけれど、それはちょっとだけ楽しみだったりはする。
 もちろん、「サザエさん」ネタが多いことには脱力してしまうのかもしれないけれど。

「記録」を残すことって、実際にはいいことばかりではないのかもしれないけれど。
 そのことに触れてはいなくても、その時期の出来事に触れていたら思い出したくないことまで思い出してしまう可能性は否定できないし。
 ただ、何だかんだ言って、ある種の記録や記憶は必要なんじゃないかなとはいまは思う。
 将来までは、どうかはわからないのだけれど。


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 今年の夏にあるお店に入ったときに、試験管を売っていた。
 試験管。
 理科の実験で使うようなやつだ。木の台に何本かが立てかけられていて、近くの小さな箱の中にはゴム製のキャップもちゃんと置かれてある。しかも結構安い(希望小売価格なんかわからないけれど。感覚として)。
 隣にはビーカーも置いてあった。ビーカーなんて、ものすごく久しぶりに見た。
 その店には理科の実験で使用しそうなものがたくさん置かれていて、他にも様々な種類の万華鏡や視力検査の紙やその際に使う目に当てる黒いプラスチックのやつまで売っていた。それが面白くて、随分と長い時間いろいろと見ていた(小さな石を幾つか買った)。いままでにそのお店を幾つかの街で見ているから、ちょっとしたチェーン店なのかもしれない。
 いずれにしても、どこで見かけても久しぶりなので結構面白くて。
 世の中にはいろんな店があるのだと思うし、これからも新しい独創的な組み合わせの店が出てくるのだとも思う。
 思いがけず新鮮になるお店って、なかなかに悪くないよなとか思う。
 経営は難しそうだから、大都市圏でしか成り立たないのだろうけど。
 商圏人口は、やっぱりフォーマット毎に歴然と異なってくるわけだし。


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 お知らせ

 試験管+試験管立てはインテリアにもよいかも。


2001年10月14日(日) 『パイロットの妻』

『パイロットの妻』読了。アニータ・シュリーヴ、高見浩訳。新潮クレストブックス。
 毎度のことなのだけれど、クレストブックスのラインナップは、表紙がとても印象的だ。『巡礼者たち』も『停電の夜に』も、『朗読者』だってそう。思わず大切にしたくなってしまうような、物語が気に入ったときにより特別なものになりえてしまうような装丁になっている。それはとても素敵なことだと思う。

 表紙の裏にはこう書かれている。

「午前三時過ぎ。それはノックの音から始まった。夫が操縦する旅客機の墜落を知らせに、その男はやってきた。ひとり娘と衝撃に耐え追憶にひたる間もなく、事故をめぐって信じがたい情報が続く。さらに、夫が残したジーンズのポケットから、謎めいた詩篇と走り書きのメモが見つかった。結婚の深層を浮き彫りにする話題の長篇小説。」

 パイロットの妻であるキャスリンは、結果として墜落死した夫の人生を探ることになる。激動の現在と、過去の幸福なエピソードが交互に語られ、次々と明らかにされていく事実と、夫婦の歴史が対比させられていく。「愛する人の秘密」というテーマが、優れた人物描写と豊かな表現によって語られていく。
 基本的にはストーリーテリングが見事なのだ。だからどんどん読み進めることができてしまう。とりわけ、サスペンス的な要素が物語の速度をはやめていて。けれど、基調となっているのはあくまでもストーリー展開ではなくて、「家族(の秘密と愛情について)」と傷つくこと、そしてその場所からの再生になっている。様々な出来事がとめどなく起こっていくのだけれど、最後にはある種の場所に物語が収斂されていく、骨格のしっかりした長篇なんだと思わされた。
 そういう物語は、安心して読み進めることができる。
 個人的なツボにははまらなかったのだけれど、面白いのは事実。伏線も、構成も、表現も巧み。このレベルにまできてしまっていると、あとはもう個人の好みという感じ。
 この物語の中で僕が惹かれたのは、ジュリアという主人公の祖母についてだ。彼女が発する言葉のいちいちが、まっすぐかつ説得力をもっているもので、それに惹かれた。あと比喩やたとえもよかった。
 文章もとても読みやすい訳文になっているので、秋の夜長に読書という人にはオススメできるかも。
 大きな破綻なくちゃんとまとまっている物語であるという印象を僕は受けたのだけれど。

 印象的だった文章をいくつか引用(これから読む人で読みたくない人はスクロールしてください。スクロール)。


「キャスリンも、日課の重みはよく理解している。ジュリアの家などでは、日華は混沌から身を守るための大切な手段なのだ。そしてもちろん、夫も日課の重要性はわきまえていた――」(104ページ)

「マティの背後のキッチンのドアには、数年前、教会のクリスマス・フェアでジュリアが買ったキルトのクリスマス・ツリーがかけてある。ジュリアは毎年十二月初旬にはこれを天井裏の箱からとりだしてくるのだ。ゴテゴテとした飾り付けは嫌っているくせに、一度決めたことは断固としてジュリアは守り抜く。前年飾ったものは今年も必ず飾るのだ。」(111ページ)

「あのねえ、ペンギンってねえ、雄が群れの中からたった一羽の雌を選ぶの。ペンギンの群れって、百羽以上集まってることも珍しくないのに。どうやってその一羽を区別できるのかしらね、みんな同じように見えるのに。で、雄がこれという雌に目星をつけると、なめらかな石を五個見つけてきて、それを一個ずつ雌の足元に並べるんだよ。で、雌がその雄を気に入ったら、その石を受けとるの。そうすると、その二羽はそれから一生夫婦でいるんだって」
「それはいい話ね」(116-117ページ)

「あれから十一日。その間に三、四年を生きてしまったような気がすることもあれば、ロバート・ハートが戸口に立って、あの、”ミセス・ライアンズですね?”という、自分の人生を一変させてしまった言葉を発してからまだニ、三分しかたっていないような気がすることもある。時間がこんなふうに渦を巻いているように感じられた記憶は、ほとんどない。」(178ページ)

「その顔をじっと見つめながらキャスリンは、彼が初めてこの家に足を踏み入れたとき以来頭に描いていた彼のイメージに、また新たなタッチを付け加えた。だれかと知り合うと、人はたいていそうするのだと思う。その人物のデッサンをまず頭に描き、折に触れ細部を描き込んで、どういう色彩のフォルムができあがっていくか、じっと見守る――。」(220ページ)

「でも、この十日間というもの、あなた、毎日あの子に付きっきりだったじゃないの、キャスリン。いーい、あなたがあの子のそばにいるだけで、あなたたち母子の気持ちはむしろ離れ離れになっちゃうのよ。あなたはあの子が悲しんでいる姿を見ていられない。あの子はあの子で、あなたの傷の深さを考えただけで耐えられない。だいたい、あなたたち、普段はそんなにべったりくっついているわけじゃないでしょうに」
「いまは”普段”とはちがうじゃない」
「でもね、いまはみんなが”普段”の気持ちをすこしとりもどさなくちゃいけないときなんだから」(237ページ)

「再び海面に目を凝らした。この船がこの海域を旋回しはじめて、どれくらいたったのだろう? 時間は確実にたっているのに、時の経過を把握する能力をいまは失っていた。たとえば、未来はいつはじまったのか? 過去はいつ終わったのだろう? 海中の定点を見つけようと目を凝らしたのだが、見つからなかった。
 変化は過去のすべての価値を奪ってしまうのだろうか?」(352ページ)


 そして、「週刊文春」の10月18日号に掲載されている「ミステリーレビュー」にもこの小説を含めた数冊が少しだけ語られているのだけれど、その中の文章で納得させられるフレーズがあったので、それも引用。書いているのは、池上冬樹という人。

「逆説的な言い方をするなら、人はいつの時代でも、心を揺さぶり、浄化してくれる”悲しみ”を求めてやまないのだ。人は”悲しみ”から諦観と許しを見いだす。作者は、そんな人間の弱さと許しを、ある家族のドラマを通して切々と訴える。」(157ページ)

 この文章は、『パイロットの妻』よりはその後に紹介されている『記憶なき嘘』(ロバート・クラーク)という小説について言及している箇所で用いられているものなのだけれど、それでも『パイロットの妻』にも重複する内容でもあると言うことができる。人間は弱くも驚いてしまうくらいに強くもあって、その繰り返しの中で感情が、喜怒哀楽が潤滑油や原動力として使われていく。そういうなかでは、強さと同じように、弱さも必要だったり求めてしまうということはなるほどと思う。
 かつて何かの小説で読んだ言葉”本当に、不必要なものなんて何にもないのだ。”というのは事実なんだろうなと、思ったりはする。


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 この小説は、結構前に買っていたのだけれど、ちょっと読みはじめたらおもしろくて、長篇だけあってまとまった時間がほしいなと思っているうちにずるずるときてしまった。途中、後から読み始めた『ハードボイルド/ハードラック』のほうを先に読み終えたりもして。さらに細切れの時間では某ビジネス書を読んでいたりもして。
 土曜日に時間があったので読んでいたのだけれど、最初は椅子に座って、途中からベッドで横になりながら、やっぱり起き上がったり、また横になったりして読み終えた。
 僕は長篇を読む場合、ずっと同じ姿勢でいることはできなくて、結構座ったり横になったりを繰り返してしまう。他の人ってどうなんだろう?
 いずれにしても、時間があるときに一気に長篇を読むことはやっぱり愉しい。小説の醍醐味はやっぱり長篇小説だよなとは思うし。


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 今日の帰りに、コンビニで肉まんとあんまんを買った。
 今シーズン初。
 レジで会計を待っているときに中華まん什器が目に入って、それが様々な種類で一杯になっているのを見た刹那「食べたい!」と思った。
 季節ものって、たいていそうだ。
 それが並んでいるのを見て、「そうだ! 食べなきゃ!」とか思うことが多いのだ。
 それだってもちろん少し前からお店には並んでいたのだろうけど、気温だとか、時間だとか(今日は18時前だった)、そういう諸々の要素が絡んだときに実物を見てしまうとひかれてしまうということなんだろうなと思っている。
 それが中華まんに関しては今年の場合今日だったというわけ。
 確かに、外はもう随分と暗くなっていたし、電灯の明かりがちょうどよい感じの光を投げかけていた。
 日曜だったせいか、今日はやたらと家族連れの姿を見かける日で、とりわけ30代くらいの夫婦に5〜6歳くらいの子供というトリオが多くて、そういう家族がかもしだす「暖か」なオーラに当てられてしまった部分もあったのかもしれない。なんとなく暖かいものを食べなくちゃ、というように。
 今日はちゃんと防寒の服装で外に出ていたのでそんなに寒くはなかったのだけれど、それでも雰囲気としては悪くない。
 早速部屋に帰った後で、聞茶を飲みながら(定番)、そのふたつを食べたのだった。
 正直に告白するとコンビニおでんも結構気になっているのだけれど、今年の初おでんはいつになるのやら。


