雑感
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2001年11月18日(日) トルーデ・ブロゾフスキー

トルーデに初めて会ったのは1986年秋、2回目のウィーンを訪ねた
ときだった。

当時、彼が南ドイツからウィーンの大学に入学したとき、頼る相手も
なく、しかたなく訪ねた教会でトルーデと知り合い、泊まる所がない
のだと伝えると気持ちよく部屋を貸してくれたという。貧乏学生だった
ので、毎月の家賃も滞りがちだったが、いやな顔せず待ってくれた。
だみ声で、こわもてだったので、私にはとっつきにくい人だったが、
彼女の心の清らかさは、誰も踏んでいない雪の原っぱのように、
際立っていた。

トルーデは敬虔なクリスチャンで、早くに夫を亡くし子どももなく当時
既に年金生活をしていた。彼女のあっぱれなところは、自分も貧しいのに、
困っている人のために出し惜しみしなかったことである。キリスト
教徒なら宗派に関係なく日曜日ごとに若い伝道者たちを十人くらい自宅に
招いて昼食を提供しつつ、彼らの賛美歌を聴き、聖書を読み、神様の話を
するのが常だった。年金生活で足りない分は清掃のアルバイトをして賄っ
ていた。

ルーマニアのシャウシェスク政権崩壊寸前のとき、飢えた子ども達に
おいしいバナナを渡したいと一人列車でブカレストの町に行ったことも
ある。政権崩壊前に命からがら逃げてきたルーマニアの夫婦を養子縁組
し、彼らにオーストリア国籍を与えた。彼女のアパートには、いつも誰か
かれか東欧やアジアからの難民が居候していた。

トルーデには実の子どもがいなかったが、毎日誰かが彼女のところに
来て、おしゃべりをしたり、何かおいしいものを持ち寄って賑やかだった。
89年頃、心臓発作を起こし、見舞いに行くと、「私が元気で動ける時間
はあと10年くらいだろう。神様がくれた命を大切に生きたい」と言った。

彼女が電話で私たちにお願い事をするときは、きまって難民のためで、
自分のために何かを頼んだことは一度としてなかった。
最初の発作から10年後の1999年2月、致命的な発作がトルーデを
襲った。早くから、死後は献体したいと遺言を残していたので埋葬は
されなかった。

市井の人間としては、天使のようなこころねの持ち主で、彼女の生き方
を真似することはとてもできない。彼女が死んだとき、その後、お別れ
ができなかった。だから、トルーデが逝ったという感覚がなく、彼女の
声や姿は今でもはっきり脳裏に刻まれている。
7、8年前の引っ越し祝いにもらったタオルは、もう何度も洗濯して
ぼろぼろになったが、今では私たちをつなぐ唯一のものなので、ずっと
手元に残そうと思っている。


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