| 2004年05月10日(月) |
【桃源郷フンサ目指しカラコルムハイウエイを走る・・パキスタン�А� |
フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。
パルティット城からフンサの町を望む
この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。
フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。
フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。
フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。
つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まりインド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである
翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河 とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。
さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモ レーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。
帰りにグルミット村で一般家庭 を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。
たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で祖父母、親子兄弟孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母姪という関係にある女性達だろうと思われる。
フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。
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