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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年12月21日(金)
感動制限解禁。

 
 思い立ったが吉日とはよく言ったもので、今日は寒い中、重い腰を上げて、映画を見に行った。あまのじゃくな私らしくもない興行収益記録更新ばく進中の「千と千尋の神隠し」。

 元々、宮崎アニメの織りなす世界は好きで、テレビのロードショーに登場したときは、欠かさずチェックをしている。あの色使いといい、光景といい、ありそうでない世界は、私たちの想像力をかき立ててくれるし、また非日常の世界に足を踏み入れることができる。

 今日、この映画を見て思ったことは、「たとえ、その出来事が夢や虚構であっても、そこで受けた感動やわき起こった勇気や強さは、本物なんだ」ということだ。

 ここ数年、私は自分の感情に素直になれないでいた。

 たとえ、自分が「これはいい!」と思うことでも、後で周りが否定的な意見を言ったり、反応がイマイチだったりすると、気持ちが冷めた。…というか、感動することを自分で抑制していた。私はバリバリの没個性教育世代の学生なので、みんなと同じでなければいけないと漠然と思っていたからだ。

 私はどちらかと言えば、感動屋で、ささやかなことでも「うわ、すごいなあ」と思えるおめでたい人間だ。(しかし、逆に感動の押し売りをされると、どんな素晴らしいことでも冷めてしまうのだが)

 だから、これまで、何度となく、感動することに遠慮してきた。ひょっとしたら、野球でもそうだったのかもしれない。

 いいなと思う選手がいても、全体的に人気がなかったら、好きでいることに不安がつきまとったし、裏話や心ない批判の記事を見たりすると、ファンをやめなきゃいけないのかなあとも考えた。

 段々感動することに鈍感になっていく自分がいた。
 何かに感動しようとする自分を、別の自分が攻撃した。周りで見聞きした、批判・中傷や冷めた視線を刀にして、何度もその部分を突き刺した。

 幸い、今は元の感動屋に戻っている。
 100人中100人が、「あの試合はつまらない」「あのチームは弱い」「あの選手に魅力はない」と言っても、私にとって「おもしろい」「すばらしい」「魅力がある」と思えば、それが全てだ。第一、面白いか否かは本人の価値観だし、弱い強いは感動するにおいて関係はない。


 私の思いこみかもしれないんだけど、どうも最近はいろんなことろで、感動の押し売り、批判・中傷の押し売りが押し進められているように思う。

 私の知人に新聞やネットで知った情報をさぞ自分の考えのように発言する人がいる。先に辞任した野村監督にたいしてもそうだった。就任当初に「野村来たから、イケルやろ」とか言っておきながら、いざ辞任したら「最初から無理やと思ってたんや」ときた。皮肉をこめて、「自分、3年前なんて言ってたか覚えてる?」と訊いてやった。すると、「誰も優勝するとは言ってへんかった」という屁理屈が返ってきた。腹が立つというか、呆れた。

 この人には、金輪際、私の好きなこと、感動したこと、面白いなあと思ったことなんかを絶対に口にしまいと思った。悪い人ではないで、悲しいけれど、そんな私の思いにコンクリートを流し込んで、海の底に沈めそうだから。
 そして、どう間違っても、この人のような生き方はしたくない心底思う。


 これから、色々なことがあるかもしれないけれど、自分に正直に感動できる人間でありたいと思う。人にいい意味で影響を受けることは大歓迎だけど、操られるなんてごめんだ。感動するものは多ければ、多いほど豊かに生きられる。そんな気がする。

 でも、ただ感動するだけではない。各々の短所や他の考え方もしっかり受け止めた上で、感動できる自分でありたいと思う。