2003年07月10日(木) |
サッカーの普遍性 と 健全な資本主義・・ |
日本において スポーツの雄といえば 野球 ですが、
野球 がメジャーなスポーツとして認識される国は わずか十カ国程度しかありません。
日本、アメリカ、カナダ、メキシコ、キューバ、 ドミニカ、プエルトリコ、ベネズエラ、韓国、台湾、 オーストラリア? ぐらいではないでしょうか。
(それにしても 阪神ファンにとっては久々の 春 ですね・・笑)
(意外に思われるかも知れませんが) アメリカにおいては 野球 よりも、バスケットボール、 アメリカンフットボール の人気の方が高いのです。
では、世界の大部分の地域、 ヨーロッパ、南米のほとんどの国々、アフリカ、 西アジア、中央アジアの国々などで、
メジャーなスポーツとして 君臨しているのはどんなスポーツでしょうか?
そうです。「サッカー」ですね。
ボール1個と、幾ばくかの空間 があれば すぐに始めることができるスポーツ・・。
サッカーはまた、 『なかなか点が入らない』スポーツとしても有名です。 (3点も入れば、大量得点!) それはなぜかというと オフサイド というルールが存在するからです。
このオフサイドというルール が、 安易に得点が入ることを抑制しているのですね。 (サッカーをサッカーたらしめている・・)
サッカー好きな人は、 (なかなか入らない)点 が入った瞬間の “高揚感”がたまらない、と言います。
(昔の ハレの日 みたいなものですね・・)
例えば、名もない農民だったわたしの祖先の 「生活」を垣間見てみますと・・、
毎日毎日 田んぼ に出て、 朝から晩まで仕事をすることが 彼/彼女らの「人生」でした。
お酒を飲んだり、羽目を外したりできるのは、 年に数回の「ハレの日」のみだったと思います。
サッカー というスポーツは、 シュートが入る という“到達点”を 意識的に引き伸ばしているのではないでしょうか?
(その点)昔の「時間リズム」を 忠実に継承しているのです。
例えば、つい50年前までの『人生ステージ』って どんなものだったかというと・・、
生まれる → 働く → 結婚する → 働く → 子どもをもうける → 働く → 子どもが独立する →(自分は)亡くなる・・。
(ある意味)シンプルで、劇的な要素(到達点)が 少ない「人生」だったのですね。
当然、経済のしくみ、そして、その動き (時間リズム)も緩やかであったはずです。
つい50年前までは、「消費の機会」は それほど多くはなかったですし、 その 選択肢 も限られていたのです。
そう、わたしは サッカー というスポーツに (ある種の懐かしさを含む)
古典的 資本主義 を垣間見るのです。
翻って、アメリカにおいてなぜ、 バスケットボール があれほどの人気を 博しているのでしょうか?
バスケットボール は “点が入ることの連続”です。
(もちろん、オフサイドのルール もありません。 逆に、オフサイドすることがバスケットの醍醐味なのです 笑)
得点も 89 対 105 とか・・。
シュートを入れる、得点が入るという “高揚感”を何度も何度も求めます。
そんな【現代的 資本主義】が、 バスケットボール の中に象徴されていると わたしは思います。
消費 でいえば、常に「なにかが欲しい」、 そして「手に入れた!」という 気持ちの連続 とでもいいましょうか・・。
そこでは、緩やかな時間リズム 、 限られた到達点 というものは 自覚しにくくなります。
短い 時間リズム への偏重、 そしてそれを繰り返すことへの執着が、 バスケットボール には感じられるのです。
そして、アメリカにおいて バスケット が人気を博しているのは、
アメリカ が 現代的な 資本主義 の 『先頭』を走っているからなのです。
わたしがひそかに恐れていること・・。
それは、サッカーにおける オフサイドルール の変更・・。
「もっと 攻撃型の、 点 が入りやすいスポーツにしようよ!」 というパラダイムへの変換です。
あるいは、日本において バスケットボール の人気が高まること。
◆ スポーツへの嗜好は、 その時代の 人間の本性 を表すのですね・・。
変わらないことへの 価値観 も 大切にしたいものです(笑)
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