雑感
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2001年11月25日(日) |
トリエステ 歴史に振りまわされた町 |
スロベニア領コパールから車を走らせて、国境の検問を抜けるとすぐ 現在のイタリア領トリエステに入った。
トリエステはイタリア最右端の港町で、遠くから見ると翡翠のような海に 小高い山がせり寄っている。平地がほとんどないので神戸の町をミニチュア したように見える。ベネチアから海岸沿いにトリエステを目指しても、 あるいは、クロアチア、スロベニア領のイストリア半島から来ても、この 港町の雰囲気はリトルウィーンだなと感じる。海岸沿いの建物がウィーンで よく見かけるタイプだから。
トリエステは1797年まで、ベネチア共和国の支配下に置かれていた。 共和国崩壊後、イストリア半島もろとも、オーストリア領になり、海の 玄関口をもたないオーストリアはトリエステを軍港としてどんどん 投資したが、第一次世界大戦後、オーストリア帝国の崩壊とともに、 再びイタリア領に復帰した。それも、つかのまで、第二次世界大戦後、 今度はユーゴスラビアが敗戦国イタリアに侵入し、イストリア半島と トリエステを奪ったが、国連の指導のもと、イストリア半島はユーゴに、 トリエステはイタリアにと事実上の国境が定められた。 その後1990年のユーゴ分裂で、イストリア半島の90%はクロアチ ア領、10%はスロベニア領と分割された。
クロアチア領からスロベニア領へ、そしてイタリア領と陸続き の国境を越えるたび、道路表示がそれぞれの国のことばで書かれている。 このあたりの土地でクロアチア語もスロベニア語もイタリア語も話せる 人が多い。ドイツに出稼ぎに出ている人も多く、ドイツ語圏からの観光客 もひっきりなしに訪れるので、4カ国語話せる人はざらにいる。
複数の外国語をあやつれる人を羨ましいと思ったことがあったが、こう やって土地の歴史を知るうちに、この人達は必ずしも幸せではないことに 気がついた。 欧州の歴史はぼんやりした国境線を明確にするための分捕り合戦の歴史 でもあった。 生き抜くために母国語以外のことばを習得しなければならない土地が 存在する。 英語やドイツ語、日本語のように母国語だけで日常生活がこと足れると いうのは実際にはとてもありがたいことだろうと思う。 私とて例外ではないなと思いつつ、傘の内から少し切り取られた トリエステの碧の海をいつまでも眺めていた。1993年8月。
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