Sun Set Days
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今日は20時過ぎに仕事を終え、それから後輩と一緒にレイトショーの『ラストサムライ』を観てきた。 この映画は周囲でなぜだか異様に「観た」率が高く、上司から後輩、アルバイトさんからはたまた別の部署の後輩まで、本当に多くの人がすでに見ていた。別の部署の後輩なんて、社用のFAXに「○○さんラスト・サムライ見ました?」と書き込んでくる始末。
でも、そのたくさんのすでに観た人たちの中に、面白くないという人がいなかったので(普通、という人は何人かいた)、結構期待していたのだ。女の人の中には、かなり泣いたと話している人もいたし。
結論としては、面白かった。ストライクゾーンには入らなかったのだけれど、それでも楽しかったし2時間40分ほどの長さを全然長く感じなかったし。
ストーリーの方は、『ラスト・サムライ』というタイトルと登場人物たちの設定を見ただけで多くの人が予想するような流れそのままなのだけれど、やっぱりそういうストーリーって男子の胸を打つものがある。滅び行くものだとか、失われつつものにどうしても抱いてしまう郷愁や感傷を、現実という透明な壁で押さえつけてしまうような物語はやっぱり見ていて痛いし、引き込まれてしまうのだ。
渡辺謙はかなりよい演技をしていたし、トム・クルーズ(好きな男優の一人)はやっぱり魅力的だし、ニュージーランドに作られた架空日本の風景にはちょっと人工的な印象を抱いてはしまったのだけれど、それでも全然許せるという感じだった。武士道だとか、名誉だとか、誇りだとか、己に厳しいことだとか、研鑽だとか、どこかではやっぱり失われつつあるそれらのものについて、考えさせられてしまった。
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映画の中で、トム・クルーズと小雪のキス・シーンがあるのだけれど、生まれた国が違っても、キスはやっぱり同じような意味であるのだということをどうしてか不思議に思った。世界中の様々な国や民族のことにはそれほど詳しくないので、実際のところはよくわからないのだけれど、たとえば国によって、あるいは民族によってキス以外のことが、キスのような意味を持っていたら面白いのにと思ったのだ(もちろん、これは国や民族ではなく、人間という部分で基本的に共通している部分なのだろうけど)。
たとえば、手の平を重ね合わせることが軽いキスと同じ意味を持つ行為で、指を重ねたらディープキスと同じという民族がいてもいいし、手紙を書くことがキスと同じ意味を持つ民族がいてもいい(その場合には、もちろん手紙の中身と長さが重要な意味を持っている)。 または、ある種のファンタジー小説みたいに、名前の他に本当の名前があって、その名前を呼ぶことがキスと同じ行為である民族があってもいいのかもしれない。隠匿されたほんとうの名前を愛する人に小さな声でゆっくりと囁かれることが、身体を内側から溶かすような意味を持つというような。
いずれにしても、別の行為が何か他の行為と同じ意味を持つことって、探してみればあるのかもしれない。手の平を重ね合わせることだって、ある意味いまでもそのようなものなのかもしれないし。
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お知らせ
トム・クルーズって、やっぱり存在感がいいよなあと思うのです。
『24』のファースト・シーズン24話を全部見終わった。 予想を裏切られる展開に驚きつつ、続きが気になって最後には一気に7時間分も見てしまった(ずっとヘッドホンをして見ていたので耳が痛い……)。ネタバレになってしまうので書かないけれど、どんでん返しが繰り返され、かつ伏線が周到に張り巡らされていることには驚かされてしまう。残された時間が刻一刻と迫ってくることが文字通りリアルに感じられて、最後はどう収拾させていくのかと、かなりハラハラとさせられたし。
ちなみに、アメリカの人気ドラマ特有の展開なのだろうけれど、2nd、そして3rdシーズンもあるんだ……
前回も書いたけれど、新しい試みのドラマで、レンタルも出ているので一度見てみては?
