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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年11月05日(月)
滋賀県高校野球物語第3章


 昨日は生憎の雨。待ちに待った練習試合も雨天中止だった。自分勝手な私は、「週末に雨降んなよ〜」とごねていた。特に昨日の練習試合の対戦相手・八幡商業高校は是非見ておきたいチームだった。

 八幡商業は、長らく同校を指導されていた林監督が勇退され、今秋から池田新監督が采配を振るっている。年齢は30歳前後。
 高校球児との年齢差がどんどん離れていく私にとっては、目下このあたりの年齢の監督には非常に興味がそそされる(変な意味じゃなくて!)。自分より年上ながら、指導者としては若い。このアンバランスがたまらないのだ。
 今回も、ひいきチームの試合と同時に、新生・八幡商業と池田監督ウォッチングが出来ると前々から楽しみにしていた。

 林監督は、赴任した高校を全て甲子園出場に導いている、いわば「湖国の甲子園請負人」だ。長らく滋賀の高校野球に貢献した功労者の一人。
 「滋賀県の高校では近江が好き」という私だから、特別なことは話せない。でもたった一つ、林監督の人柄を伺えた印象的な言葉があるので紹介したい。

 93年春、京都からは東山と北嵯峨、滋賀からは八幡商業と、京滋勢としては類希にみる3校出場の快挙を果たした。
 地元新聞は、様々な特集を組んだ。当時は、「脱丸坊主」が叫ばれ始めたころで、そのことについて指導者がどう考えているのか、代表して、センバツに出場する3校の監督にインタビューするという企画があった。
 他の2校の監督は、「脱丸坊主」に関してかなり柔和なコメントをしていた。実際、東山高校は長髪に近い髪型で練習している選手もいた。
 しかし、林監督はこう答えた。
「確かに、今どき坊主頭は時代遅れです。ですが、私は、野球のために頭を剃る、そんな選手たちと野球がしたいです」
 黙ってても選手が集まる名門校故のコメントかもしれない。それでも、私はこの監督の下で野球が出来る選手は幸せ者だなあと思った。「教える」とか「育てる」という言葉ではなく、「一緒に野球がしたい」という表現方法。私は深い感銘を覚えた。

 指導者として大半の時間を費やした八幡商業時代を含め、甲子園であげた最高の成績はベスト8だったと記憶している。甲西のベスト4や近江の準優勝には及ばない。しかも、しばしば、無敵の優勝候補と呼ばれながら、もろくも初戦敗退してしまう危うさを兼ね備えるチームカラー。だからこそ、「甲子園で好成績が上げられない」、「プロ野球選手を輩出出来ない」という捕らえ方もあるだろう。でも、間違いなく、林監督は滋賀県高校野球をひっぱってきた素晴らしい指導者の一人だ。

 滋賀県高校野球を物語でたとえたら、今、第三章を始まったんだと思う。
 第1章は、京滋1代表校時代。何度となく京都代表の前に涙を飲み、甲子園が今以上に遠かった不遇の時代。
 第2章は、49代表校制になってから奮闘ぶり。屈辱の完全試合に、2度のベスト4。林監督が赴任先をすべて甲子園に導いたのもこの辺りでの話だ。
 そして、第2章は今夏近江高校が県勢初の決勝進出を決めて、幕が閉じた。
 今、新たな1ページが開かれる第3章は、近江高校の活躍に、「俺たちもやれる!」と、滋賀52校が本気で「全国制覇」を視界に入れ、がむしゃらになるところから始まる。
 
 滋賀県の高校野球の歴史を振り返ると、華々しい場面にも、苦しく辛い場面にも、林監督が導いたチームはほとんど登場しない。
 それでも、間違いなく、第二章は林監督と共にあったのではないかと私は思う。

 林監督が、今後高校野球と関わっていかれるのかどうかは分かりかねないのだが、どういう形であれ、第3章の行く末を温かく見守っていただければと思う。