前潟都窪の日記

2004年06月19日(土) 【多彩な少数民族が生活する雲南省・・��】

 納西族の住んでいる束河村を訪問した。
 この村には古くからの農村の家並みが残されていて道路の両端には瓦葺きの古い二階建ての民家が軒を接して建ち並んでいる。壁は日干し煉瓦を積み重ねたものが多い。


 門扉には「春節光臨」等と書かれた旧正月の到来を祝う張り紙がしてある。中には葬式を出したばかりとおぼしき張り紙をしてある家もある。

 日干し煉瓦塀で囲われた庭には穴のあいた何本かの柱が高く建っている。これは穴に竿を通して収穫物の玉蜀黍や稲を乾燥させるための支え木である二階の軒下には玉蜀黍の実が数珠繋ぎに縛られて幾つも吊り下げられていて陽光に晒され黄金色に光っている。庭の囲いの中の家畜小屋では牛が玉蜀黍の茎や葉を食んでいたりする。




 道路には農業用トラクターに鉄板で囲いをつけた車が農産物を積んで通り抜けるかと思えば、一方には背中に農産物や薪の一杯詰まった大きな籠を背負った女性が力強い足どりで歩いて行く。軒先では男達がトランプや将棋に打ち興じていたり、老人が椅子を持ち出して座り人通りを飽かず眺めていたりする。実に長閑な田園の村落の光景が展開している。ガイドの説明によればナシ族の女性は働きものであるが、男は働かないでぶらぶら遊んでいることが多いという。それが昔からの習慣であるからそのことを奇怪だと思う人も今まではいなかったという。しかし観光客が大勢訪問するようになってからこの風習も次第に見直され、男も働くようになってきているという。

 たまたま広場に数多くの男達が集まって、予め組み立てられた材木を取り囲んでガヤガヤ言いながら立ち働いている現場に遭遇した。新築民家の建前である。暫く眺めていると柱と梁を組み合わせて予め組み立てられた母材に綱を掛け、掛け声に併せて一斉に男達が一方では綱を引き、他方では母材を押し上げている。見る見るうちに鳥居型の最初の骨格が立ち上がった。続いて他方にも同形のものが立ち上がり、柱を器用に男達がよじ登って両者に横木を渡して家の骨格が出来上がった。クレーンを使うわけでもなく総て人海作業である。運よく村落共同体の原始的な建前の風景を見学することができた。

 この国では社会主義が行われているので土地は国家のものであり、家を建てる人は国家に土地税を収めてこれを借り受け、材料費だけを負担し、労働力は村落の人々の労力奉仕に依存して家を建てるのだという。ここには住民がお互いに協力しあって助けられ且つ助け合うという地縁社会の相互扶助の習慣が現在に息づいていた。


 そして若い男が結婚するには家を持っていることが一つの条件になるという。通りを進んでいくと川があり川の向こうは緩い傾斜の山麓に広がる部落で瓦葺きの家並みが古色蒼然と建ち並び美しい景観を作り出していた。

 昆明の市街地から北12kmのところにある白砂村へ赴いた。現在は鄙びた村落に過ぎないが明清時代にはここが麗江地域の政治文化の中心地であった。ここは豪族「木氏土司」の本拠地であり、数多くのきらびやかな建築物が造られ現在でもその一部が残されている。

 白砂で最も有名なのは、当時この地域の支配者であった木氏土司が道教や仏教の教えを普及するためにナシ族、漢族、ペー族、チベット族の画家に描かせた壁画である。

 木氏は戦争を嫌い村を囲む城壁を一切作らなかったので、諸族共存を政治信念として部族の統治にあたった一つの例証とも言える因みに「木」を囲むと「困」になるから城壁を作らなかったのだという言い伝えも残っている。

 最も保存状態のよい「白砂壁画」を見学した。楠木の壁板に大乗仏教、道教の題材が金泥を用いて描かれており立体感を表現しようとしたところに特徴がある。撮影禁止でカメラに収めることはできなかった。

 この村では広場で中年の女性達が6〜7人民族衣装に身を包んで、カセットテープから流れる民族音楽に合わせて踊りを踊っていたが、カメラを向けただけで撮影していなくてもしつこくチップを要求されるからとガイドから予め注意を受けていたので撮影は一切せずにやり過ごした。それでも紙箱を両手に捧げて若い女性がチップを要求してしつこくつきまとってくるのには閉口した。

 面白いと思ったのは壁画のある場所の周りには土産物屋の屋台が並んでいて藍染め主体の工芸品が売られていたことである。そこには必ずと言っていいほど「苗族の藍染め」と特記してあるものが多かった。この地には苗族もナシ族と共生しているのかと現地ガイドに聞いてみると彼らは土産ものを商うためにこの地へ進出してきている出稼ぎ商人だということであった。彼らにはまた別のところに定住区があるのである。

 午後玉龍雪山を東側からまじかに見るため雲杉坪(ウンサンピン)という丘へ向かうべく広いだらだら登りの高原を疾駆した。元この地域に飛行場があったが高い山が近くて飛行機の離着陸に危険であるため廃止されたというのである。説明がなければ飛行場の跡だとは誰も気がつかないであろう。

 そんな変哲もない場所を暫く走行して「東巴文化走廊」という標高2900mの地点にあるレストランで昼食を摂った。このレストランの建物の中央部には部族の神様の大きな像が守護神として佇立し周囲を睥睨していた。高い場所にあるので建物の中へ入っても震えるような寒さである。暖房設備も施されておらず、ブリキ製の火鉢に炭が焚かれているだけであるから暖気は部屋の中へは行き渡らない。

やがてスキー場でよく見かける腰掛けだけのリフトに乗って雲杉坪の丘へ登った。

一気に高度が約300m程上がるので高山病にかかるおそれがあるから、煙草を吸ったり、走ったり、大声を出したりしないようにとの注意があった。体力に自信のない人は「空気枕」と称する酸素入りの枕状のビニール製容器を借りて携帯するのである。

 雲杉坪に降り立つと一面に雪が積もっていて観光客に踏み固められて滑りやすくなっている。通路に沿って見晴らしのよいと言われているヴューポイントまで到達したが、生憎の雲で玉龍雪山の全貌は全然見ることができなかった。


山の裾部のあたりが見えているだけである。暫く待っていたが雲は晴れずやがて雪が降り出した。折角登ってきたのにと残念な思いであったが、再びリフトに乗って下山した。名山を見ることができるのは余程「つき」がなければ難しいと言われるように致し方のないことであったが悔しい思いが残った。


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