雑感
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物事を始めるきっかけというのは偶然なのか必然なのだろうか。
ドイツ語を始めたのは、テレビのNHKドイツ語講座で小塩節先生のバス バリトンのような声にひきつけられて、デア、デス、デム、デンを 復唱した高校生のときだった。英語というものに嫌気がさしていたのも 一因か。挫折しそうで、すんでのところで踏ん張り大学はドイツ語のある ところを選んだ。小塩先生には一昨年、ウィーンで講演会があったときに 聞きにいった。先生の顔を見たとたん、なつかしくてにっこりしたら、 会ったことは一度もないのに、満面の笑みを返してくださった。
学生時代に、タロット占いで運勢を見てもらって、将来のパートナーは ドイツ語と関係のある人になるだろうと言われたが、これはほぼ的中した。 だって、ドイツに留学したら、どうしても出会いはドイツ語を仲介せざる を得ないのだから。
ウィーンに来たのは、たぶん偶然だろう。1986年に旅行で訪れたとき この街の東欧っぽい匂いに圧倒され、二度と来たいとは思わなかった。 その後知り合ったパートナーが受かった大学が唯一ウィーン経済大学だっ たのでまたウィーンと縁ができてしまった。 二度目にウィーンに来たのは、偶然ではないけれど、理想的な職場で欠員 を補充していたのには運命的なものを感じる。まともな働き先がなければ 今日まで長居することもなかったと思う。
きっかけというものは、自分の机の上や、テレビ、道端にごろごろと 落ちているものなのだろう。それを拾うかどうかは偶然という運命的な ものが混ざっているのかもしれない。もし、高校生のときにイタリア講座 を見て、おもしろいイタリア人の兄ちゃんのボンジョルノ!なんて 聞いていたら、今ごろはイタリアに住んでオペラ三昧の生活をしていた かもしれない。 でも物事は偶然だけが、作用しているわけではないだろう。 きっかけが醸成して何かに成って必然と感じられるためには、人間の心の 深いところで、方向性を示したものがあるのだろと思う昨今である。
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