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 お知らせ

 Text Sun Set が2000Hit を越えていました!
 ありがとうございます。


2001年10月13日(土) 真夜中の果て

 この間、ちょっと調べ物があったので大宅壮一文庫に行ってきた。
 世田谷区の八幡山にある、雑誌専用の図書館のような場所。
「大宅壮一文庫利用ガイド」には、「評論家大宅壮一が収集した雑誌資料を継承、明治時代以降100年余の雑誌を所蔵しています。データベースで主な所蔵雑誌の掲載記事が検索できます。」
 と書かれてある。

 具体的な数字で言うと、

「明治時代から現在まで、1万種類57万冊を所蔵しています。現在刊行されている雑誌では週刊誌、女性誌、総合月刊誌など1000種類を所蔵。6000誌の創刊号もあります。大宅壮一は「その時代の最先端の人物が携わり、その時代の知識、考え方が凝縮されている」と考え、創刊号を積極的に集めました。」

 と書かれてある。いちいち書くまでもないことだけれど、途方もない数だ。
 大宅壮一文庫では、その膨大な数の雑誌を、料金さえ払えば誰でも閲覧することができるのだ。

 今回はじめて行ってきたのだけれど、想像していたよりずっと閑静な場所にある小さな建物で、平日に訪れたこともあったせいか周囲はゆったりとした雰囲気に溢れていた。
 それでも、館内に入ると結構な人で賑わっていた。1階が来館受付とデータベース検索の場になっていて、2階で閲覧希望雑誌を読むことができるようになっている。個人であれば最初に入館料を500円支払うと、10冊まで雑誌を閲覧することができる(それ以上閲覧したい場合は、再度入館料を支払うことになる)。
 まずは1階で閲覧する雑誌をパソコンや冊子のデータベースを用いて調べ、閲覧希望用紙のようなものに記入していく。
 パソコンでの検索は、人名、事柄名、雑誌名などからすることができて、記事の見出しが検索の対象となっている。たとえば、人名で検索すると、見出しにその人名が入っている記事が検索結果として出てくることになる。ただ、それだと記事数が膨大なものになってしまうケースも少なくないから、それをたとえば時期等で限定したりして、件数を絞り込んでいくのだ。
 そして、閲覧したい雑誌の号数を決めると、記入の終了した用紙をもって2階の受付に渡す。すると、しばらくすると名前を呼ばれて雑誌を渡される。結構簡単で、かなり丁重に扱われているのだろうなと想像していたのでちょっと驚く。確かに、何かを調べるために使うのだし、1年前くらいのビジネス誌なんかの場合は、明治時代の稀少本と同じような扱いをするわけじゃないということなんだろう。
 あとは椅子に座って雑誌を閲覧する。複写希望のページがあれば短冊を挟み、複写申込書に記入する。もちろん料金がかかる。

 そんなこんなで3時間くらいそこにいたのだけれど、2階で雑誌を閲覧している人たちを見るのは楽しかった。若い人から年配の人までたくさんの人がいて、じろじろ見るわけではないのだけれど、ビジネス誌、総合誌、ファッション誌などなど、それぞれの人がめくっている雑誌の種類は本当に多岐に渡っている。会員の人は100冊まで閲覧できたりするようなので、40冊くらい積み上げて一心にページをめくっている人はおそらくそうなんだろうなと思ったり。
 あとはおそらく卒業論文なんかのために調べ物をしているらしい人もいて、真剣にメモをとっているのも印象的だった。
 フリーライター風の人もいたりして。

 一度、ふと思いついて卒業論文のテーマにしていた人名で検索をかけたときに、当時様々なところで調べて結局見つからなかった雑誌記事がちゃんと所蔵されていて、結構くやしかったりもしたのだけれど。

 ちなみに、「利用ガイド」に掲載されている<人名索引ランキング・ベスト10>(2001年3月調査)では、

 1位・松田聖子(4,364件)
 2位・長嶋茂雄(3,231件)
 3位・田中角栄(3,139件)

 となっていて、なかなかにおもしろかったりもして。そうかー、松田聖子なんだ、とかしみじみと思ったり。

 でも、この近くに住んでいる人はいいよなあとは思った。休日に、ふらりとやってきて、500円を払うと、雑誌を10冊まで閲覧することができるのだから。購入するよりはずっとコストがかからないし、もちろん図書館なら無料ではあるけれど、バックナンバーなんかの充実度に関しては群を抜いているわけだし。
 前から興味のあった場所だったので、行く機会があってよかったと思った。


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 大宅壮一文庫に行くために、三軒茶屋から東急世田谷線に乗ったのだけれど、はじめて乗った世田谷線はなんだかかなりよい雰囲気をかもし出していた。二両編成で、一律130円の定額運賃。バスのように、乗る前に運賃を支払うのだ。また、線路が走っているのも、住宅地の近辺で、線路から家並みがやけに近かったりして、昔ながらの東京の面影をまだ残しているところなんだろうなと思ったり。
 同僚と一緒にいたのだけれど、一番先頭車両の運転手の後ろ辺りに立って、電車が進んでいくのを眺めていた。
「電車でGO」が売れているらしいのが、なんとなくわかるような気がした。
 たまにそういう気分を味わうのはおそらくは新鮮なことなんだろうし。

 帰りは三軒茶屋で食事をしたのだけれど(きつねうどん+白玉あんみつ)、路地がたくさんある町で、路上駐車の自転車なんかは、自転車3台のうえに1台を横にしたりして置かれたりしたまま一緒に錆び付いていて、いったいいつからここにこんなふうに置かれているのだろうとか考え込んでしまった。まるで現代芸術のオブジェのような感じで。
 それまでちゃんと降りたことのない町を歩くのは新鮮だといつも思う。
 そんなときには、これから一体幾つの町を見ることができるのでしょうと、なんとなく考えてみたりする。


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 何年か前にやっぱり神奈川県に住んでいたときに、夜に先輩の車で大磯まで連れて行ってもらったことがあった。
 男4人で、なぜか。
 季節は確か11月か12月で、とても寒い時期。
 夜といっても、どちらかと言うと真夜中で、午前2時くらい。
 どうしてそんな時間に大磯の季節はずれの海水浴場に行ったのかはよく覚えていないのだけれど、それでも車を停めて、砂浜に出た。
 夜の初冬の砂浜はやけに風が強くて、波は随分とさめざめとして揺れていた。
「さみーよ」
「さみー、さみー」
「うおぉぉ、なんだよこれ」
「さむいねー」
 とみんなで口々に言っていた。じゃあ、何でいるんだろうとか思いながら。
 本当に、そのときどうしてその場所を訪れることになったのか、しかも砂浜で何分間かを過ごしたのかを思い出すことが全然できないのだけれど、ただやけに白く見えた砂浜だけは覚えている。砂浜はやけに大きく、風が強いにも関わらず周囲の空気のようなものはやけに静かに見えた。後になって思い返すと、世界の果てみたいだというイメージがあった。
 世界の果て。
 もちろん地球は丸いから、厳密に言うのならそんな場所はないのかもしれない。
 ただ、個人的には「世界の果て」という響きやそこから連想されるイメージがとてもすきで、それぞれの人にとっての、そういう場所があるんだろうなと思うことにしている。たくさんの人の、それぞれの意味での世界の果て。
 基本的には、荒涼としている寒々しい場所なのかもしれないし、あるいはパラダイスのようなところであるのかもしれない。
 けれども、ここは果てだとしか思えない、というような風景や情景は絶対にたくさんあるんだろうなとは思う。


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 僕は上司によく頑固だと言われる。すぐにはいはい言わないよねとか。
 自分ではそんなつもりが全然ないのにそう言われるので、たぶん頑固なんだろうなと最近は思うようなことにしている。
 頑固者として生きていこう。
 マスト・アイテムはせんべいと熱いお茶ということで。


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 口癖ってある。
 この間Bbsのほうにちょっと書いたのだけれど、僕は風邪薬の主成分のひとつ、「イブプロフェン」の響きが好きで、よく「いぶぷろふぇん、いぶぷろふぇん」と心の中で呟いていた。たとえば『ホリー・ガーデン』の果歩は「つまづく石でもあれば私はそこでころびたい」とか「左側を通って下さい。左側を通らない人にはチョウクでしるしをつけます」などの魅力的な口癖を持っているし、アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』にも、魅力的な登場人物たちの、印象的な口癖が幾つか出てくる。
 きっと、誰しも口癖を持っているのだろうなとか思う。もちろん僕も他にも口癖があるし。
 そして、口癖には声に出してしまうものと、心の中で呟くものの二つがあると思うのだ。
 僕はどちらかと言うと心の中でついつい呟いてしまう口癖が多いタイプ(ちょっと危ない)。
 前者は、相槌なんかに多いような気がする。つい「そうだねー」と言ってしまう友人とかいたし。
 そういう個人的なものって、その人の表情が見える瞬間でもあるわけだから、たまに垣間見たりするとよい感じだと思えたりする。
 いぶぷろふぇんだと、怪訝がられることが多いから、実生活では垣間見せないように気をつけようとは思っているけど。


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 お知らせ

「右側を通って下さい。右側を通らない人にはチョークスリーパーホールドをかけます」

(ちゃかしすぎは悪い癖だとわかってはいるのだけれど)


2001年10月12日(金) 回送電車

 普段とは違うものに違和感を覚えるのは当たり前のことなのかもしれない。
 先日、やや遅い朝に電車を待っていたら、僕の立っていたホームに回送電車が停車した。ゆっくりと、小さな音を立てて。回送電車だから、もちろん扉は開かない。
 そのときに、微かな違和感を感じた。
 すぐに「あ。」と思った。
 照明が消されていたのだ。
 それにはもちろんすぐに気がついたのだけれど、その一瞬の違和感がおもしろかったし、普段とは異なっていることで、電車本来の姿が明確に浮かび上がるような印象のようなものがあった。
 だから僕は読んでいた本から顔をあげて、そのまま照明の消えている回送電車のなかをしみじみと見つめてしまった。
 誰も乗っていないし、薄暗いし、中吊り広告なんかも奇妙に統一された静けさのなかに落ち着いている。
 午前中だし、外はやや白っぽい一面の曇り空で、その電車の中だけが現実から奇妙にねじれてしまっているみたいだった。
 たとえばいきなりこの電車の扉が開いてつい乗り込んでしまったら、忘れていた過去の記憶のなかとか、何かが決定的に異なっている世界にたどりついてしまうような、そんな感じがした。
 もちろん、扉は開かなかった。時間調整のためだったのか、回送電車は、しばらくするとホームから出て行ってしまった。ホームに着いたときと同じように、ゆっくりと、小さな音を立てて。
 それから二分ほどで、今度はちゃんと明かりのついた各駅停車の電車がホームに滑り込んできた。
 今度は現実だ。間違いない。
 そう思って、僕は扉が開くのを待っていたのだった。


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 昨日の深夜に、ものすごくお腹が減ってしまって部屋から歩いて10分くらいのところにある、「吉野家」に行ってきた。
 僕は24歳になるまで実は「吉野家」に入ったことがなくて(住んでいるところに、たまたまずっとなかったので)、先輩に連れられて入ったときにはかなり新鮮だった。いまでは牛丼が280円になっているし。すごい価格。
 途中、坂道を下りているときに夜空には月が浮かんでいて、けれどもそれは思いがけずかなり欠けている月で。
 ついこの間満月だったように思っていたので、なんとなく驚いたり。
 それだけ、上を見上げることが意外と少ないということなのだ、たぶん。