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お知らせ
24時間でひとつのエピソードって、考えてみるとよく実現させたものだと思います。
| 2003年12月19日(金) |
『24』+椅子の生活 |
今日は休日で、のんびりと過ごす。 10時に起きて、髪を切りに行って、午後は部屋で洗濯機を2回回しながら、パソコンに向かって文章を書いていた。 途中、2回電話がかかってくる。 1本目は前の部署の後輩からで、1年前仕事を引き継ぐ際に渡したマニュアルのようなものを、さらに別の後輩に渡してもいいかどうかとの確認の電話。そんなのはもちろん確認しなくても大丈夫だし全然OKと答える。 もう1本は、いまの部署の後輩(同じく休日)からで、夕方から映画を観に行かないかというお誘い。けれども、宅配便が届く約束になっていたので、そちらの方は申し訳ないけれど断りを入れる。日中髪を切りに行っている間に宅配便の不在連絡票が入っていて、再配達を依頼すると夜になるという返答だったのだ。 配達員によっては、不在でもメーターボックスに入れておいてくれるのだけれど、今回届く物は価格が結構するものだったので、万が一なかった場合のことを考えて直接受け取りたかったのだ。
19時少し過ぎに、ようやく荷物が届く。Amazon.co.jpで注文していたDVD-BOXの『24−COLLECTOR’S BOX2−』だ。 これは、アメリカのドラマ『24』のボックス・セットで、興味で1巻を購入して以来、ボックス・セットの1も購入して、毎日のように見ていたのだ。
「映画では実現不可能な、新しい24時間。」
という謳い文句のこのドラマは、タイトル通り1話1時間(実際にはテレビCMの分があるので、45分くらいだけれど)で物語がリアルタイムに続く、はじめてのパターンのドラマなのだ。つまり、第1話が午前0時から1時までで、第2話が1時から2時まで、そして最後の24話目は23時から24時までを描いていることになるのだ。 その試みに興味を惹かれ購入したのだけれど、いまでは結構はまって見ている。たくさんの登場人物が登場し、それぞれの状況が1画面に複数の画面が展開したりすることで表現されたり、様々な人物たちのエピソードが交互に語られたりと、最初は戸惑ってしまうような演出方法にも17時まで見たいまではもうすっかり慣れてしまっている。また、ドラマ中で「15分で着く」と言う台詞があったら、ちゃんと15分後にそのエピソードになったり、ある人物が殺されたのが「○時間前」という表現も、そのままリアルにそうで時間をはしょる通常のドラマと比べ新鮮に思えたりする。それに、見ている時間がとにかく長いので、細部まで濃密に描かれていることに感心してしまうし。
物語は、黒人初の大統領候補の予備選の1日を舞台にし、その候補の暗殺計画を阻止しようとするテロ対策ユニット(CTU)のジャック・バウアーの活躍を描いている。妻子を暗殺テロ集団に誘拐されたバウアーは、自ら暗殺者に強制的に協力させられながらも、数々の機転で少しずつ核心に近づいていくのだ。今日届いたボックスセットも、さっそく4時間分見てしまったので残すは後7話なのだけれど、これまでも様々などんでん返しがあって、最後にはいったいどのような形で収斂されていくのだろうと結構楽しみだったりする。
これをいま職場で地味に流行らせていて、第1巻はすでに3人目にまで渡っている。今日届いたボックス・セットで全24話、全12巻が揃ったので、これで後はリレー競争のように、見終わった人から次の人へと手渡されていくのかもしれない。
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DVDを見るときには、部屋の中を暗くしてみる。コードレスのヘッドホンをつけて、飲み物(今日はホットコーヒー)を用意して、ちょっとしたお菓子も用意する(今日は久しぶりに「きのこの山」を買ってきた)。そして、集中して愉しく見るのだ。見終わった後、部屋の明かりをつけると、なんとなく名残惜しいような気持ちになる。特に、今日の『24』の場合は、まだ続きがあって後ろ髪も引かれたのだけれど、明日の仕事のこともあるしとなくなく続きを見るのは我慢した。毎日ちょっとずつ楽しんでいこうということで。
いま部屋の中を見回してみると、趣味のための部屋と言うか、一人で机に向かっていろいろするのにかなり適した部屋になっているよなあと思う。もちろん、そういう部屋にしたくて少しずつ物を揃えたり配置を考えたりしていた結果なのだけれど、自分の生活は完全に「椅子」の生活だ。
