| 2004年06月11日(金) |
【赤い夕日に照らされて列車で満州平野を縦断・・旧満州� � |
▼中国の旅1 大連、旅順、ハルピン、長春、瀋陽 2001年5月31日〜6月11日
大連空港への着地は18時40分(現地時間)であった。時差1時間だから実飛行時間は2時間半程である。機上から一見しても大連空港の近くには瀟洒な建物が立ち並び美しい町だとの予兆がある。街中へ入るとなるほど北方明珠ともいわれるだけあって大連は美しい都市である。坂が多いので自転車が少ない町でもある。街路樹はポプラとプラタナスが多く、マロニエの木にアカシアもある。街路灯がすずらんの花型に作られていたのも珍しかったし、建物の隈取りの真っ赤な照明が印象的であった。また信号が非常に少なく電線が空中を走っていないことも小さな驚きである。それだけでも美しい町作りが出来ている。
ホテルを出てバスで旅順に向かった。道すがら観察した大連市中は予想していた以上に大きな町であり、かつ綺麗な建物が並んでいるうえ新しくクレーンも立ち並んでいて発展している町だとの印象が強い。市内人口は890万人だといい,郊外人口が270万人だから1160万人の大都会である。
日本の統治は1905年〜1945年でその前はロシアの南下政策の影響もあってロシアの影響を強く受けている。現在の発展状況は開放政策以後のことで、ここ4〜5年の間に発展し大きくなったという。
日露戦争の激戦地東鶏冠山と203高地を見学した。 旅順要塞の攻撃では第三軍の司令官乃木希典が二人の息子を失い、多くの兵を消耗(六万人)しながら3回にわたる総攻撃でも奪取できず、司令官が児玉源太郎に替わり東京湾観音崎砲台に取り付けられていた臼砲を急遽運びこむことによって砲撃を加え、やっとの思いで奪取した203高地は当時ロシアから運んだと言われるセメントで固めた頑丈なトーチカが作られていてその残骸がまだ残っていた。日本軍が破壊して突破口を開いたとされる爆破の後も残っていて今は観光の名所になっている。爆破の時コンドラチェフというロシアの有能な司令官が爆死したと言われる場所も残っていた。周囲には樹木や草が生い茂り、静かなところでトーチカの残骸がなければなんの変哲もない場所である。
 急峻な坂を籠にゆられて行く観光客を横目で見送りながら、ようやくの思いで登りつめた地点には砲弾型の慰霊碑が建っており、遙か下方に旅順港が見下ろせる。この地へ臼砲を運び込み旅順港を砲撃したのである。旅順港は軍港なのでまだ外国人には開放されていないので山の上から遙か下方に眺めるしかない。
大連から旅順に赴く通りの海岸には昆布の養殖が行われていて取り入れの舟が沢山浮いていた。大連市の特産物であるという。
再び大連市内へ戻り、中山広場沿いに建っている旧横浜正金銀行、大和ホテル等を見学した。中山広場に集まる群衆の数の夥しさにも一驚であった。 夜は夜行寝台車でハルピンに向かった。
朝七時過ぎにハルピン駅に到着して駅近くのホテルまで朝食を摂りに赴いたが雑踏で身動きも容易に出来かねる賑わいである。大都会の駅頭ではいつも見かける光景である。山間部から出てきた人が相当いる筈である。何しろ12億9千万人の人口を抱える中国である。その一割に相当する人間が盲流と称する移動労働者である。所謂出稼ぎ労働者なのである。
ハルピンとは満州語で網を干しているところという意味なのだという。松 花江で満州族が漁をしていたのがハルピンの起源である。松花江を渡った地にある太陽島公園で新潟庭園を見た。ハルピン市と新潟市は姉妹都市なのである。
朝鮮族ガイド金竜珠さんの話によれば、青森県や新潟県から一週間の予定でやってきた花嫁募集ツァーの案内をしたこともあるという。日本の農村の後継者不足、嫁不足はそこまで深刻であるのかという驚きとともに日本海側の日本の地方都市とこのハルピン市の絆がそこまで強くなっていることも新鮮な発見であった。
次いで虎北園というシベリア虎30数頭を飼育しているサファリパークへ行った。種族保護のため国で飼育していたが餌代に困ってサファリパークにしたところ、観光客が買って与える餌だけで間に合うようになり、累積赤字が解消したというから面白い話である。
翌朝再び列車で午前中かけて長春へ出掛けた。昔新京と言われた都市で旧関東軍や満州鉄道が大陸経営の拠点とした所である。皇帝溥義が日本軍部の傀儡政権として王宮を営んだ場所でもある。中国共産党はこの政権を認めていないので王宮は偽王宮と呼ばれている。故宮などと比べると遙かに貧弱な建物で、皇帝溥義の苦悩がよく判る気持ちであった。偽満州国務院などの建物も残されていて昔、ここへ住んでいた日本人にとっては懐かしい建物であろう。昼食時に土砂降りであったが、うまい具合に雨も上がってほっとした。
再び列車で瀋陽(旧奉天)へ向かった。 この町の駅は新築されたばかりでとても立派であったし,町中が建設ラッシュであった。中国で北京、上海、天津に次いで四番目の都市だというから人口も1200万人(郊外地含む)あるという大都会である。これから発展する都市だという印象が強い。オリンピックの北京開催が決まった日でもあり、いずれ開発が目まぐるしい勢いで進むことであろう。
午後から北陵と故宮の見学をした。ここ瀋陽は清朝ゆかりの地で、開祖ヌルハチ(太祖)が遼陽からこの地へ1625年に遷都して以来、再び北京へ遷都するまで約20年間国府とした所である。もっともヌルハチは瀋陽へ。遷都した翌年没している。ヌルハチの墓地もこの瀋陽の地にあるのだが、時間の都合で見学はできなかった。北陵には二代皇帝大宗ホンタイジの妃が葬られているのである。
創始者達はいずこの国も質実剛健である。この瀋陽の故宮もその雰囲気はふんぷんと匂っており、清朝の軍事行政組織の根幹である八旗の統括者の事務所が八つ八の字型に並んでいるのが珍しい構えであるが、北京の故宮に較べれば十分の一の規模で建物も小さく、即戦体制がとれるような配置になっている。
この八旗軍団が肥大化し脆弱華美に流れ形骸化した時、清朝没落の遠因を作ることになったのである。
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