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 お知らせ

 1週間に2回くらいは、月を見ようとなんとなく思ったりした。
 また忘れてしまうのだろうけど。


2001年10月11日(木) Wal-Mart+1215キロ

 ウォルマート(Wal-Mart)という会社がある。アメリカのディスカウント・ストアであり、世界の小売業ランキング第一位の会社。
 売上高は年間24兆円以上で、全産業を入れてもベスト3に入ってしまう。
 おそらく、あと数年のうちに全産業で第1位になってしまうものと思われるような、そんなモンスター企業だ。
 その、ウォルマートがあと数年のうちに(早ければ来年にも)日本進出を計画しているということで、流通業がらみの専門誌ではよく記事が書かれたり特集が組まれたりしている。カルフールのこともあるし、日本でもすぐに成功するわけでもないだろうなとは思うのだけれど、何しろウォルマートのことだから、何が起こっても不思議じゃないというのも事実。
 黒船来航ということになるわけだし。
 この、ウォルマートのすごいところは数多くあるのだけれど、なかでも、情報システム的な部分に早くから注力してきたという部分が大きいと幾つかの本には書かれている。当時、ウォルマートよりも規模が大きかったKマートという同じ業態の会社があって、そこは情報システムにどちらかというと力をいれてこなかった。現在、ウォルマートの1年間で伸びた売上高は、Kマートの一年間の総売上高と同じくらいの金額になっている。

 たとえばすごいところのひとつは、店舗と本部の間に人工衛星があって、POSデータなどのやり取りを行っていること。店舗と本部の間に人工衛星なんて、ちょっともう、スケールが違う。
 他にも、ショッピング・カートのなかの幾つかには発信機が備え付けてあって、お客様が店舗に入ってから、どういう順路で通路を回り、どの棚のどんな商品を手にとったのかということもちゃんとわかるようになっている。そして、蓄積されたそのデータを基に、売場の配置換えを行っていくのだ。Aという商品とBという商品を一緒に購入されるお客様が多いようだから、AとBを近くに並べてみよう、だとか。その方がお客様はより時間をかけずに買物を楽しむことができるようになるわけだし。現代の消費者は日常品を購入する場合に関しては、できるだけ短い時間で買物を済ませたいと思っているわけでもあるし。

 ウォルマートはそんなふうに様々な仮説を立て、実施し、その結果を分析し改善や改革に結びつけることに関して、不断の努力続けているようなのだ。それなのでその成長力にも納得することができてしまう。すべてのベクトルが顧客の方を向いていて、コストに関しても徹底的に吟味して様々な施策を講じているのだからさすがと思う。
 ただ、国内の会社だって規模こそ違えどそういうことを行っていたり、行おうとしていたりはするわけだ。ウォルマートが進出してくることは個人的にはすごく楽しみで、その影響は決して小さくはないとも思うけれど(と言うか、間違いなく大きいだろう)、だからこそなおさら国内の会社だってより面白くなってくるんじゃないかと思う。激しい競争時代に突入することにはなるだろうけど。

 あと、これはまた別の話なのだけれど、以前人と話していて聞いた話。
 イギリスのドラックストアで、風邪薬の周りにレモンやオレンジなんかのフルーツも売られていたというもの。
 イギリスとか行ったことはないけれど、なるほど、という感じだ。
 風邪をひいた人が果物をほしいと思うのは自然な流れだし。
 そういうことをすることができるのって、小さなことかもしれないけれど、なかなかに大切なことかもしれないと思ったり。


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「日経おとなのOFF」という雑誌が創刊された。
 書店やコンビニに置いてある。
 僕はこの本が対象としているような「おとな」では全然(と言うかまったく)ないのだけれど、それでも買ってしまった。
 理由は「カシオペア&北斗星 豪華寝台特急列車の旅」という記事が載っていたから。
 カシオペアと北斗星。
 鉄道関係に全然詳しくない僕でも名前を知っているこの豪華列車は、タイプによってはいまだにチケットが売り出されるやいなや即完売になってしまうことで有名で、最も高いカシオペアのスイートなんて2名で料理なんかを頼むと片道で10万円(!)以上もかかってしまうとんでもない列車だったりする。飛行機で羽田から新千歳に行くときの片道は20000円台だから、いかに「豪華」なのかが偲ばれると言うものだ。
 そして費用だけでなく時間もかかる。記事によると、所要時間は16時間35分。たとえば上野を午後4時20分に発車する列車は、翌朝午前8時55分に札幌に到着する。1215キロも走るのだ。
 これはもう、時間とお金に余裕がないととても利用できない。実際フルムーンというか、ある程度中年を越えた夫婦なんかが利用していそうな感じだ。列車の中、とは言ってもちゃんと個室になっているし、ベッドだってあるし、部屋によっては液晶テレビやシャワー室なんかも完備されている。個室で窓の外を流れる景色を眺めながら、のんびりとした時間を過ごす。そういうよさそうだなあという感覚を起こさせる意味ではかなりのパワーをもっている。
 地元が札幌なので友人とかに「北斗星」はすごいらしいよという話をよく聞いていたのだけれど、詳しいことはわからなかった。もちろん、友人だって乗ったことがあるわけではなくて。ただ「すぐ埋まっちゃうよ」という話は本当によく聞いていた。それなので、この雑誌の特集記事はその前からあった興味を満たす意味もあって読んでみたかったのだ。立ち読みでもよかったのだけれど、ちゃんと読みたかったからつい購入してしまったというわけ。
 で、読んでみた感想としては、「いいなあ」。
 なんだかもう、すごくよさそうなのだ。
 寝台列車と言えば、高校の修学旅行の時の地獄の3段寝台がトラウマになっている僕としては(ものすごく狭かった……)、もう別世界に感じられてしまうくらいに。食事だってフランス料理のフルコースや懐石料理だったりするのだし、まあフランス料理は別にそれほど食べたくはないのだけれど、それでも雰囲気というかトーンは統一されている。
 まあ、こういう雑誌なのだから当然なのだけれど、興味をかなりそそる感じではあって、いつか乗ってみたいなあと思わせるつくりにはなっていた。最新型のカシオペアのほうには2人用の個室しかないのだけれど、北斗星のほうには「ロイヤル」という1人用の個室がある。その1人用のほうは片道3万4400円。それだったら、ボーナスのあとで休みもあって、チケットもあったら、頑張った自分へのご褒美として乗るのもいいよなあとか思う。帰省するときのひとつの手段として。
 まず、チケットが取れないだろうけど。思い出作りと話の種にはいいかなあとか。
 帰りは飛行機で帰るだろうけど、さすがに。

 でも他にもいろいろな旅館なんかが載っていたのだけれど、「おとな」だけあって高いなあ、やっぱり。


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 Today's Music

 Des'ree 「Supernatural」

 ものすごく久しぶりにラックから取り出して聴いている。
 ジャケットの色のせいかもしれないけれど、早朝の霧がかった時間に似合いそうな声と曲。
「What's your sign?」と「Life」と「Time」がとくにすき。
 映画『Romeo & Juliet』で使われていた「I'm kissing You」も収録。
 外資系CDストアで絶対にプッシュされるような系統だし、実際にものすごくプッシュされていた。
「Life」のビデオクリップを一度見たことがあるのだけれど、一度なのにいつまでも淡く覚えているくらいによかった。
 いろんなジャンルの音楽を聴くけれど、普段聴かないジャンルであたりを見つけたときにはとても新鮮な感じがする。
 これを気に入る人の層は、かなり広いような気がする。
 耳にすぐ馴染む感じだし。


2001年10月10日(水) think 【Holiday】+『ハードボイルド/ハードラック』

 基本的には平日が休日の職業を選んだことは自分的にナイスな選択だと思っていて、いまは部署の仕事の都合上土日が休日にはなってはいるけれど、だから困るのは休日の日にどこに行っても混んでいることだ。
 平日は気楽だ。とりわけ午前中や午後の早い時間はよりらくちんだ。
 学校帰りの学生たちや会社帰りの人たちが立ち現れる前の時間、もちろん街はそれなりに混みあってはいるけれど、繁忙時と比べると空気の中にたくさんの隙間があいているような気がする。歩くのにも都合がいいし(僕は歩くのがとても早い)、何かを選ぶにしても比較的ゆっくりと選ぶことができる。
 世の中の多くの会社が土日に休日をもってきていることもあって、土日にはありとあらゆる施設が致命的に混みあってしまう。話題作を上映する映画館は立ち見がでるくらいに溢れてしまうし、デパートの中はたくさんの荷物を持った人でいっぱいになり、電車の中もなかなかに座ることなんかできない。人気のある飲食店はお昼時には店外にずらりと人が並んでいて驚いてしまうくらいだ(待つための椅子だってたくさん用意されているのに、それにも座れないくらい並んでいる)。
 もちろん、誰かと遊んだりするときには休日のほうが便利ではあるけれど、関東での友人の多くは会社で知り合った人だから、もちろんそれだって平日の方が都合がいいのだ。

 休日の前の晩にたとえば外でゴハンを食べていて、「明日休日なんだよねー」とか言っているのはすごく幸せな気分になる。
 もともと普段から夜更かしな方だけれど、休日の前にはさらに深夜(場合によっては早朝)まで起きていることが多いし。
 たまには、夜を徹して高くなってしまったテンションをしずめるために、眠る前に早朝の散歩に出ることもあって、そんなときには男でよかったよなとか思う(女の人なら多くの場合危ないので午前5時とかには出歩けないから)。そして、いつかこういうくるった生活リズムの所作でもある貫徹後の早朝の散歩がものすごく早起きしての早朝の散歩、に自然にスムーズに移行していくことができたら成長したってことなんだろうなと勝手に思っていたりする。

 予定のない休日の、何時に起きてもいいんだという気楽さもまたたのしい。
 起きて、そのまましばらくベッドのなかでぼんやりして、リモコン操作だけで好きな音楽を聴いて。
 カーテンをちょっとめくって。
 曇り空が好きなのだ。だから『ホリー・ガーデン』の考え方で言うと怠け者ということになる。
 休日なんだからなんだってありだよとか思う。
 時間はたっぷりあるわけではないけれど、休日の午前中には「まだまだ時間がたっぷりあるような錯覚」に陥ることはできるのだ。
 休日の夕方過ぎには、「もう時間が全然ないよ、うわあ! というような錯覚」に陥ったりもするけれど。
 
 平日は、朝テレビをつけても普段どおりの番組をやっているし(テレビはほとんど見ないのだけれど)、だから主婦向けの情報なんか番組をたまにつけてみると、まだ小学生だった頃の夏休みのときの気持ちが思い出されたりする。ヤックンを見て、フックンはどこに行ったんだろうとか考えたり(モックンは俳優だってわかるのに)。そのまま笑っていいともを見て、1時からはじまるお昼のドラマをみようとか思ったり(あのやたら家族がたくさんいるドラマはまだやっているのかなとか思ったり)。
 買物に行ってもどこかのんびりしたようなイメージがあるような気がしてしまう。
 もちろん、それは僕自身の心持によるところが大きいのだとも思うのだけれど、店内を歩いているのでもなんだか自分が本来いてはいけない時間にそういう場所にいるような気がしてしまうし。