大きく分けると、床に座る生活か椅子に座る生活かになると思うのだけれど、僕の場合は完全に後者だ。いまは2DKの部屋に住んでいるのだけれど、ダイニングにはダイニングテーブルと、それに合わせて椅子を2脚置いているし、洋室の方には宝物のひとつでもある趣味&仕事用の平机があって、それに合わせてやっぱり椅子を置いてある。もうひとつの和室には椅子はないけれど、ベッドを置いていて、基本的に眠るときにしか入らない部屋なので、家にいるほとんどの時間は椅子に座っていることになる。あるいは、立っているか眠っているか。
一人暮らしをはじめてもう10年以上経つけれど、部屋に常に机はあったので、思い返してみると最初から椅子の生活の比重が高かった。フローリングの部屋が多かったこともあって、ラグを敷いていなかったこともあって、床に座るということはあんまりなかったのだ。ただ、昔の友人や昔の恋人の部屋のことを思い出してみると、どちらかと言うと床に座る部屋の方が多くて、確かにその方がくつろぐことができる面はあるよなとも思う。カーペットやラグの上にセンターテーブルや家具調コタツがあってというような感じの部屋だ。
もちろん、椅子主体の部屋だからと言って部屋でくつろいでいないかと言うとそんなことはないのだけれど、けれども床の部屋の方がくつろぐことはできそうだなと思う。でもこれは自分が選んできた生活スタイルやパターンに拠るものなので納得しているし満足もしているのだけれど。
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お知らせ
ブリトニーのニューアルバムでは、「Everytime」が一番ツボなのです。
17日の仕事帰りに、8人で牛角に行ってきた。職場を出たのが22時半過ぎだったので、店に入ったのが23時で、店を出たのが午前1時過ぎ。やっぱり焼肉はおいしいよなと思いながら、みんなでくだらない話に笑いながら食べていた(どれくらいくだらないかと言うと、車を出してくれた人に向かって、後輩たちが「あーあ、仕事の後のビールって最高ですよねえ!」と散々アピールすることとか)。 くだらない話はいつだって楽しいし、日々のなかにある笑いはやっぱり大切なものだなと思う。散々笑って店を出た後、後輩の車で送ってもらい、部屋に着いたのは午前2時少し前だった。
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深刻さとおかしさとについてときどき考える。深刻なだけの人はいないし、おかしいだけの人もいない。もちろん、人によって程度の差はあって、どちらか寄りということはあるけれど(たとえば、いつも深刻そうだとか、いつも笑っているだとか)、誰にだって喜怒哀楽と呼ばれるような感情の波や幅があるので完全にそればかりということはない。そのバランスのようなものは、自身が置かれた様々な場によって変化していき、誰かといるときと一人でいるときとで異なるし、その誰かが異なっていても結構大きく変わってしまう(たとえば友人といるときと家族といるときとの違いは誰しも心当たりがあるだろう)。それだけ幅があることが個人の多様性なのだろうし、一人の中に本当に複数の状態があって、杓子定規的に、ステレオタイプに図れない部分でもあるはずだ。
そして、そのどれもが事実としては本当の自分(の一側面)であるわけだから、本当の自分がどこか別のところにいるだとかいうのはちょっと違った話になってくると思う。一人で真面目に何かについて考えているときも、友人たちと笑っているときも、自分が属する集団のなかでたとえば何かを我慢しているときも、すべて自分の一側面であるのだ。それをこれは本当の自分じゃないとか言い出すと、きりもないし、精神的に健康な状態ではないように思う。
今の状態は本当の自分じゃないというようなことに頭を悩ませている人が以前いて、そういうのって疲れることなのだろうなと思っていた。事実は事実であるので、現状を受け入れることはとても大切だし別に何かを放棄したり諦めたりすることでもないと、そう思えたのだけれどその言葉は届きそうもなかったので言わなかった。まずは最初に自分自身を自分でちゃんと受け入れること。よいところやだめなところ、現在の状況、そして未来の希望や願望、そういった様々な状態すべてをまずは受け入れることがとても大切なことだと思うのだ。あるいは事実は事実として認めること。事実をまずは受け入れた上でないと、前向きな意味での現状否定も正しいベクトルで行うことはできなくなるはずだし。 事実が前提でない場所でコンパスを手のひらに載せていたとしても、その方位針がさしている北が本当に北かどうかなんてどうして信じられるのだろう? と思うし。
いずれにしても、いろんな自分がいて、どの自分も好きだとか言うとまたちょっと変な感じはするけれど、自分の好きなトーンとか、自分の中の規準だとか、そういったものはちゃんと自分でわかっていたいなと思う。そうしたら、深刻さもおかしさも、どちらも自分の中の一部の要素であるということがもっと正しい形でわかっていくはずだし。
