| 2004年06月10日(木) |
【やはりなんとなく懐かしい国・・韓国�◆� |
翌朝ソウルに向かうべく慶州駅へ向かった。急行列車セマウル号は外観が薄汚れていて清掃を殆どしていないのではないかと思われる程のひどさであったが、列車内の客室は広軌のせいかゆったりしていて清掃もきちんとなされていた。4時間半程の旅程は田園風景を眺めやったり、持ち込んだ碁盤で同行者と囲碁を打ったり、配給された弁当をたべたりして退屈することはなかった。
ソウルでは開園を待って昌徳宮の観光をした。ここには専任の日本語ガイドが配置されていて、日本人観光客を纏めて説明する都合上、入園時間が指定されているのである。開園と同時に夥しい数の日本人観光客がどっとガイド嬢を取り囲む。その数ざっと四〜五百人であろうか。ガイド嬢はハンドマイクを片手に堪能な日本語で説明してくれるが、なんとなく発音が不自然である。
昌徳宮は1405年に李朝三代王太宗のとき、正宮である景福宮の離宮とし て造営された宮殿である。1412年に正門である敦化門が建てられ、宮殿としての面目を整えてきた。1459年世祖が規模を拡大し15万坪にまでなった。1592年の豊臣秀吉の侵攻によって宮殿の大部分が消失した。その後、宜祖が再建を始め1610年光海君の時完成した。その後数回の火災があったが、1917年の火災で大造殿のほか内殿が消失したので、当時の朝鮮総督府が景福宮の交泰殿と康寧殿を解体移設して建てたのが現在の大造殿と熙政堂である。
昌徳宮は光海君以降13代にわたり約270年間政務が執られた宮殿で、正 宮の景福宮よりも長い期間、王の御座所であった。現在の面積は135、212坪、宮殿の建物が、13棟、後庭に28棟の楼閣が残っている。秘苑の名でよく知られている後苑は、自然との調和美を生かした韓国伝統の造景の特徴がよく保存されている代表的な宮殿の庭園である。この昌徳宮は1997年ユネスコの世界遺産として登録された。 構内の仁政殿は韓国の国宝に指定されており、敦化門、宣政殿、熙政堂、大造殿と何れも宝物に指定されている。なかでも、王と王妃の寝殿であり、且つ王とその家族が生活した中宮でもあった大造殿は棟瓦を置いていない建築様式が珍しい。韓国では棟瓦のことを竜棟と呼び国王は竜に喩えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦は省かれたのである。
昌徳宮の中にある楽善斉は1847年に後宮として建てられたものであるが西側から楽善斉、錫福軒、寿康斉が配置され、正面に回廊が渡され一郭をなしており、総称して楽善斉と呼ばれている。この建物は両班の建物を模して質素を旨として建てられたと言われており、廻りの景色とよく調和して素朴でこじんまりとした趣を感じさせる。なお日本皇族の梨本宮家から降嫁した李方子女史が1989年まで生活したところでもある。
秘苑は1405年昌徳宮が創建された当時造営されたところで、豊臣秀吉の侵攻の際、大半の庭亭が消失した。今残っている楼亭は仁祖以後歴代の王によって改修増築されたものである。ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮亭と演慶堂を中心とする空間、そして半島池と玉流川の流域からなっている。この秘苑は韓国の伝統的な造園で地形に合わせて楼閣を建てたり、花と木を植えたり、また池を掘ったりして、その美しい調和の美をかもし出している。庭木も鬱蒼として古木が多く中には樹齢六百年と言われる巨木もあった。栗鼠などの小動物も生息しており、その可愛らしい姿が観光客の感嘆の声を誘っていた。
昌徳宮を後にして国立中央博物館へ赴いた。博物館は正宮であった景福宮の構内の一郭にある。往時通りすがりにあった元の朝鮮総督府の建物は解体されて跡形もなくなっており、跡地には勤政殿を再建中の工事現場があった。殿舎は大体出来上がっており、テントの中では最後の仕上げ工事が行われているようであった。その光景を複雑な思いで眺めやった。
翻って日韓関係の不幸な歴史を顧みると日本政府は1910年に韓国を併合し、この地に朝鮮総督府の建物を建設し軍主導の植民地支配の武断政治を行ったのである。韓国の人々にしてみれば、崇敬する王宮の構内中枢位置に異民族による支配機構の建物を建てられたわけだからその屈辱感と敗北感には我々の量り知れないものがあったことであろうと粛然とした気持ちになった。
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