 雨が降っていても別にいい。たとえば今日みたいな冷たい雨が一日中降りつづけるのでも同じ(まあ、今日は少々降り過ぎだけれど)。基本的にはインドアだし、好きなことの多くは一人ですることなんだし。
 文章を書いていたり、本を読んでいたり、音楽を聴いていたり、飽きたらお茶とかコーヒーを飲んだり、ときには傘を持って散歩に出かけたりする。
 近くにはそんなにたくさんの公園はないのだけれど、狭い路地を歩いているのもまた楽しいものだし。
 結構歩いたつもりでも、まだ通ったことのない道路はたくさんあったりするし。
 他愛のないことを楽しいと思えるってことは、たぶん幸せなんだろうなとか思う。
 一人暮らしが長い人は、なかなか他の人と一緒に暮らせなくなるというようなことを言うけれど、ああそれはあるかもなあとか思う。
 一人暮らしは一人っ子みたいなものだから、その期間が長いとどうしたって自分なりのやり方や暮らし方やリズムのようなものが生まれてきてしまう。そしてそのリズムが同じ人なんていないから、なかなかに大変かもしれないなあと思うのだ。もちろん人生は様々なかたちで折り合いをつけていかなければならないものではあるし、人の適応力はなかなかにしたたかかつ柔軟ではあるとも思うのだけれど。

 一人暮らしは気楽だし、平日の休日も気楽。
 世の中は気楽で甘いことばかりでできているわけではないけれど、休日にはそれくらいいいじゃないかとか思う。
 いつもそうなわけではないんだし。


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 吉本ばななの『ハードボイルド/ハードラック』読了。ロッキング・オン。
 僕が気付いていないだけかもしれないけれど、最近は長編を出していなくて、それがちょっと寂しい作家の一人だ(もちろん村上春樹もそうだけれど、少なくともいま書いているという情報はわかっているので気長に待つことができる)。
 吉本ばななは高校生のときに親戚に『キッチン』を勧められて読んで以来途中からほぼリアルタイムに追いかけていたのだけれど、『アムリタ』くらいから出るたびにかならず、すぐ! という感じでは読まなくなってしまっていた。それがどうしてなのかは自分でもよくわからないのだけれど、好きな作品が初期の頃に集中していることからも、個人的な熱の時期とはずれてきてしまっているのかもしれない。
 ただ、個人的な熱の時期が過ぎても好きなことには変わりはないので、こうやってかなりの時差をもって手にとるし読んだりするのだ。
 だから、最近では吉本ばななを読むときには常に久しぶりという感じがついてまわって、そのせいか読むたびに「懐かしいなあ」とか「やっぱりこの人はすごい才能あるよなあ」と毎回思っている。空気感であるとか、透明感であるとかうつくしいものについて書かせたらこの人の右に出る人はほとんどいないよなと個人的には思う。
『ハードボイルド』の方には、作品世界を通じて途中から色濃くなってきたオカルト系の要素がやっぱりあって、ただ、こちら側とあちら側が近づいてしまう時間や場所というものについて、ものすごくリアリティのある話になっていた。
 そして、僕がこの短編でとてもよかったのがホテルのおばちゃんが言う「おばちゃんは長年ここで働いてるただのおばちゃんだよ。」というセリフで、無条件でこのおばちゃんのことが好きになってしまった。そんなに重要な人物でもないんだけど。

 吉本ばななは大抵の場合一人称で小説を書いているけれど、主人公の女性たちはいつもとても懐が深い人物であるような気がする。
 いろんな物事から等しく距離をとっているような、肩の力が抜けているような、情がそれほど深いという感じもないのだけれど、受け入れる寛大さを持っているような。
 まあ、吉本ばなな作品の主人公には様々な出来事が起こる(起こっている)わけだから、そうならざるをえないようなところがあるのかもしれないけれど、ただそういう後天的なものばかりではなくて、目の前に起こることを正しい重さで受け入れてしまうような基本的なスタンスが備わっているような気がする。自分が何かを我慢しているわけでもないのに、むしろ自分の感情に多くの場合従っているように思えるのに、それでも結果的に様々なものを受容してしまっているような、そういう懐の深さ。
 吉本ばななに関しては、そのうち他の作品も『My Favorite』のほうで。
 
 でも本当に、この作品を読んでいたら、吉本ばななが自らをすり減らして書きましたというような超長編小説なんかが読みたいなと、思ってしまったり。


――――――――――

 先日、リベンジで部屋の近くにある和菓子屋に行ってきた。
 前回、洋菓子屋でショートケーキとモンブランを買って、それがことごとく乾いていたというのは一部では有名な話。
 洋菓子の敵を和菓子で討つ、というわけだ。
 結果は、○。
 美味しかった。
 和菓子自体をものすごく久しぶりに食べたせいかもしれないけれど、優しい感じの甘さだとか思ったり。
 それに和菓子はもともと乾いているしね(しつこい)。
 お茶と一緒に食べた。
 で、その中のひとつは小さな箱に入っているやつだった。
 箱の横に主原料が書かれてある。
 どれどれと読んでみる。


 主原料

 粉、砂糖、卵、無塩バター、アーモンドプードル、白糖、栗、ラム酒、ブランデー、重そう


 なるほど、いろいろ入っているんだな……と思って、最後のところでとまる。


 重そう(原文ママ)


「じゅうそう」だっていうことはわかるんだけど、こうして書くとちょっと……
 とくにダイエットをしている人が誘惑にまけて和菓子に手を出したというシチェーションだったとしたら、かなりきついアッパーになるような。
 罪悪感を感じながらでも我慢できなくて食べてるのに、主原料は「重そう」。
 思わず半分食べたお菓子をお皿に戻してしまいそう。
「やっぱりいらない……」とか悲しそうに呟いて。


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 お知らせ

 主原料の「粉」というところがちょっと気になります。


2001年10月09日(火) ストーブ

 子供の頃、僕はストーブがとても好きな子供だった。
 地元が北海道だけあって、ストーブは必要不可欠だったのだけれど(というかないと凍死する。本気で)、必要以上にストーブの近くにいて、マンガとか小説とか見ていた。お菓子を食べながら。飲み物を飲みながら。
 いま思い返してみても、ストーブは冬の屋内を象徴するのに最高のもので、よかったよなあとストーブとの蜜月時代を懐かしく思い出したりする。
 また、ストーブと言えばこれは北海道ローカルなのかもしれないけれど、田中邦衛が出演しているストーブのCMのシリーズがあって、それを見るたびにそこにでてくる「暖かさ」の溢れるようなイメージに惹かれまくっていた。毎年バージョンが変わっていて、ただ田中邦衛が主人公というのは同じ。雪の中を歩いている田中邦衛が、窓の向こうにストーブのある光景を見て目を細めるとか、そんなやつ。そのストーブのCMを見ると、また冬なんだなあとよく思っていた。ローカルCMってたまにすごくツボにはまる。
 それにしても、僕はずっと田中邦衛ってずるいよなと思い続けている。
 だって、画面に登場しただけで、何か喋っただけで、それだけで心を射ぬいてしまうからだ。
 だから「北の国から」なんかみると、もうダメダメだ。「北の国から」を見るときには最初から涙腺の抵抗をオフにしてみているのだけれど(だって、耐えようとしても無駄だから)、田中邦衛が出てくるだけでもう「あー」とか思う。テーマソングをバックに名場面なんか訪れようものなら、もちろん号泣する。基本的にはそんなに涙もろい方ではないのだけれど(結構つめたいし)、それでももうダメだ。ガンガン泣いてしまうし、鼓動が早くなってとまらなくなる。
 まるで壊れたポンコツロボットみたいに。
 そして僕が重症だって思うのは、ときどき田中邦衛が「食べる前に飲む!」とか言っていてもじわっときてしまうことなのだ。
 おそるべし田中邦衛。
 と言うか、さすがにそれでじわっとくるなよという気はするけれど。
 あの細い目を見ているだけでもうなんか、「あぁーだめだよ」と思ってしまうのだ。

 話がずれてしまった。
 ストーブ(田中邦衛)について熱く語ってしまったけれど、いま住んでいる部屋にはストーブがない(それは少しだけさみしいことだ)。
 エアコンと、加湿器の二つが暖房器具になる。
 最近はごくごくたまに部屋に帰ってきて暖房を入れたりもするのだけれど(まあ、すぐに消してしまうのだけれど)、それはそれでなかなかいい季節だと思う。
 秋から冬にかけて空気がクリアになるので、明かりがよりさめざめと照り映えて見えるのもよい感じだ。
 今日は23時過ぎに最寄の駅に降り立ったのだけれど、その時間だとなかなかに寒いのだけれど、それはそれでよい感じだと思うし。
 
 さてさて、いずれにしても秋が深くなって寒くなってきた。
 北国生まれには最適な季節の到来だ。
(浮かれてしまうよ)。


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 お知らせ

 今日帰ってきたときに、コンポのリモコンをエアコンに向けてました。
 重症かもしれません。


2001年10月08日(月) Bookshelf

 世間は休日だったけれど、今日は仕事。
 22時45分くらいに部屋に帰ってくる。
 またいつものようにコンポのリモコンのボタンを押す。
 帰り際は小雨が降っていて、部屋に入ったときに湿気が多いような気がしたのでエアコンのスイッチも入れる。
 5分くらいですぐに寒くなって、停止のボタンを押す。
 それからコンビニで買ってきたお茶(今日は珍しく「秋旬茶」というやつ)を飲む。
 最近はお茶かコーヒーばっかり飲んでいる。
 とくにお茶。
 さっぱりしているところが気に入っているのだ。

 そして部屋の中で大きく伸びをしたときに、本棚の背表紙をなんとなくじーっと見てしまった。
 今日は、そのときにおもいだしたことを。

 昔何かの本で、本を隠してしまう人とちゃんと見せたい人にわけるとすると、自分は後者だと書かれているものがあった。
 本棚に並んでいると何かの折に目に入るものだし、そうしたときになんとなくその本の記憶や印象が蘇って、その何となくの記憶が何か調べものをしたりするときに役立つ、というような内容だった。たしか仕事術とか、そういう関係の本だったような気がする。
 それを読んだときには、なるほどなあと思ったものだった。その本の性質上「調べものなどに役立つ」と言った書き方をされていたけれど、小説でももちろん感想や印象的なシーンを思い出したりすることができるわけだから、そうしておくことはよいかもしれない。人の記憶力なんてごくごく一握りの人以外は大して変わらないものだし、だったら定期的に背表紙でも裏表紙でも目に入るようにして、記憶をブラッシュアップできるようにしておくことはいいことなんじゃないかと思う。
 それで、興味が再燃したら、また手にとってぱらぱらと読み返してもよいのだし。