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今日の夜は、やっぱり仕事が終わった後、後輩と一緒にファミリーレストランに行った。今度社内の試験を受ける後輩のレポートの中身を考える手伝いをしていたのだ。 その後輩は、その社内の試験(昇格試験のようなもの)に絶対に受かりたいと思っていて、とても力を入れて勉強をしている。そんなふうに頑張っているので、出来る範囲で手伝ったり応援をしたりしようとはやっぱり思うし。 それで、部署の問題点をひとつ挙げ、その問題点が何に拠るもので、どんな解決策があるのかということをまとめる論述問題があるのだけれど、それについて一緒に考えたのだ。と言っても、基本的には本人自身が考えるべきことなので、質問を繰り返して整理してもらうような形を取ってみたのだけれど。 そういえば、昨年も別の後輩(今年の後輩の一年先輩)のレポートを、やっぱり同じファミリーレストランの、同じような場所で添削したりしたよなということを思い出したりもした。昨年の後輩は合格して、その後で食事をおごってもらったのだった。 もう一年が過ぎたのだと思うと、早いよなとあらためて思う。
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お知らせ
明日は休日で、やっぱり夜更かししてしまっているのです。
| 2003年12月15日(月) |
『号泣する準備はできていた』+精神的な雨漏り |
『号泣する準備はできていた』読了。江國香織。新潮社。 発売した頃にAmazon.co.jpで購入して手元にはあったのだけれど、なかなか読むことができずにようやく今日手にとることができた。 リアルタイムで新作を読むことができる作家の場合、その作家の変化と読者である自分の変化のことを考えるとときどき哀しくなってしまう。ある作家が好きになりファンになるということは、どこか友情や愛情に似ているようなところがある。その作家の作る世界や視点に共感を持ったり、心奮わせられたり、あるいはものすごく愛おしく感じたりするのだ。そして、友情も愛情も永遠ではないので、いつか気がつくと軌道を外れた人工衛星みたいに随分と遠いところまで離れていってしまう。それは作家の方が変化したからなのか、読者の方が変わってしまったからなのかはよくわからない。たぶんそのどちらでもあるのだと思う。 江國香織は大好きな作家の一人だ。2冊目に読んだ『ホリー・ガーデン』にノックアウトされて以来、もう随分と長い間読み続けている。もちろんすべての作品が好きなわけではないけれど、いつもうまいなあと思うし、いくつかの作品にはかなりやられてしまった。
けれども、ここ数年の作品を読んでいると、昔ほどシンクロできないような気がする。やっぱり相変わらずおもしろく読むことは出来るのだけれど、それでもどこか別の部屋で行われていること、というような印象を抱いてしまう。 それは、描かれている人物たちの年齢層がずれてしまってきているからなのかもしれない。性別によるものなのかもしれない。あるいは、以前よりも少しずつ増えてきているブルジョア的な環境設定になじめないところがあるからなのかもしれない。あるいは、登場人物たちがナイーブな感受性の強い時期を通り抜けて、より強くタフになっているからなのかもしれない。 いずれにしても、どこか別の部屋で行われている興味深いけれど、それほど感情移入することができない世界というような感覚がどこかにあるのだ。そんなのはただ単純に僕が年をとっただけなのかもしれないけれど。
もちろん、感情移入できることがすばらしい物語に必要な条件というわけではないし、実際にこの短編集も魅力的なものだと思う。相変わらず文章はうまいし印象的な比喩が用いられているし、鮮明なイメージが浮かぶような細部の表現があるし、登場人物たちは満たされていながらもどこかに損なわれている部分があるし。ただ、リアルタイムで新作を読み続けていくことのできる作家の場合には、自分の中の温度のようなものが変化していくことも当たり前のこととして受け入れていかなければならないということはやっぱり少しだけ哀しく思える。 けれども、この短編集の中でも恋愛感情がなくなってしまった登場人物たちが繰り返し描かれているように、作家と読者の関係にもそのような部分は多かれ少なかれあるのだ。あるいは、段々と疎遠になってしまった友人とでもいうような。
ただ、以前とは異なる心持ちであったとしても、かつては本当に心の底から熱中し、感情を揺り動かされていたのだ。それはとても素晴らしいことで、いまでも一過性のものだけではない影響を残している、本当に得難いことだったと思う。軌道が一度でも重なり合ったということは、まるで奇跡のように素晴らしいことだったのだとも思うのだ。 また、作家の中には、いつまでも友情関係が継続するような場合も、一度だけで疎遠になってしまうケースもあって、そういうのもまた現実だしおもしろいことなのだろうなと思う。
