前潟都窪の日記

2004年06月09日(水) 【やはりどことなく懐かしい国・・韓国� �

▼韓国の旅 釜山、慶州、ソウル   
                2000年8月25日〜8月28日

 釜山の金海空港で乗った出迎えのバスは釜山港へ向けて出発し、間もなく洛東江を渡った。この河は1950年に勃発した朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がソウルを落とした勢いで釜山へ迫り、韓国軍最後の防衛線となったところだなと往時の悲惨な戦禍のことを想像しながら渡った。ガイドの金嬢も朝鮮戦争の被害のことを折りに触れて説明していたが、表面見る限りもう戦争の痕跡は認められないし、山手に立ち並ぶ近代的な高層住宅群を見るとこの国が発展している様子が即物的に理解できるような気がする。

釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口四百万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。

 海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。

慶州は紀元前57年から935年まで新羅王朝の都としておよそ一千年の間栄えてきた町である。慶尚道の人口は308万人でありその中約一割の29万人がこの穏やかな地方都市に住んでいる。黒灰色の瓦で葺かれた反りのある入母屋作りの民家は門壁に囲われて実り豊かな農村地帯の裕福な農家の雰囲気を留めているし、王侯の丸い墳墓を初めとする史跡が沢山残っている風光明媚な町である。この地を訪れる観光客は外国人、現地人共に多いが外人観光客の中では圧倒的に日本人が多くその九割に及ぶという。

 四囲を見回すとなるほどそれぞれにカメラをぶら下げた老若男女の日本人観光客ばかりである。観光客誘致のための美化運動も積極的に進められているようで、自動車道路に沿って街路樹が沢山植えられており、とりわけ見渡す限りの桜並木は素晴らしい。花の咲く頃再訪してみたいという思いに駆られる。折から国花の木槿の花がそちこちに咲いていたが、これまた可憐な風情があり一際旅情をそそる。このあたりの風景には日本では既に失われてしまった農村の原風景が残っているようで懐かしい。この地域から古代日本へ渡来した帰化人の血が我々の先祖を通じて流れているからなのだろうか。やはり何処となく懐かしい国である。

翌朝、標高750mの吐含山山腹にある石窟庵へ向かった。生憎また雨が降っていた。石窟庵は751年に新羅35代の景徳王時代の宰相・金大城が両親のために創建した釈迦如来像を安置するための石窟である。安置されている釈迦如来像は花崗岩を丸彫りした高さ三.二六mの石像で、仏教美術上の最高傑作といわれている。しかも一年を通じて元旦にだけ如来像の顔に石窟内を通り抜けた太陽光があたるように設計されているうえ、仏像の設置位置は円形窟の中心点よりやや後方にずらされていて正面から対峙する参詣者に荘厳さを際立たせる工夫がなされていて、
当時の技術水準の高さが窺われる。仏像を取り囲む四方の石壁には十一面観音、金剛力士、四天王等のレリーフがあり釈迦如来の光背も遠近感を考慮して彫られている。如来像は全体が石窟で覆われていて石窟の上には土が盛られていて草むしており外見では小高い山のようになっている。また吐含山は湿気の多い岩山で地表や岩間を流れる水量が多く、流れる水に耐えて保存されてきたことでも特異な存在の石窟、石像であるという折からガラス張りの石窟の中では僧侶が読経しており、その後方左手には熱心な女性の信徒が細長い座布団を敷いて五体投地の拝礼を繰り返していた。世界遺産に登録されている。



次に仏国寺へ赴いた。仏国寺も吐含山にある寺院で、韓国屈指の名刹として
知られている。528年新羅の法興王が夫人の法流尼のために創建した。「華厳教」に説かれる仏国土をこの世で代表する寺と考えられ、真興王、景徳王の時代に堂舎が整備された。のち、1592年豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、兵火にあい堂塔の多くを消失したが、李王朝によって修補、再建が重ねられた。現存する石造物は756年、木造建築物は1659年に構築されたもので、伽藍は大雄殿を中心とする東区、為祝殿を中心におく西区からなり、これに配された多宝塔、釈迦塔、橋、廊や仏像等東洋美術上の逸品が多い。特に柴霞門、安養門にはそれぞれアーチ型の二つの石橋が架けられており、均整のとれた姿や石造技術の優秀さには見る者をして感嘆せしむるものがある。またそこかしこに見られる石組みにも見るべきものが多い。更に極楽殿の阿弥陀仏、毘盧殿の毘盧舍那仏の美しさには見とれて忘我の境を彷徨いそうである。



古墳公園は七基の巨大な新羅王陵を中心に23基の古墳群を整備した公園であるが、奈良の若草山に似た墳墓に生えている草はよく手入れされており幾つも並んだ古墳群の単純な形は外見上とても美しい。墳墓の内部を公開しているのは天馬塚であるが、この塚からは盗掘にあっていない12000点余の副葬品が発掘され、博物館に展示されている。



天馬塚内部には木枠で囲われた埋葬箇所が展示されているが、説明によれば入り口も出口もない閉ざされた木箱の中に王の柩と共に多数の家来が生き埋めされて殉死したという。木箱の上には石塊が積み重ねられるのだから、木箱の中に生きたまま閉じ込められ次第に空気がなくなってきて断末魔の呻きをあげながら殉死していった人々の魂がいまでも彷徨っているような気がして身の毛がよだつ思いであった。


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