 一方、僕の昔の知り合いは前者だった。
 自分が持っている本を人に見られたくないと言って、クローゼットのなかに本棚(カラーボックス)をしまいこんでいた。それももちろん考えとしてはわかる。読書傾向は表面的なイメージをつけるには簡単なものだし、先入観めいたものだって形成されてしまう。本とか映画とか音楽の趣味って、もっとたんじゅんなことのはずなのにそういうこわさのようなものがあることは事実だし。
 だから、僕はその人と近くにいた二年半くらいの間で、何度も部屋を訪れたことはあったのに、それでもどんな本を持っているのかはほとんどわからないままだった。もちろん、たまに数冊はわかるような出来事はあった(本を貸してもらったり)。けれど、基本的にはわからないまま、いまにいたっている。
 確かに、はじめて会った人であればあるほど、様々なサインやディテールから、こういう人なんだというカテゴライズのようなものをついついしてしまいがちだ。本当はもっともっと自然体でむかいあわなくちゃとは思うのに、全然そんなふうにはできなくて。自分も、相手も、頭の中である種の枠の中に閉じ込めてしまうのだ。そんなふうに先入観とか知識で既定できるもののほうが、考えることや想像力をはたらかせることよりはずっと簡単なわけだし。そういう前提をはやくつくったほうが、人間関係は比較的スムーズに進むようになるわけだし。この人はこういう人というイメージのようなものを決めてしまうこと。
 でもそれはある面ではとても恐いことなのだ。
 簡単に、決め付けてしまって、それが長い影のように伸びてしまうわけだから。

 だから、その知り合いの考えは、ある種の自衛手段のようなものだったのかもしれないといまは思う。
 その人を本当に深く知るためには、ある程度以上の親密さや信頼感、あるいは長い時間というものが必要だから、そういう時間を過ごすことが出来ない人や過ごすつもりのない人には本棚(やそれに類するもの)を見せないというのは、確かによりよい選択というものであると思えるからだ。できるだけ自分の引き出しを見せないこと。それはときに自分を守ってくれる鎧になる。

 もちろん、逆に自分にとって大切じゃない人であれば簡単にわかったつもりになってもらうほうがいい、という考え方もあるだろうけど。その方が楽だしと。

 いずれにしても、本当に深くちゃんと良いところも悪いところもお互いにわかっているような関係の相手というのは、男にしても女にしても少数でいいとは思うから(少数じゃないとそんな関係は持つことなんかできないだろうし)、そういう人には長い付き合いの中で、ひとつずつ引出しを開けていけるような関係であるといいなとは思う。そしていろんな引出しに様々なものが入っていることをちゃんとそのままに見てもらえたらいいよなと思う。もちろん、それはすべての引出しの中に入っているものを理解してほしいというわけではなくて、そういういろいろなものが入っているのを知っていてもらうということだ。ある引出しの中に入っているものはもしかしたらあんまりいい感じがしないことかもしれなくても、たくさんの引出しを知っていると、それがすべてではないということがちゃんとわかってくるわけだし。
 そういう信頼感や安心感を持てるようになるには、なかなかに時間がかかるから、そういう意味で言えば人生はやっぱり短いのかもしれない。
 むずかしいなあ。
 むずかしく考えすぎているだけかもしれないけど。


 …………


 …………


 あれ?


 僕はその知り合いの本棚を最後まで知らないままだったよ……
 痛……


――――――――――

 お知らせ

 それでも頑張っていかないとさ。


2001年10月07日(日) お気に入りMD

 いま、MDを聴きながらこれを書いている。
 ブラックミュージックを自分で選んで作ったMD。
 実は「お気に入りMD」を作るのが結構好きなのだ。
 CDの枚数がある程度以上増えた頃から、いちいちCDを抜き替えずに好きな曲を連続して聴きたいというごくまっとうな願望が湧き上がってきて、それを叶えるためにテープに好きな曲を編集して録音していた。それがいつしかMDに変わったというわけだ。現在はパソコンのHDにもデータの形で何曲か入れているけれど、それでもMDのほうがいまのところは汎用性があるからどちらかと言うとMDの方が多い。
 編集するときにはひとつルールがある。
 それは1アーティスト1曲というもの。
 だいたい60分のMDを選ぶのだけれど、それには大体13〜14曲くらい入る。基本的には同じようなジャンルの、トーンの近い曲を選ぶようにしているのだけれど、どんなにお気に入りのアーティストでも1曲というルールは基本的には守るようにしている。完成すると、当然好きな曲ばかりの「お気に入り」になるのだからやっぱり聴いていて楽しい。昔作ったそういうMDを久しぶりに聴くと、どんな曲を入れたのかは完全に忘れていることが多いので、なおさら新鮮に楽しめるし。
 何度か友人に頼まれてプレゼントしたこともある。喜ばれると嬉しいものがあった(そういうときには、1アーティスト1曲が守れないときがある。リクエストがあるから)。
 ただ、基本的には頼まれたときじゃないとやらないようにはしていた。と言うのも、そういうのってとてもとても個人的なものなので、僕にとってはツボでも他の人にとってはそうじゃない可能性が高いからだ。たとえば逆の立場だったとして、一方的に渡されて、一方的に反応を求められても困るし(もちろん、そういうことを一度もしたことがない、というわけではないけれど。趣味が近くてこの人なら気に入ってくれるだろうという人にそういうMDとかをプレゼントしたことはやっぱりある。ただ、感想はあんまり聞きたくないーと思っていたけど)。
 いまかけているのはブラック、R&Bが中心のやつ。しかも個人的なストライク・ゾーンど真ん中のミディアムテンポの曲ばっかりのやつだ。たとえば、Juiceの「Can't rush」やDebargeの「Stay with me」、702の「Don't go breaking my heart」とかShaniceの「A Reason」とか。
 ブラックミュージックは夜によく合う気がする。特に週末の夜にはしっくりくる。
 どうしてなのかはよくわからないのだけれど、夜、とりわけ深夜には甘い歌はより甘く、悲しい歌はより悲しく響くような気がするせいかもしれない。
 まあ、曲の感じで判断しているようなところがあるので、本当に甘い歌なのかどうかはき違えている可能性もあるのだけれど。

 ただ、夜が深まると感情の沸点のようなものが下がってしまうような気はする。
 だからたとえば音楽とか映画だとかにいつも以上に感情を揺り動かされてしまうのだろうし、よく聞く例で言えば夜に書いた手紙は翌朝読み返すと出すのに躊躇してしまうような内容になっていたりするわけだし。
 日中までそんなふうに感情に振り回されていたら大変なことになってしまうから、そのへんのところはまったくうまくできているとか思う。


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 久しぶりに「きのこの山」を食べました。
 クランキーチョコレートだとか、子供の頃からある定番のお菓子って、たまに食べると妙に安心したり。
 なぜなんだか。


2001年10月06日(土) 言葉の残高+『トゥームレイダー』+『超大作(?)』

 金曜日に、久しぶりに昨年同じ部署で一緒に働いていた人と再会した。
 たまたま僕の部署に用事があって訪れていたのだ。
 実際に会ったのは10ヶ月ぶりくらい。
 懐かしくて、ついつい長々と話し込んでしまう。
 その人は僕の一年先輩の女の人なんだけれど、相変わらず元気で底抜けにプラス指向で、食べることが大好きで、すごいよなあと思わされた。
 ちなみに、その先輩は店の構えと店内の様子を見ただけで美味しいかどうかを判別することのできる特殊技能を有していて、各地への出張の際にはその技能を存分に発揮していた(いまも発揮している)。あの当時一緒に過ごした人たちは、久しぶりでもすぐに気軽に話せるのはよいなと思う。

 また、一緒に訪れていたその先輩の上司から、僕が主張生活を続けていたときにデジカメやスキャナを使ってつくっていた個人的なマニュアルの一部が、(修正を加えた後に)会社のその分野のマニュアルとして各店に配備されたりイントラネットにアップされることになったので、その承認が欲しいとも言われた。
 承認も何も、それがたくさんの人に使ってもらえるのであればぜひにという感じ(ダメだなんて言えないのだろうし)。
 僕がそれを作っていたのは、新しく店舗で働く人たちが困らないようにするためにどうしたらいいだろうかというところから逆算してのものだったのだけれど、久しぶりにマニュアルを作っていたときのことを思い出した。ただ単純に懐かしかった。
 もちろん、マニュアルなんてものは改廃を繰り返しつづけることが大切なものだから、僕が作った原型はこれからどんどん異なる形をとるようになっていくのだろうけど、むしろ早くよりよいものへと変わり続けて欲しいなとは思う。
 ただ、久しぶりに会った子供が成長していたみたいな感覚があって、嬉しかったのは事実。

 仕事的なことで言えば、実は最近プチ出世(?)をした。
 現在の仕事のチーフ的な役割になって、給料が若干UP(あくまでも若干だけれど)。
 僕ともう一人がその役割になって、お互いに「これを口実に仕事振られるねー」と話している。
 正直な話、新しい役割の仕事の大半は、いまでも僕らが行ってきたことだ。
 ただ、いままではアンオフィシャルにやっていたことを今後は職務としてちゃんと既定されてしまったというやつだ。
 そうなると、つまりいままで本来は自分の仕事ではないかもしれないけれども暗黙の了解でやっていたことが正式な職務になると、不思議なものでそれまでまったくかかわっていなかった仕事が暗黙の了解仕事として浮上してくるのだ。なるほど、という感じだ。そうやって、常に暗黙の了解仕事が常に存在しているのだなと。
 もちろん、自分の仕事とか人の仕事とかいう分け方は、あんまり好ましいものじゃないのだろうけど。

 だから僕はいつも意識してお約束の言葉を自分に言い聞かせる。
「しごとをおぼえるいちばんのちかみちはすなおさだ」という呪文のようなもの。それから「+かんがえること」と付け加えるのも忘れないようにする。
 意識しないとそういうことってついつい(本当に! びっくりしてしまうくらいに!)忘れてしまうから繰り返し自戒しないと大変なことになってしまう。
 他にも、いままでの上司に言われた様々な言葉が「じぶん銀行」のなかにはちゃんと預けられている。
 それでショックな出来事のあとに、へこんでしまうようなときに、引き出して思い返してみるのだ。
 たとえば、最初の店長に言われた「どんなしっぱいでもしんだわけじゃないんだからいくらでもやりなおしがきくんだ」という言葉はいままでに何度も引き出したし、「ほどうきょうはしんどうでてきどにゆれるようにつくってある。もしそれがかちかちにつくられていたら、かんたんにこわれてしまう。だから、まじめすぎることはときにとてもきけんなことだから、かたのちからをぬいたほうがいいんだよ」という言葉や「まわりをちゃんとみてあげられるようにならないといけないということはわかるよな。なかなかできないからこそだれかがやらないといけないんだ」という言葉もよく引き出す。
 僕はそういう言葉をちゃんと言えるような仕事はしていないけれど、まだまだ本当にひよっこでしかないのだけれど、そういう言葉をもらったことには本当に感謝していて、そういう上司たちに助けられているのだなとは思う。もちろん、それらの言葉はちょっと気障でくさいセリフなんだけれど、その上司が言うと等身大の言葉として受け取れるのはやっぱり経験だとか実感のこもり方の違いなんだろうなとか思う。また、上司や先輩が何気なく言った言葉を僕の方でとても大切にしているものなんかもたくさんあって、そういう言葉もどんどん「じぶん銀行」に振り込んで預入れしてしまう。
 本当に言葉を振り込んでもらってばっかりだ。ちょっと情けないかも。
 会社の中にいるわけだからときに納得がいかないことがあったり、理不尽な出来事も多々起こったりはするけれど、それでもトータルで見るとやっぱりとても得難い経験をさせてもらっているよなとはいつも思う。もっともっと時間が過ぎたら、後輩に僕が「言葉」を振り込めるようになれるかもしれない。
 いつかは、ねえ?
 出来るのかなと、なかば本気で心配しているのも事実だけれど。