ちなみに、この短編集で個人的によかったのは、強くこれというものはなかったのだけれど、『こまつま』と『熱帯夜』。
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この本の中に雨漏りが出てくる部分があるのだけれど、それを読んでいたときにそうか、雨漏りかと思った。 最近は、精神的な雨漏りのような状態だったのかもしれないなと。そして、そのページはバスの中で読んでいたのだけれど、ページを手繰る手をとめて、しばらく精神的な雨漏りについて考えていた。
天井から水が漏れて、雨漏りとして床に落ちる。被害を防ぐために下にボウルや洗面器などを置く。それで一時的にしのぐことはできる。けれども、抜本的な解決にはならない。抜本的な解決のためには、業者を呼んで、ちゃんと修理しないとならない。雨漏りのよいところは、問題となっている箇所がわかっていることだ。どの部分を修理すればいいのかは(少なくとも表面上は)わかる。天井裏にのぼってみたらもうとんでもないことになっていることが明らかになるかもしれないけれど、そのときはもっと全面的かつ徹底的に修理すればいい。
忙しさや(まあもちろん、ものすごく忙しいというわけでは全然ないのだけれど)、他にもいろいろなことが重なって、この一年くらいなんとなく余裕がなくなっていたように思う。もちろん、日々は楽しく暮らしているし、それなりに穏やかでそれなりに慌しい。それでも、うまく消化できない部分が少しずつ精神的な天井裏に蓄積して、積もっていたように思う。そして、目に見えない部分では押さえきれなくなったところから、水はちょっとずつそれこそ雨漏りのような形で床を濡らし始めてきたのだ。もちろん、すぐに応急処置をする。元来、応急処置的なことは得意なわけだし。けれども、ある日気がつくと精神的な部屋の床中に様々な形をした入れ物がたくさんの雨漏りを受けて水を貯めていることに気がついてしまったとしたらどうだろう。そして、その状況(つまりは、床に雨漏りを受けるボウルが常にあるということ)を当たり前のものとして感じているようになっていたとしたら、それはもうやっぱり重症だと言わざるを得ない。
もちろん、他人が絡むことにはどうしようもないこともあるけれど、こと自分自身だけに関係することであるなら、どんなにひどい状態になってしまったとしても、修理することはできる。それこそ、精神的な修理工を呼んで、精神的な大工事を敢行して、どうにかしてしまうことができるだろう。もちろん一度にはできなくても、何回かに分けて修繕修復をすればいい。大丈夫だと、根拠もなく思うこともできる。
けれども、しばらくの間、精神的な雨漏りの状態のままで、応急処置だけでやり過ごしていたのだなと思うと、なんだか情けないような、まだまだダメだなあと痛感してしまう。もちろんまだまだ精神的には子供だけれど、もうそんなことを言っていられる年でもないのだ。年相応という言葉が実は抽象的なものなのだということには以前から気がついていたけれど、それでもイメージに近いところにまではもっていかないとならない。
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今日は休日で、久しぶりにゆっくりと眠った。 起きてから、洗濯機を回しながら、後輩のレポートの添削(追加分)をして、会社に顔を出してそれを届けてくる。 それから、電車に乗って桜木町に行き、ワールドポーターズやクィーンズイーストで買い物をする。一風堂でラーメンも食べる。 マフラーを買った。グレーと濃いグリーンの混ざったような色のやつ。 バスや電車の中、そして帰ってきてからの部屋の中で『号泣する準備はできていた』を読む。 部屋の中で音楽を聴きながら紅茶を飲みながらDaysを書く。
今日外を歩きながら、今年ももうあと半月なのだなと思っていた。風はつめたくて、歩いていると随分と身体が冷えてしまった。 いまの部屋に引っ越してきて1年が過ぎて、一通り季節が過ぎたのだと思うとなんだか不思議な気がした。けれども、ちゃんと一年分の季節の記憶があって、春や夏や秋のことも思い出すことができる。どの季節もなんだかんだいって好きなのだけれど、それでも冬がくると冬が好きなのだと思う。それはとても都合がよいことだけれど、目の前の季節を好きだと感じられることは、悪くないことだとも思う。
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お知らせ
帰り道を歩いていると、クリスマスのネオンが明滅している家やマンションの部屋が多いのです。もうじきクリスマスですね。
