みのるの「野球日記」
==すいません、ちょっと宣伝です==

●『中学の部活から学ぶ わが子をグングン伸ばす方法』(大空ポケット新書)

新刊が発売になりました。
しらかし台中(宮城)の猿橋善宏先生の
指導法などが掲載されています。
詳しくは、大空出版HPをご覧ください。
http://www.ozorabunko.jp/book/gungun/

●『グラブノート』(日刊スポーツ出版社)
BBA梅原伸宏さんのグラブ本。構成を担当しました。
親指かけ・小指かけの結び方、グリスの入れ方など、
グラブをよりよくするための方法が書かれています。

*ツイッター始めました
@mino8989 です。

2001年10月21日(日) 筑川、延長17回熱投報われず

10月21日、神奈川・相模原球場で首都大学野球の優勝を決める大一番が行なわれた。ともに勝ち点4で並ぶ東海大学対城西大学の2回戦。この試合で勝ち点を挙げたチームが首都大学の覇者となる。前日にエース久保(3年・沖学園)の好投で延長10回の末、1−0で勝利を収めた東海大は、この試合に勝てば春秋連覇。一方の城西大は何としても勝ち、明日の3回戦に持ち込みたい。試合は、いつ終わるとも知れない熱戦となった。

 東海大の先発は、東海大相模時代にセンバツ優勝投手に輝いた筑川利希也(1年)。春は登板機会に恵まれなかったが、この秋のリーグ戦では大活躍。1回戦は久保、2回戦は筑川というローテーションが出来ていた。
 筑川はここまで4勝0敗。秋・初登板となった第1週の東京経済大戦の2回に1点を失ってから、今日を迎えるまで28イニング連続無失点。第2週の日体大戦では被安打2、12奪三振、無四球の完封勝利。第3週の帝京大に対しても、被安打2で完封勝ちを収めていた。そして、今日の最終週。「勝てば優勝」という大一番に筑川は当然のようにマウンドを任された。

 試合は東海大が3回裏に、3番平間(4年・沖学園)のタイムリーツーベースで1点を先制。しかし、その直後に筑川にピンチが訪れた。4回表、1番小野寺(4年・相洋)の打球はセカンド、センター、ライトのちょうど中間点に飛ぶ、守る側にとっては難しい当たり。これが三者の間にポトリと落ち、ラッキーな二塁打となった。声をしっかりと掛け合えば捕球できたと思える、筑川にとっては不運な当たりだった。
 ノーアウト2塁のピンチ。次打者渡辺(3年・牛久)がしっかりと送り、ワンアウト3塁。迎えるは3番竹原(3年・関西)。東海大内野陣は前進守備を敷く。筑川が投じた2球目を思いっきり引っ張った竹原の打球は、ファースト平間を襲った。平間は痛烈な打球をファンブルしてしまい、その間に3塁ランナー小野寺が生還。城西大が1−1の同点に追いつくとともに、筑川の無失点記録も31イニングでストップした。すっきりとしない点の取られ方に、マウンド上の筑川は帽子を目深に被り、納得できない素振りを見せていた。

 中盤に入ると投手戦が続いた。筑川に勝るとも劣らぬピッチングを見せたのは、城西大の比嘉(3年・読谷)。右腕から140キロ台の直球と変化球を投げ込み、春の全日本大学選手権を制した東海大打線を抑え込んだ。比嘉は7回まで投げ、被安打6、失点1でマウンドを降りた。8回から登板したのは、2年後のドラフト候補と目されている小沢(2年・花咲徳栄)。右横手からキレの良い直球を繰り出す。投球フォームは、先日引退した巨人・斎藤雅樹にそっくりである。東海大打線は、城西大が継ぎ込んだ2投手の前に、得点機は作るものの、得点を挙げられず、イニングだけが進んで行った。
 投手交代をした城西大に対し、東海大のマウンドには依然、筑川が上っていた。試合が進みにつれ、投球のキレが増し、ピンチすら作らせない内容だった。試合は、両投手の投げ合いで前日に続く延長戦に突入した。
 
 延長に入ると、ベンチ前で次の投球に備え肩ならしをする筑川に変化が見られ始めた。序盤は軽いキャッチボールで終わらせていたのだが、延長ではビュンビュンと速い球を投げ、自らを鼓舞しているように見えた。完全に投手戦の展開を見せ、「1点取られたら負け」というムードがグラウンドにも観客にも漂っていた。
 
 いつしか、私のつけていたスコアブックがいっぱいになってしまった。用意されていた枠は延長13回まで。やむなく、次のページに書かなければならないほど、イニングは進んだ。「延長戦は何回までやるの?」観客からチラホラとこんな声があがってきた。それほど、両チームの投手が良く、点が入る予感すらしなかった。優勝を懸けた大一番は、息詰まる熱戦となった。
 