 そして、「じぶん銀行」の残高に関しては、あんまり考えないようにしようと思う今日この頃。
 だって、最高にへこんでしまったときに残高がないとかいうことになるのは困ってしまうしね。
「じぶん銀行」なのだから、自分にとって都合がよくていいのだ。全然大丈夫。そうあるべき。
 常識が通用しなくても。
 まわりに呆れられても。


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 僕は昔半年だけ函館に住んでいたことがあって、その時期はとても楽しいものだった。
 何よかったのかと言うと、街がよかった(人もよかったけど)。
 観光地として有名なだけあって、見ごたえのある場所や風景が多かったのだ。
 有名すぎるあの夜景を筆頭に、地元の人がよく言う「裏夜景」だとか、ライトアップされた港だとか、まるで一昔前に紛れ込んでしまったかのような気持ちになる、淡い電灯の光に照らされた幾つもの坂道だとか。
 もっと長い期間住んでいたかったのだけれど、転勤になってしまったので冬を待たずに離れてしまった(函館の冬を体験できなかったのは、残念なことのひとつ)。
 だから、いまでもかなり好きな街だし、また住むことは現実的に無理でも旅行なんかで訪れてみたいなとはよく思っている。
 幾つかの思い出があって、たくさんの記憶が残っていて、たまに昔のことを思い出したりするときに、ぼんやりと楽しかったなあとか思ったりする。
 振り返ることしかしないのは嫌だけれど、振り返ることがないのはもっと嫌だし。

 函館に住んでいた頃に僕は車を買ったばかりで、よく夜に意味もなくドライブに出たりしていた。
 休日の前の晩の23時くらいに車を出して、脈絡もなく(ここがポイントなのだけれど)走り続けるのだ。カーステレオにお気に入りのCDを入れて、大きな道路も、細い路地も、適当に思うまま走っていく。途中で目に付いたコンビニに車を停めたりして。
 函館は、もちろんるるぶに載るような風景ばかりなわけではないけれど、観光地然としたエリアと、ごくごく普通の地方都市めいたエリアとがちゃんとわかれている。だから観光地的なエリアにはわかりやすい情緒のようなものがあったし、それでいてそうじゃないエリアにも地方の情緒がやっぱりあった。つまりまあ、どちらにもある種の情緒はあったわけだ。
 そして情緒は夜になるとより濃密になるし。
 僕は個人的には情緒的であることを推奨しているので(だから台風の夜に暗い部屋で窓ががたがた揺れる音を聞いたりするのも推奨)、そういう光景や状況になることも大好きだ。もちろん、仕事なんかでは現実的であることを重要視しているけれど(これは大抵の人がそうだけれど)、プライベートまでそうである必要は全然ないと思っているし。
 だから夜のドライブとかはすごく楽しかった。一人でも二人でも。
 その頃、よくかけていたCDがCharaの「Junior Sweet」で、中でも「ミルク」という曲をリピートで何度も聴いていた。Charaの曲のなかでも特に好きなこの曲は、歌詞がまたよいのだ。

 曲も最高だけど。

 ある夜のドライブの時には、函館市を離れて隣の隣くらいの小さな町の海沿いまで行き着いてしまったことがあって、そのときの暗い海とやけに高さのある防波堤は圧巻だった。暗い海の上に船の明かりが幾つか小さく浮かんでいて。波はとても静かで。心細そうに見える小さな月が浮かんでいて。夜釣りの人が防波堤に何人か見えて。
 自分の中にそういう風景に焦がれてしまう遺伝子(命名:情緒遺伝子)みたいなものがあって、だからどこか地方に異動したいなとずっと思っている。都市ももちろん嫌いではないし、たくさんの物や事に溢れていて便利だとは思うのだけれど、もっと夜になると世界の果てみたいに感じられるようなところに行きたいなと、ないものねだりかもしれなくても、隣の芝生が青く見えているだけかもしれなくても、やっぱり繰り返しそう思ってしまう。
 だって、ねえ、海の近くに住みたいっていうのはたくさんの人が思っていることだし。
 それだけ魅力的なことでもあるし。


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 函館には幾つかの美味しいお店があるのだけれど、『ラッキーピエロ』という名前の地元のハンバーガーチェーンもその内のひとつだと思う。厳密に言うと、ハンバーガーと、カレーライスの店。
 たとえば、チャイニーズチキンバーガーというのが売れ筋のハンバーガーなのだけれど、もうハンバーガー好きにはこたえられない美味しさなのだ。
 他にも、カツのバーガーにはちゃんと揚げたトンカツが入っているし、カレーもやや甘口すぎるけれど独特の味で美味しいし、ようは味が個性的なのでよいのだ。遅い時間までやっているし、市内に幾つかの店舗があったから、よく行っていた。もう食べることができないのが残念ではあるのだけれど。

 ちなみに、『ラッキーピエロ』は函館以外に1店だけあって、それは千葉市にある。
 たまたま僕は千葉市にも数年間住んでいて、見つけたときには本当にびっくりした。
 函館にしかないものだと思い込んでいたから。
 その千葉市の店は、函館から引っ越してきたマスターがやっていて、ちゃんと函館の味と同じだった。
 函館以外ではそこしかないので、たまに結構遠くから(千葉県以外からも!)買いにくるのだというようなことを話していた。
 元函館市民が懐かしむ味。
 千葉市の住宅街の一角に、あんまりにもひっそりと建っているので(駐車場もない)、偶然見つけることができてよかったとは本当にしみじみと思ってしまったのだけれど。
 いまは神奈川県に住んでいるのだけれど、たまに無性に食べたくなるときがあるので、困ってしまう。


―――――――――

『トゥームレイダー』を観てきた。
 アンジェリーナ・ジョリーの、アンジェリーナ・ジョリーによる、観客のための映画。
 すでにPart2の製作が決定しているとのことだったのだけれど、それにも納得だし、どんどん(出来れば短期間で)シリーズ化してほしいと思う。
 ツボにはまったわけではないのだけれど(この手の映画では『マトリックス』が白眉だと個人的には思うし)、それでもアンジェリーナ・ジョリーはかーなーりー魅力的だったし、もっと脇のキャラクターたちにも色がついてきたら定番シリーズになるんじゃないかと思う。
 たとえば、相棒の少々ドジの天才プログラマーであるブライスや、堅物の執事のヒラリーなんかは、シリーズ化されることによってもっと魅力が増していくタイプのキャラクターだし、お馴染みの面々が繰り広げる冒険というシリーズは最近とみに減ってきているような気がするし。
 そういう意味では、まさにうってつけの映画なんじゃないかと思う。
 いたるところでアンジェリーナ・ジョリー以外のララ・クロフトはいないだろうという話を聞くけれど、確かにそんな感じだ。と言うか、もうアンジェリーナ以外のララを見たら違和感を感じてしまうだろう。「サザエさん」の声優が変わるくらいの違和感。
 ストーリーは結構説明不足な感じではあるけれど、謎解きがメインなわけではないのだし、ララ(アンジェリーナ)が画面狭しと飛び回るのをみているだけで十分に楽しめるし。
 僕はゲームの『トゥームレイダー』はやったことがないのだけれど、ちょっと興味がでたりはした。

 また、本編前の予告でも、何作か面白そうなものがあった。
 今度ぴあでも買ってきて、いろいろと検討しよう。


―――――――――

 ふとくだらないことが思い浮かんだのだけれど、超大作映画「サザエさん」とかあったら絶対観に行くよなとか。
 磯野家が『マトリックス』だとか『トゥームレイダー』並みのアクション活劇をするアニメ。
 磯野家が世界を救うというスタンスで。
 謎の異星人に襲われているのをカツオが機転をきかせてやっつけたり、タラちゃんが敵の本拠地に忍び込んだり、サザエさんが財布を忘れたり。
 波平の知恵とフネの気配りをCGで表現。
 タマが突然日本語を喋ったり。
 なぜかマスオさんの同僚の穴子さんが異星人に連れ去られたり。
 予告編とかだけでも、最高に心惹かれそう。
 たとえば、こういうの。




「あの日本で一番有名な家族が世界を救う!?


 ――『Sazae San 【劇場版】予告編』――(一応アメリカ公開も視野に入れてローマ字で)


(不穏な感じの音楽)


 商店街で買物をしているサザエが地面に映る黒影に顔をあげる。
「あら、何かしら?」
 空には怪しげな飛行物体が。

 同じ頃カツオは宿題を忘れて「廊下に立っとれー」と怒られている。
 廊下に出たカツオが、窓の外に映る飛行物体を見つける。
「なんだろ、あれ」
 慌てて教室に戻る。「先生、大変だよー、空が、空が」
「何バカ言っとるか。いいから立っとれー」
 笑うクラスメイトたち。いつものおふざけだと思われているのだ。再び廊下に出るカツオ。
「これは……こうしちゃいられないぞ」

 タラちゃんがイクラちゃんと公園の砂場で遊んでいる。その公園の影に傷ついた異星人が倒れている。
「た、大変ですぅー」
「バブー!」
 タラちゃんは異星人からなぞのバックを手渡される。
「コ、コレヲ……○□△☆※……」
 謎の言葉とともに生き絶える異星人。
「マ、ママに相談ですぅー」
「バブー」

 夕方、波平とマスオが乗っている電車が急停車する。混乱する乗客たち。
「な、何があったんだろうなマスオ君」
「どうしたんでしょうねえ、お父さん」
 たまたま、同じ車両に乗っていたノリスケもやってくる。
「どうしたんでしょう」
「おう、ノリスケ」
 波平が言うとともに、電車の明かりが消えるー―。
「な、なんだ? どうした!?」
 激しい揺れ――。

 バックの秘密は何か――?
 人類は侵略されてしまうのか――?
 そして、磯野家がついに立ち上がる――!!

(勢いのある音楽に変わる)

「ようし、やってるぞお」
 意気込むカツオ。バックの中に入っている特殊道具を身につける。
「頑張ってー、お兄ちゃん」
「ワカメもやるんだよ。ほら」
 それぞれバックに入っていた特殊道具を身につける磯野家。
 バックの中に入っていた飴玉をタマがなめると、急に喋れるようになる。
「カツオ君。私、タマよ」
「うわぁ、タマが喋った!?」
「空も飛べるのよ」
 浮かんで見せるタマ。走れば時速も120キロだ。目からレーザーだって出る。

「いいかお前たち。地球の命運は、我々が握っているんだ」
 波平が言う。ちゃぶ台を円卓に見立てた家族会議。
「が、ガンバリましょう、お父さん」
 マスオが感極まった声で言う。
「ああ、やろう」
「穴子君を助けるためにも」
「僕は中島を助けたいんだ」
「ボクもリカちゃんを助けたいんですぅー」
「ようし、みんなやるぞ」
 一致団結する磯野家。
「さあ、やるわよー」と意気込むサザエさんのアップが映る。
 

 ――構想20年
 ――制作費160億


 あの日本でいちばん有名な家族が、日本の、そして世界の危機を救う!!