昨日(というか、日付でいうと14日なのだけれど)は午前1時少し前に眠り、午前5時に目覚ましで起きる。 それから、眠る前にやっていた後輩のレポートの添削の続きを出勤までの時間で行う。 後輩3人が社内の試験を受けるためにちょっとしたレポートを書くことになっていて、その添削をするという話になっていたのだ。もちろん、僕が添削というのもちょっとおこがましくはあるのだけれど、一応上司だし、文章を書くのは好きなのでやることになった。 プリントアウトしたレポートに、赤サインペンで矢印を引いたり、直したり、構成の型を書いてみたりする。なんだか、赤ペン先生のような気持ちで、その作業を続けていた。
午前8時から23時少し前まで仕事。部屋に帰ってきたのは23時過ぎ。 それから、飲み物とお菓子を食べながら録画しておいたトヨタカップを見る。 トヨタカップと言うのは、欧米王者と南米王者の一騎打ちで、サッカーのクラブチーム世界一を決める大会だ。今年は、チャンピョンズリーグを制したACミランと、南米選手権を制したボカ・ジュニアーズの戦い。 白熱した試合だったし、カカとテベスという次世代を担うような選手を見ることができたのはよかった。
ということで、今日は結構長い時間起きていて、Daysを書いている現在結構眠たかったりする ちなみに、いまは15日の1時30分過ぎ。 月曜日は休日なので、久しぶりにゆっくり眠ろうと思う。
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お知らせ
ガットゥーゾは、いい選手ですねえ。
| 2003年12月12日(金) |
yesterday,today |
昨日は、仕事帰りに12日が休日のメンバー5人で飲みに行く。 ホットペッパーで探した店に入る。間接照明で薄暗い創作和食の店。 料理はおいしく、車を出してくれた後輩以外はお酒もおいしそうに飲んでいた(僕もビール一杯だけは飲んだ)。 いろいろと話した後午前2時過ぎに店を出て、お酒を飲んでいなかった後輩の運転する車で送ってもらった。 部屋に着いたらすでに午前3時少し前だった。
今日は同じく休日だった後輩が午後から部屋に遊びに来る。何か本を貸してくださいよという話になり、『ザ・ゴール』を貸す。分厚さに驚いていたけれど、「一気に読めるって」と薦めておく。実際一度波に乗ってしまったら一気にページをめくらざるを得なくなる本の一冊ではあるし。先日にも別の後輩に薦めてみたのだけれど、実際に自分で購入していた。少しずつ回りに読んでいる人を増やしていくのが楽しい本だなとは思う。
夕方、車で東戸塚の西武に連れて行ってもらう。 2プライススーツストアの「パーフェクトスーツファクトリー」でスーツを、「WAVE」でブリトニー・スピアーズの『IN THE ZONE』を、「レピシエ」で紅茶を買い、回転寿司で夕食をとる。無印良品で2004年のカレンダーを購入し、帰る前にスターバックスでコーヒーを飲んだ。お腹いっぱい。
今日は3時少し過ぎに眠ったにも関わらず午前6時に目が覚めてしまい、それからずっと起きて活動していたので、これを書いているいまはさすがに眠たかったりする。
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お知らせ
これで、無印のシンプルなカレンダーを購入するのは何回目なのだろう? と思ったりもするのです。
問一、次の文章には間違いがあります。間違いの部分にアンダーラインを引きなさい。(各3点)
�,里啾澄△靴困�ちゃん、スネ夫、ブタゴリラ、ドラミちゃん
�▲弌璽丱僖僉▲弌璽丱泪沺▲弌璽丱團�リ、バーバベル、バーバモジア
��アンパンマン、食パンマン、ラーメンマン、カレーパンマン
�そ�さん、角さん、黄門様、お銀、うっかり
�ゥ廛譽ぅ好董璽轡腑�2、ゲームキューブ、X-BOX、ピピン@
問二、チーズはどこへ消えたでしょう? 250字以内で答えなさい。(15点)
問三、『マディソン郡の橋』に込められた現代社会問題を、以下の単語を含めて500字以内で答えなさい。(20点)
不倫、過疎化、カメラマンはなぜバンダナをしているのか?、ロバート・レッドフォード
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お知らせ
『マディソン郡の橋』とか、最近の若い人は知らないのかも……
23時少し前に仕事が終わって、後輩と3人で焼肉を食べに行って、午前1時過ぎに店を出た。 それから車で送ってもらって、部屋に着いたのが2時少し過ぎ。 かなりお腹いっぱいでさらには眠たくて、こういうのってかなり幸福なことなのだろうなと「苦しい〜」と思いながらもぼんやりと考える。 外は随分と冷え込みが厳しくて、コートのボタンもしっかりとしめようと思ってしまうくらいだ。 なんとなく日々の中に慌しさの粒子のようなものが混じりはじめていて、師走なのだなと思う。 年末特有の空気が色づいて感じられるような日々がはじまると、意味もなく気持ちが昂ぶってしまう。 どうしてかわからないけれど、昔からそうなのだ。 そして今年もやっぱりそうだ。 妙に慌しくけれどもどこか愉しくて、その中に身をひたしていたくなるような日々。 12月って、実は好きな月なのだなとあらためて思う。