 筑川は一人で黙々と投げつづけた。ベンチに戻ってくるときも、肩ならしをするときも、笑顔すら見せず、打線の援護を待った。「利希也、我慢だぞ我慢!」スタンドに陣取った控え部員から、何度となく応援の言葉が飛んだ。まさしく、その通り。我慢のピッチングを続けていれば、次の回こそは・・・。
 延長16回裏、東海大はツーアウト1.3塁のサヨナラのチャンスを迎えた。打席に入るのは5番鞘師(3年・報徳学園)。鞘師は小沢が投じた4球目をうまくライト方向へ追っ付け、ライトライン際へ。悲鳴とも歓声ともつかない声がスタンドから上がった。しかし、無情にも打球はラインのわずか10センチほど右へ落ちた。打球を見届け終わった筑川は、延長戦に入ってから初めてと言ってよいほど、表情を崩した。苦笑いをし、うらめしそうに打球の落ちた方向を見つめていた。

 延長戦はついに17回に突入。筑川は一人で投げつづけ、球数は180球を越えていた。だが、投球内容に衰えは全く見られず。数字がそれを示していた。9回まで8奪三振、10回から16回までも8三振を奪っていた。
 私の隣には筑川の身体を中学から見続けいてる整体師がいた。「利希也は絶対にバテない。そういうトレーニングをしてきた」と自信を持って話していた。2人は中学時代から身体作りに励み、試合の終盤でも力の落ちない持久力を身に付けてきた。そのトレーニングは、ノンウェイトで行なわれている。整体師の言葉を借りれば、「利希也が生まれつき持つ柔らかい筋肉を維持するため。多くの球数を投げても疲労しない身体を作るため」に、独自のトレーニング方法を考え、それを筑川が黙々と実戦してきた。中学2年から作り上げてきた身体は、延長戦に入ってもへばることはなかった。

 だが、延長17回表。クライマックスは突然やってきた。2アウト1塁(エラーで残ったランナー)。迎えるは3番竹原。初球投じたストレートは右中間へ快音を残し、飛んでいった。湧きに湧く城西大ベンチ。狂ったように騒ぐ応援スタンド。打球は右中間フェンスまで達し、1塁ランナーが長駆ホームイン。ついに、勝ち越し点が生まれた。
 本塁のベースカバーに回った筑川は、両膝に手をつけ、うつむいたまましばらく動くことはなかった。ここまで投げてきたものが全て消えてしまう「痛恨の1点」だった。
 マウンドに戻ろうとした筑川だが、途中で歩を進めるのを止めた。自軍ベンチから伊藤監督が投手交代を告げるため出てきたからだ。筑川はマウンドに戻る途中で、怒りをあらわにした。帽子とグローブをグラウンドに投げつけ、最後の最後で打たれた悔しさをぶつけた。一緒に観戦してい筑川の東海大相模時代のチームメイトが「あんなに悔しさを表した利希也は初めて見た。打たれた自分に、めちゃくちゃ腹が立っていると思う」と話していた。ベンチに帰る寸前にも、グローブを思いっきりベンチに叩きつけ、悔しさを爆発させた。

 17回裏、東海大の攻撃が0点で終わると、城西大ベンチは優勝したかのような喜びに包まれていた。負けた東海大は、試合終了後ベンチ前で短いミーティングを行っていた。筑川は円陣の後方で、うつむいたままだった。
 
 試合終了から数分後。東海大の選手が、選手控え室からバスに乗り込むため続々と出てきた。もちろん筑川もその中に。帽子を可能な限り深く被り、表情を悟られたくないようだった。相模時代のチームメイトも筑川に声を掛けようと出待ちをしていたが、筑川が発する「悔しさ」の前に何も言うことは出来なかった。「利希也、良く投げたよ。お疲れ」と筑川が誰よりも信頼を寄せる整体師が肩を叩くと、一瞬顔を上げ、軽く頷いた。
 
 筑川は、16回3分の2を投げ、被安打8、17奪三振、自責1という見事な投球内容だった。通算成績は、4勝1敗、46回3分の2を投げ、自責わずかに2、防御率0.39という見事なピッチングで終わった。
 けれども、大きな大きな1敗が最終週で記録された。チームメイトの誰もが、「今まで見たことがない」というほどの悔しさを見せ、グラウンドでそれを爆発させた。以前、筑川はこんなことを言っていたことがある。「ぼくよりスピードの速い投手はたくさんいる。でも、ぼくが他の人に絶対に負けないことは勝つこと。勝つことへのこだわりなら負けないです」
 
 どんなに良いピッチングを見せたにしろ、不運な形での失点だったにせよ、勝負には勝てなかった。そえゆえにグラウンドで爆発させた悔しさと、打たれたことに対する自分への怒りを、新たな成長への糧とし、更なる飛躍を遂げて欲しい。
 


 < 過去  INDEX  未来 >


みのる [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加