雑感
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2002年05月21日(火) 捨てられない

荷造りをしている手をふと休めて窓から外を見た。
いつもながらの並木と車の間に大きな粗大ごみを集める
コンテナーが場所を大きくふさいでいる。

コンテナの中身を見ると洗面台や家具、衣類、ダンボールの
が小山のように重なっていた。
「ねえ、あれ見て!すごいごみの量だよ。」
「へえ、すごい!強制的に室内にあるものを撤去したって
 感じだね。」
「身寄りのない老人が死んだか家族が蒸発したみたいね。」
ちぎれてぼろぼろになった赤やピンク、もとは真っ白だった
シーツなどが垣間見える。

引っ越し作業をしている身にとっては、詰め忘れたモノがいったい
粗大ごみなのか、まだ使うつもりでいるものなのか、見分けが
つきにくい。
書物や音楽CDは、再読、再び聴くというリターン率が高いもの
が多いけれど、自分の好みに合わないものは二度と手にとること
もない。とすると、外観がきれいであっても、持ち主にとっては
既にごみなのではないかしら。

例えば、持ち主がこの世を去れば、残されたモノはお金や貴金属
以外は第三者にとってはごみでしかないと思ってしまう。
いや、残された家族が故人を偲ぶために取っておいてくれると
いう人もいるが、それはごく一部のモノであって、全部ではない。
他者の生活をまるごと引き受ける場所も余裕もないだろう。

持ち主がこの世を去らなくても、生きている間に少しづついろんな
モノが家に侵入してきて、澱のようにたまっていく。場所に余裕が
ある間は侵入物にさして注意を払わないが、引っ越しをするとき
初めて気が付く。何でこんなにたくさんのものを持っているのだ
ろうと。

家人は学生時代に書き溜めた詩や文章、教科書を未だに所有して
いる。この十数年読み返したのを見たことがない。まだ持つ
つもりと尋ねたらもちろんと返事があった。歳取って暇ができたら
読み返すつもりらしい。
自分は、モノをいつまでも保管するタイプではない。自分で決めた
ほとぼりが冷める期間を経たら処分する方だ。
モノでなくても感情などもそういう風に処理していると思う。
だから、感情を想起させるような手紙、日記なども手元に残って
いない。過去の感情を思い出しても現在ではどうしようも
ないことを感覚的に知っているからだろう。

ひとしきり無駄話をしたあと、再びモノを詰め始めた。いつか必ず
捨てる運命にあるモノだけど、ひょっとしたら必要とするかもという
かすかな希望的観測を抱きながら・・


Aqu |MAIL

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