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お知らせ
いま、少しずつ『24』を周囲に流行らせているところです。
| 2003年12月05日(金) |
It looks back upon this year. |
昨日で6連勤が終わり、仕事が終わった後、後輩と一緒にゴハンを食べに行ってきた。 二人でゴハンを食べるのははじめての相手で、いろいろと喋っているうちに気がつくと午前1時近くになっていた(まあ、仕事が終わったのが23時少し前だったので実際はそれほど長い時間喋っていたわけではないのだけれど)。帰りは車で送ってもらう。
そして今日は午前中9時から1時間くらい会社に顔を出して、それから部屋に帰ってきて掃除をしている。 連勤が続くと、少しずつ散らかってきてしまうのだ。本当は出したものをすぐその場で片付けることができればいいのだけれど、なかなか徹底するのが難しく、休日にまとめて一気にということになってしまう。 洗濯もしたかったのだけれど、小雨が降ったりやんだりのぐずついた天気で、明日以降の晴れ日の朝に持ち越し。最近は部屋干し用の洗剤がいくつか発売されているけれど、できるだけ外に干したい派なのだ。そういう派があるのかどうかは別にして。 いま住んでいる部屋は2階で、そんなに大きくはないけれどベランダがついているので、そこに洗濯物を干している。
ふと思うと、いまの部屋に引っ越してきて1年が過ぎて、なんだかあっという間だったなと思う。来年の今頃はほぼ間違いなく別の部屋に住んでいることと思うけれど、1シーズンを同じ部屋で過ごすのはやっぱりいろいろと発見があって面白かったりする。 いまの部屋の周辺は大分というか、かなり散歩し尽くしたけれど、静かな住宅地で路地が多く、なんだか10年くらい昔にタイムスリップしたような気分になるときがあった。かなり昔からある商店の看板や、地元に根付いているような歯医者、路地の先に突然あらわれるコンビニエンスストアに、そこだけ妙に小奇麗で新しい郵便局。市営バスは車を通すために細い路地をときどき停車しながら進み、下校時間近くには近くにある高校の学生たちがバス停周辺に集まっている。 迷路のような一方通行に振り回されるようなエリアがあると思えば、少し歩くと川沿いをたくさんの車が走っているところに出くわす。駅までは少し遠くて、けれどもバス路線はたくさんある。散歩をしている途中に異なる路線のバス停がいくつもあって、市営バスの路線の細やかさに驚いてしまう(片道210円の定額制にも驚いているのだけれど)。
いままで住んできたいくつかの街や町の、いくつもの道路を、散歩や通学や通勤を繰り返していく中で記憶に残してきた。そして、継続は力なりっていうほど大層なことでもないのだけれど、繰り返し歩いてきた道路の記憶は、思い出そうと意識すると意外と鮮明に思い出すことができたりする。もちろん、記憶は古いものになればなるほど断片的なものへと移り変わっていくけれど、それでもなんらかの断片はある種のてがかりのように記憶に引っかかって思い出すことができる。
仕事柄転勤や異動が多くて、そういうのを嫌がる人がいるけれど、個人的には全然嫌ではなかったりする。それは僕が一人暮らしでいろいろなしがらみがないからでもあるとは思うのだけれど、それでもたくさんの場所の記憶を持っていることは、個人的にとても嬉しいことのように思うのだ。 別にそれぞれの場所で劇的な出来事やエピソードがあったりするわけではなくて、どちらかと言うと淡々とした、それぞれの場所での普通の日常の暮らしがあるだけだ。それでも、思い返してみると、何年前はどこにいて、何年前はまた別のどこかにいたという記憶が思い出されて、いろいろと懐かしく感じられる。
別にいつも昔を懐かしんでいたりするわけではないのだけれど、たまにそういうことを考えたり思い返してみたりするのは結構たのしいことのように思う。ずっと生きてきて、過去を振り返らないのであればもったいないし。