「Sazae San」

 来春、超拡大全国ロードショー!!


 ……って、書いているうちに楽しくなってきた。
 ドラえもんの映画みたいなノリで、つくられないかなあこういうの。
 ないだろうけど。


―――――――――

 お知らせ

 こういうくだらないの大好きです。


2001年10月05日(金) 言葉を選ぼう

 言葉って生き物だと思う。
 たとえば、そのときどきの流行語というものがあるし、細かい語尾のようなものだって、時代とともに変化してしまう。
 個人的には、美しい日本語というものはもちろん好きだし出来得る限り使うように、投げかけるようにしたいなと意識してはいるのだけれど、実際のところ「超○○」などの言葉を使ってしまうことはもちろんある。
 人の気持ちは変わるものだし、だったらその人が使っている「言葉」だって当然変わると納得している。

 だから、言葉が荒れてしまうことを特別悪いことだとか堕落してしまっているだとかは思わない。現在に生きているのだから、現在の言葉を使うことはときにとてもスムーズなことであると思えたりもする。もしかすると目くじらをたてられてしまうことだってあるのかもしれないけれど、その人だってかつてはその時代の「新しい言葉」を使っていたはずだよとは思ってしまう。
 新しい言葉は個人の中に、社会の中に定着して、既知の言葉とすばやく、場合によっては時間をかけて融合していく。
 その一方で、ある言葉は一瞬だけ世の中に溢れて、定着することなく消え去っていく。
 ずっとその繰り返しなのだ。
 だからあと十年もしたら、今度は僕の方が「?」と思ってしまうような言葉がたくさん出てきて、それが当たり前の言葉になってしまうときもくるのだろうと思う。
 そのときには、できるだけ受け入れたいなとか思う。
 そういうものなんだろうし。

 ただ、そんなふうに古くからの言葉と新しい言葉が溢れる世の中で、どういう言葉を選んで発していくのか、ということはものすごく個人的なことで、その人の性質を既定してしまうくらい大事なことであることもまた事実だから、あんまり考えなしに言葉を発することができないと思うのも事実。
 言霊という言葉があるように、言葉にはある種の力があるとはやっぱり思うし。
 日本には暗黙の了解という言葉があるけれど、やっぱり言葉にされないことを正しく理解することは難しいことで、コミュニケーションの手段としての「言葉」はとても大切なものになる。
 人間関係が砂漠のようなもので、言葉が水筒の水のようなもので、砂漠で出会った人同士が自分の水を与え合うのがコミュニケーションだという例えをとるのなら、やっぱりあんまり苦い水を渡すことはできないのだ。
 そういう環境での水はとても貴重かつ大切なものだから。

 だからこそ難しいよなと思う。
 しかも、僕は結構よく喋る方なので(昨晩も1時間以上電話してたし)、口数も言葉の数も加速度的に多くなっていくから、選ぶ言葉も増えていくわけだし。


――――――――――

 新しい言葉のなかで、定着せずに消えてしまった流行語には、ときに謎めいたものもある。
 たとえば、数年前に流行ったコギャル言葉(←これも死語?)には、シュールかつおもしろいものがいくつかあった。

 たとえば、「バチグロ」。

 いわゆるガングロ系のさらに上をいく黒さを持つ人のことらしくて、意味は「バッチリ黒い」。
 それを略しているのだ。
 類義語に「メキグロ(めきめき黒い)」「ソロクロ(そろそろ黒い)」「ユニクロ(ユニクロの服を着ている)」などがあったけれど(?)、いずれにしても結構おもしろい。

 また、「MM5」という言葉もあった。

 意味は「まじで むかつく 5秒前」で、出自は広末涼子の歌っていた「マジで恋する5秒前」にひっかけたもの。
 どちらも、どうして5秒前だとわかるのかが謎なのだけれど、近い将来有望な言語学者によって解明されることを期待している。

 さらに「チョベリグ」とか「チョベリバ」とかいう言葉もあった。

 これは有名だけれど、「超ベリーグッド」と「超ベリーバッド」の略で、超という意味が二回重ねられているのだけれど、その理由はやっぱりよくわからない。
 当時ふざけて友人と「チョベリオ」という言葉をつくっていたことを思い出した。
 意味は「超ベリー夫」で、とてもとても夫……つまり愛妻家のマイホームパパのことなんだけれど、絶対に流行らなそうだし書いていて恥ずかしいよ……

 いずれにしても、そういう流行語を含めて、言葉って面白いのは事実だと思う。
 コミュニケーションの道具としても、自分の考えをまとめる道具としても、言葉にすることでそれはある種の意味を持ってしまうから、時間をかけて自分なりの言葉をちゃんと選んでいきたいなとは思う。


―――――――――

 お知らせ

 Text Sun Set では「あなたのまわりの流行語」を募集しています(嘘)。


2001年10月04日(木) 昨日の朝

 昨日、「眠気祭り」開催中だった僕はベッドに横になった(ちなみに午前1時)。
 すぐにでも眠れるよと意識のスイッチをオフにしようとした瞬間、「ああああ」と起き上がった。
 ひとつやらなければならないことを忘れていたのだ。
 すっかり忘れていた。

「うううう……」

 僕はベッドにうつぶせになったままもそもそと左手を伸ばして(左利きなので)、スチール製のナイトテーブルの上に置いてある蛍光灯のリモコンスイッチをオンにする。
 隣の部屋が明るくなる。

「おおおお……」

 とか思いながらベッドから起き上がってとぼとぼと隣の部屋に行く。
『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシみたいな歩き方で。
 ダイニングテーブルの上に置いてあった、落としたばかりのノートパソコンの電源を再び入れる。

 パソコンが立ち上がるまでの間に、冷蔵庫の中に入っている缶コーヒーを取り出した。
 立ったままリングプルを開けて、一口飲む。
 缶をテーブルの上に置いて、今度はコンポの電源を入れる。
 とりあえずコンポに入っていたCDのお気に入りの曲(12曲目)にする。

「ねむいよう」と心の中でだけ呟く。声には出さない。
 口にした言葉はある種の強力な力を持つと『千と千尋の神隠し』でもやっていたしね(←影響を受けやすい奴)。
 そして、忘れていたことを終えたときには時計は午前3時を示していて、今度は頭がさえて逆に眠れなくなっている。
「なんだそりゃ」と心の中で呟く。
 とりあえず全部の部屋の明かりを消す。
 それから、カーテンをめくって窓の外を見る。
 まだ暗い。
 僕の部屋からは月は見えなかったのだけれど、きっとまだほぼ満月なんだろうなと思う。
 ベランダには、エアコンの室外機が見える。
 顔を上げると、夜の空だけが見えている。
 ちょっとだけ迷ってから、カーテンを少しだけ開けたままにしておく。
 布団をかぶって、あおむけになって、少しだけ開けた空の方を見えるようにしておく。
 眠ろうと思ったら眠れないんだよなあとか考える。
 ま、しばらくしたら眠れるだろうとか思っていたら、気がつくといつの間にか眠ってしまっていた。


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 昨日の朝には、午前5時に散歩していた。
 あんまりにも早い時間で、まだ周囲は暗かった。
 空の中ほどにはまだ満月がちゃんと見えている。
 中秋の名月ってやつだとか思って、しばらく立ち止まって眺めていた。

 それから部屋の近くにある国道を渡って、新興住宅地の方に向かって歩いていった。
 途中のコンビニを越えてしまうと、新しい家やマンションがふいにまばらになる。
 街灯もちゃんとあるし、区画整理だってされているのだけれど、家だけがまだ建てられていない。
 これからちゃんとした新興住宅地になっていくのだ。
 たぶん山を切り崩して宅地造成したんだろうなと思う。
 この街は首都圏への通勤圏だから、家もマンションもどこかしらで常に建築中なのだ。
 幾つかの緩やかな坂道がのびていて、その内のひとつには柵が置かれて通行止めになっている。

「関係者以外立ち入り禁止」

 という文字がプレートに書かれている。
 その坂道を上りきった方角が東側なので、遠くの空が明るくなり始めているのが見える。
 手に持っていたデジカメで坂道全体の写真を撮る。
 背景は淡いオレンジと薄い青。
 それから柵を乗り越えて坂道に入る。
(関係者はまだ出勤してきてないからへいきだ)と思いながら。
 坂道を上っていく。
 途中で振り返ると、明るくなり始めた空に随分と白くなった満月が浮かんでいる。
 面白いのでまた一枚撮る。
 坂道の続きを上る。
 上までのぼってから何枚か写真を撮って、またもときた坂道を下っていく。
 そうこうしているうちにも周囲はどんどん朝になっていって、淡い境目の時間は簡単に過ぎ去ってしまう。
 あれ? といつものように思う。
 気がつくと完全に朝になっている。
 いつの間にやら夜明けが過ぎていて、いつ朝になったのかだけがわからない。はたと我に返ると、すでに空気は柔らかで涼しげな朝のそれになっている。鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 そのまま、ついでだと思って駅の近くまで歩いていった。
 線路の上を渡っている陸橋があって、その途中から線路を見る。
 何本もレールが走っている。JRと私鉄が走っている駅なので、線路は複雑な人間関係みたいに重なったり別れたりしている。
 遠くに山々の稜線が見えて、その向こう側にちょうど満月が消え去るところだった。
 さっきよりももっと白く、もっと薄くなっている満月。
 消える前に、と思ってやっぱり何度かシャッターを切った。

 そうして、部屋に帰ったときにはようやく6時になるくらいだった。
 カーテンを閉めたままの薄暗い部屋。
 帰る途中にはデジカメの入ったカバンのチャックをしめながら、「平日の朝に朝焼けを撮りに行くのってあやしいよなー」と思っていた。
 ほとんどすれ違う人もいない朝の道なんだけれど、そう思っているせいかシャッターを押すたびになんとなく気恥ずかしくなってしまうのだ。
 それでも、
 たまにそういうことをするのはたのしい、
 と思うのも事実だったりして。

 ということで、今日からのTop写真は3日の早朝に撮ったものなのです。
 造成中の新興住宅地の朝の写真なのです。


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 お知らせ

 昨晩ものすごく眠たかったのは、朝が早過ぎたからです。


2001年10月03日(水) 『千と千尋の神隠し』

 今日の夜は『千と千尋の神隠し』を観てきた。
 あっという間の2時間強。
 画面に引き込まれていたら、終わってしまっていた。
 いろいろ思ったりもしたのだけれど、見終わった後でいろいろと話したりもしたのだけれど、「あー、よかったなあ」というのが素直な感想。
 千尋を見ていると、目の前に起こる出来事をあるがままに受け入れて行動することができるのはすごいと思う。
 こういう物語を見ると世界や物事は自分たちが思い込んでいるよりもずっとシンプルなんじゃないかというようにも思えてしまう。
 映画館には夜にも関わらず結構な数の子供たちがいて、ロビーでは元気に率直な感想を親に向かって述べていた。
 もし近くに小学生くらいの親戚の子供なんかがいたら、絶対に一緒に観に連れて行きたいと思えるような映画だった。
(実際には、僕には小学生の親戚はいないのだけれど)

 また、すでに見た多くの人もそうだったと思うのだけれど、映画が終わった後、エンディングの歌が終わるまで一人しか席を立たなかった。
 みんな座ってあのテーマ・ソングを最後まで聴いていたのだ。
 僕はまだ『もののけ姫』を見たことがないのだけれど、今度見てみたいなと思ったりもして。
 観客動員数歴代一位がこういう映画だっていうのはとてもよい感じだと個人的には思う。


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 次は『トゥーム・レイダー』と『リリィ・シュシュのすべて』を観る予定。
『リリィ〜』のほうはしばらくは激混みと思われるので、少し間を置いてから観に行こうと思っているのだけれど。


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 そしてここ数日の削り続けた睡眠時間の影響で、いま現在「眠気祭り」が開催されています。
 開催地は僕。
 たまに突然電池が切れます。
 もういちいちへんかんなんてできないくらいねむいのですねむけまつりはいきなりくらいまっくすおやすみなさい。

 ちょっとオーバーだけれど、強烈に眠いことだけは事実。
 おやすみなさい。


2001年10月02日(火) 『ロジカル・シンキング』

『ロジカル・シンキング』読了。照屋華子・岡田恵子。東洋経済新報社。
 この本はこれから困ってしまうたびに紐解いてしまうのだと思う。
 教科書的な内容であるのに語り口はわかりやすくて、けれども読みやすいからといって内容は簡単には修得することが出来ない。
 ということで、必然的に何度も部分的に読み返すことになってしまうと思うのだ。
 読んで、試して、読んで、試しての繰り返し。
 タイトル通り、ロジカル・シンキングについての本であり、それをロジカルなコミュニケーションへと転化させていくための本だ。
 なにやら難しそうだし、表紙だって学校の教科書のように簡素なものでもある。
 ただ、そう書いてしまうと敷居が高くなってしまうのだけれど、本書の最初にはこう書かれている。

 要は「論理的なメッセージを伝えることによって、相手を説得して、自分の思うような反応を相手から引き出す」ことだ。

 その数ページあとには、こうも書かれている。

 コミュニケーションというととかく「あの人の書くものには天性の冴えがある」「彼の話術は生まれ持った才能だ……」というように、センスや感性に巧拙の要因を求めがちだ。確かにそれも重要だが、ことビジネスにおけるコミュニケーションでは土台を築いた上で備わっていればなおよい、という類のものだ。その土台こそがロジカル・コミュニケーションなのだ。

 その表現されると高かった敷居が少しは(あくまでも少しは)低くなるし、個人的にはその意見には本当に納得させられてしまう。
 実際の仕事の上では、当たり外れの大きいひらめきのようなものに頼るわけにはいかないのだし(ときにそれはとても大切だけれど)、ほとんどの場合には様々な人たちとコミュニケーションをとりながら進めていかなければならない。だからこそ論理的に、やや単純に言い換えてしまうと「わかりやすく」伝えられることが重要になってくる。
 そして、最終的には自分たちが望むような流れに持っていく、出来うることならこちら側と相手側の双方が満足できるような形に持っていく。
 それがとても重要だったりする。
 チーム内の話でも、外に関わる話でも。
 その前提条件であるロジカル・シンキングについて詳しく原理を述べているのでとても興味深かったりするのだ。

 筆者(2名)がもともと経営コンサルティング会社に所属しているだけあって、本書の中ではその企業で実際に使用されている技術が紹介されている。それは大きく二つにわけると「論理的に思考を整理する技術」と「論理的に構成する技術」であり、前者はMECE、So What?/Why So? という整理の仕方に、後者は並列型と解説型という構成方法になっている。
 もちろん、一度読んだくらいではちゃんとわかるようにはならないので、これから仕事でレポートや資料を作成する際には、この本の考え方を参考にしていけたらと思う。
 練習問題も幾つも収録されていて、それを考えていくのも結構楽しいのだ。
 そういうところも教科書に少し似ているのだけれど。
 だからこれがもし教科書だとしたら、かなり実用的な教科書ということになる。
 そういうのって、いいと思う。
 

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 この本は書店のビジネス書コーナーで見つけてしばらく部屋に積ん読していたものなのだけれど、いわゆるビジネス書的なものは、新刊コーナーに置かれているものを購入することが多い。
 大体にして、ビジネス書には一部を除いては「生」っぽいところがあるから、興味を持てるものに関しては鮮度のよいうちに手にとったほうがいいと思うのだ。もちろん、今回のような本の場合はもちがよいけれど、時事的なものであるとか、ある成長企業に焦点を当てたものなんかは、時期を逸すると鮮度が急速に悪化してしまうものだし。
 いずれにしても、人生の中で読むことのできる本の数はどうしたって限られているので、それがどんなジャンルの本であれ、読み応えや面白さや納得できるもの、あるいは共感を持てるようなものであればいいなと思うのだけれど。
 それはそんなに贅沢な願いというわけでもないのだろうし。


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 僕の部署でDFaxというサービスがかなりブレイクしている。
 上司から教えてもらったのだけれど、これはE-mailアドレスさえあればFaxをパソコンで見ることができるようになるというサービスで、ブレイクするだけあって当然無料だ。
 簡単な登録だけで、020からはじまる自分のFax番号を持つことができる。
 その番号宛にFaxを流すと、E-mailが届いて、そのメールに添付ファイルとしてFax原稿がついてくるのだ。
 原稿自体は、スキャナでとりこんだようなものをイメージしてもらえるといいと思う。
 それをパソコンの画面でチェックしてもいいし、プリントアウトすれば紙のFaxとなんら変わらない。
 ということはつまり、Faxを持っていなくても、Faxを受け取ることのできる環境ができあがる、ということ。

 ただ、無料のサービスなので、最初に登録したカテゴリーに関する広告がE-mailの一部に挿入されている。
 ただ、そんなのは基本的にはまず気にならないし。

 頻繁には使わないかもしれないけれど、これはかなり便利だと思う。
 とりあえず、部署内のメンバーみんなで面白がって登録したりした。
 一人は始業前に、僕は仕事が終わった後に登録したのだけれど、その間にFax番号は60番くらい変わっていて、つまり一日で全国で60人くらいが登録していることになる。そのくらいの認知度って、有名と言うのだろうか?
(番号は登録順なのだ。と言うのも、仕事が終わった後に前後して登録した何人かが下1桁の1番違いの番号になっていたから)。
 教えてくれた上司はかなりいろいろなサービスを知っている人なのだけれど、それにしても、よくこういうのを見つけてくるよなと思う。

 たとえばGoogleで「DFAX」(日本語のサイト)で検索すれば、そのページはすぐに見つけることができます。
 オススメかも。


2001年10月01日(月) 新しい飲み物を試そう

 僕は一日一回はコンビニに入っている。僕の住んでいるところには徒歩5分圏内に4つのコンビニが乱立しているので、日によって入る店を変えることさえできる(基本的にはセブンイレブンに行くことが一番多いのだけれど)。そして、いつも行っているので当然新商品には比較的よく気がつくようになる。とりわけ、飲み物ではなおさらだ。
 今日の会社帰りにセブンイレブンに寄ったときには、「紅茶花伝 エンジェルベリー」と「ワンダスーパーコーヒー」を見つけた。前者はベリー系のイラストが印象的な女性向っぽいペットボトルで、後者はリングプルの上にふたがついていて、その間に

「香りを聴く」という新しいトライ。

 と書かれた紙が入っている。

 とりあえず、両方購入してみる。
 飲みたがりなのだ。
 紅茶花伝のほうは後で飲むことにして、まずはワンダスーパーコーヒーを。
 あんまり遅い時間に飲むと眠れなくなりそうなので、最初はコーヒーにということで(というかもう遅いけど)。
 まず、透明なフタを外す。リングプルの上に置かれている丸い紙を手に取ってみる。

「缶を開けた瞬間「プシュッ!」という音がします。この音こそがアロマ(香り)が広がる秘密です。新しいワンダのこだわりをごゆっくりお楽しみください。」

 そして、太文字で、

「缶を振らずにお召し上がりください。」

 とある。

 へえと思う。「香りを聴く」って聞茶みたいだなとか思いながら。こういう五感をねじらせたような表現もよいなとか。「香りを見る」でも「香りを味わう」でも意外と違和感がないし。
 それから缶を振っちゃダメなのかと思う。そう書かれると振ってみたくなるのだけれど我慢する。とりあえず振るのは次に買うときにして(結局振るんだ……)、今回は振らずに、アロマが広がるのを楽しもうと思う。


 まず耳を澄ます。



 そうそう、とコンポのボリュームを下げる(自分の事ながら、こういうところはすごくまめだ)。




 そしてリングプルを開ける。












 ベショッ。。。







 ?




 ??






 ……ベショッ?




「プシュッ!」という小さく弾けるような音を想像していたので、一瞬部屋の中で凍り付いてしまう。大寒波到来。僕が恐竜ならいまごろ大変なことになっているよ。
 一人暮らしで困るのはこういうときだ。
 この妙なおかしさを誰かに伝えたいのにと思うのだけれど、部屋には自分しかいないから。
 だって、ベショッって言ったよ、いま……ベショッって……
 やけにツボにはまる。
 しかも、このしょうもなさは時間が経てば経つほど意味合いを変えてしまうから、いままさにこの瞬間に誰かに伝えなきゃ、と意味もなく焦る。
 ということで後輩に電話をした。ちょうど他の用事もあったし。
 結局、いろんなネタで話が盛り上がり、40分くらい話してしまった。
 そして受話器を置いたときには、アロマは空気の中にとけて消えたりしていたのだけれど。


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 お知らせ

 たぶん僕が袋の中で激しく振ってしまっていたのだと思います。
 今度もう一度買ってみます。


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 Today's Music

 Chante Moore 「Love's Still Alright」

 久しぶりにCocco以外を聴いている。
 この曲はアルバム「exposed」に収録されているのだけれど、ミディアム・テンポのメロディーが個人的なストライク・ゾーンど真ん中。このアルバムには「Better Than Making Love」というよい曲も収録されていて、基本的には結構オススメ。

 ※ちなみに、僕はたとえば10曲入りのアルバムなら3曲個人的に気に入ってしまう曲があれば当たりアルバムだと思っています。野球の打率みたいな感じですね。3割で、好バッターというわけ。


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 今日は冷たい雨の一日でした。
 秋はどんどん深まっていくのですね。
 雨が降る度に、雨が止む度に。
 音をたてて、勢いをつけて。

 そしてこういう雨の夜には、傘をもうなくさないようにしようと、子供の頃から何度も繰り返していることを反省したりするのです。

 


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