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振り返ると言えば、日経MJの12月4日号で、「2003年ヒット商品番付」をやっていた。毎年恒例の企画で、この特集が掲載されると1年ももう終わるのだなと思う。これは、番付という名前の通り、今年のヒット商品を東西に分けて順位付けしているものなのだけれど、今年の東の横綱が「デジタルAV機器」で、西が「昭和」だった。それぞれ、「プラズマなど薄型テレビとDVDレコーダーが大ヒット〜」と、「山口百恵のCDセットの発売やアイビーブランド「VAN」の復活など、昭和を代表するモノが大ヒット〜」と書かれている。大関には「六本木ヒルズ」と「阪神タイガース」が挙げられ関脇には「ヘルシア緑茶」、「都市型温泉」、「駅ナカ」などが並ぶ。 前頭には、「トリビアの泉」や「着うた」、「ワンダ モーニングショット」、「チョイノリ」やt.A.T.uや女子十二楽坊などの総称である「大陸系アイドル」など様々なモノやサービスが続いている。 横綱の両者を見ても、日経MJの視点らしさが出ていて一般的なイメージの横綱とはちょっとだけ乖離している部分があるかもしれない。けれども、この特集を見ていると、この1年も様々な流行やモノやサービスがあったのだなと思い出させてくれる。大まかな論調としては、数年前から続いていた激安やデフレ的なものが上位から姿を消し、かわりに成熟した消費者に対応した高品質・高機能や、高い付加価値を有したサービスなどが取って代わっているという流れが書かれている。確かに実際にその通りなのだろうし、もちろんそれをすべてうのみにすることはできないけれど(高価格商品は露出頻度が高い分話題になるが、実際には低価格商品の流通量の方が圧倒的なため)、それでも大きな流れとしては確かにその通りなのだと思う。
いずれにしても、年末が近づき(もう12月!)、こういった回顧的なもの、この1年を振り返ってものが多くなってきて、そういうのを見たり読んだりすると、いよいよ年の瀬という感覚を抱くことができるのだ。
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お知らせ
トリビアの泉って一度も見たことがないのです。
子供の頃の一人遊びのひとつに、架空の街をつくるというものがあった。 遊び方は簡単だ。 白い紙に、まずは大体の街の輪郭を描く。 それから、いくつかの道路を描いたり、建物を並べてみたりする。他にも、たとえば右上の方に山々が連なる絵を描いてみたり、街を横切る河を描き足してみたりする。街と山々の間あたりに鉛筆の先をぐるぐるとまわして森を描いてみたり、ビルが立ち並ぶ大通りの場所にしばし悩んでみたりする。鉄道の駅の場所は何度も消しゴムで消しては、試行錯誤して考えてみたりする。おおまかな輪郭ができあがるところまでそれらを繰り返す。
街の概要が完成したら、今度はその街に住んでいる人物を想像してみる番だ。 それぞれの場所に、たくさんの登場人物を配していく。 そして、これがいよいよ本番なのだけれど、彼(や彼女)たちが登場するたくさんのエピソードを考えるのだ。誰と誰が知り合いだとか、この人はこの人のことが好きなのだとか、そんなふうな空想を繰り返す一人遊びだった。 紙とペンと時間があればできる単純な遊びで、けれども結構愉しかったのを覚えている。他愛のない、稚拙なものだったにしても、それがひとつの世界だったからなのだろうなと思う。 だから、昔『シムシティ』という街をつくるゲームが発売されたときには、同じような遊びをしていた人はたくさんいたのだろうなと思った。何もないところに、街をつくっていくということの楽しさのようなものは確かにあるのだ。
これまでにつくってきた街には何種類かあって、たとえば子供向けのアニメが一年間経ったら最終回になって別のアニメがはじまるように、ひとつの街をつくってそのエピソードを語りつくしたように思えると、今度は別の新しい街をつくってみたりしていた。 あるときは海辺の街で、あるときは山間の街だった。北国の雪に囲まれた街があれば、南国の小さな島の中にある街であるときもあった。どんなときもそれらの街にはたくさんの人が住んでいて、様々なドラマが(頭の中では)繰り広げられていた。 ある街に住んでいたお気に入りの登場人物が、別の街の空想の物語を作るときに引越しとか旅行とかで登場するという設定なんかもあって、個人的には結構楽しんで遊んでいた。 いまではもちろん空想の街作りに没頭することはないけれど、それでもときどき白い紙に道路を描いてみたりすることがある。そんなときには、昔の「架空の街」の記憶が蘇ってきて、懐かしく感じられたりもする。 あの頃、夢中になって想像していたある街の主人公のことを、ずっと忘れていたりしていて驚いてしまう。それは昔の幼馴染の名前すら思い出せないことに似ていて、なんとなく申し訳ないような気分になってしまうのだけれど。
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お知らせ
今年もいよいよ12月です。早いですねえ。
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