前潟都窪の日記

2004年06月22日(火) 【経済大国へ驀進中の中国・・三峡下り� �

▼中国の旅5 成都、臥龍、都江堰、大足、北山石刻、重慶、三峡下り、奉節、三峡ダム  
                  2002年3月14日〜3月19日
 朝早く成都市内のシェラトンホテルを出発して臥龍へ向かった。臥龍まで約3時間のバスドライブであったが、中国の田舎の風景を存分に観察することができた。
 
 概ね道路の両側は山に囲まれており、山の木々は新芽を吹き始めているし桜と桃が美しく今を盛りと咲き誇っていた。山の合間に開けた平地の田畑には一面に菜の花が咲き乱れておりまさに春爛漫の風情である。

 山間を流れている川の底には砂利や岩塊ばかりが転がっていた。山間の山道は舗装されておらず左右に大きく揺れるがたがた道である。そして、至るところにスローガンを書いた横断幕をみかけたが、「開発」という文字がやたらに目についた。中国の簡体文字は判読が難しく、「開」の文字が「門構えを省略した鳥居印」のようなものであり「発」の文字が「友」+「’」と簡略化したものであると解読できるまでには相当な時間が必要であった。看板の珍しい文字を眺めながら原字を推理するのは楽しい頭の運動であった。 途中小休止した場所の公衆便所は典型的な中国風のもので、建物の中の便所は申し訳程度に個室として囲ってはあるものの扉もなく垣根は低く人目を気にすると出たいものも引っ込んでしまうような造りで女性泣かせの「ニー、ハオトイレ」であった。

 民家の門前では鉢にご飯とおかずを盛った遅い朝飯を立ち食いしている若い農婦を目撃した。以前聞いた話であるが「私はこのように朝ご飯を無事食べていますよ」ということを近隣に誇示する意味合いがあるという。農民が毎日の食に事欠く程に困窮していた頃出来た昔ながらの習俗が残っていたし現在の中国の都会地では見られなくなった紺色の人民服を纏った老人達や農夫達を見ることもできた。

 しかしながらこのような風俗と対比するように20年前には電気が通じていなかった僻地にもパラボラアンテナがそこここに立てられていて、情報化と現代化の荒波がこの山奥にも押し寄せていることを感じさせられた。

 やがて目的地臥龍に到着した。成都の北西方向にある山奥で
パンダの自然保護区があるところである。檻の中に飼っているパンダもあれば、森林に放逐されて生活している野生のものもある。野生のものは百頭前後棲息しており、国の保護施設で養育保護されているのは30数頭らしい。木の上で眠っているかと思えば、原っぱで寝ているものもいる。パンダは「ケンチク」という竹を主食にしている。一日に50kgほど食べるらしい。寝るか食べるかの生活でコアラに似た習性であるといえる。パンダの歩き方は一種独特で関節を曲げずに歩く姿に特徴がある。ここではパンダと一緒に記念撮影をした。





 この臥龍から岷江沿いに上流へ遡っていくと松藩、黄龍、九寨溝等の秘境がある。何れの日か再訪してみたいところである。

 昼食はこのパンダ保護所にある食堂で田舎の四川料理を食べたが小皿は無く全てご飯を持った茶碗に料理を乗せて食べるのであり、それが中国の流儀だという。

 四川料理は辛さに特徴があり、唐辛子と山椒で味付けする。「脚のあるものは机以外、飛んでいるものは飛行機以外は何でも食べる」のが中国料理である。

 また「麻婆豆腐」は成都に住む「あばたの陳婆さんが創案した料理」のことであるという。
 
 臥龍の見学を終えての帰りに都江堰に立ち寄った。今では「都江堰市」になっているが、ここの歴史は2200年前に秦王朝の官吏であった李親子が岷江の治水のために堰を設けたことに始まる。流れの激しい岷江に中州を設けて水流を調節したものであるが科学的な設計に基づいて行われた大工事であった。安瀾橋(あんらん)という吊り橋、龍を封じ込めた伏龍観(観は道教の寺院の意味である)、


流れの速い宝瓶口、李氏親子の二王廟を見学した堰周辺が公園になっている。

 ところで四川省の名の謂われは四つの川からきているが何れも長江の支流の四つの川のことである。1)岷江 2)大渡河江 3)嘉陵江 4)川江 

 ここで三国史の復習をしておくと成都(四川省)は蜀の都で劉備の本拠地洛陽(河南省)が魏の都で曹操の本拠地、武漢三鎮の一つ武昌(湖北省)を都としたのが呉の孫権である。

 成都市内に戻り夕闇迫る頃、杜甫草堂を見学した。


759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が厳武の庇護のもとに仮小屋を造り,質素な生活を送った場所である。彼の全作品1400首のうち代表作を含む247首がここで作られた。唐末に彼を記念するため草庵が建てられたが、明代に再建され今日に至っている。草堂の敷地内には竹が沢山生い茂っており、静寂な佇まいである。

 「川劇」は琴の演奏、踊り、操り人形、変面、低所潜り抜け等と幾つかの出し物があったが、圧巻は「変面」である。役者が面を付けて出演するのであるが、見せ場見せ場で顔を振り、見栄を切ると今までつけていた赤色の面が青色の面に変わったり、黄色の面が黒色に変わっているのである。まるで手品をみているようでどんな仕掛けになっているのかよく判らない。優れた演技者は一秒間に二十回も面を変えることができるというからその技術は素晴らしい。変面の芸は一子相伝の秘技で最近では後継者難になっているという。

 朝、成都市内の武侯祠へ立ち寄ってから大足の宝頂山の石刻と北山の石刻を見学する予定である。その後宿泊地の重慶までバスで走行する予定になっている。

 ところが運転手が重慶出身というふれこみで地理に暗いものだから目的地の武侯祠へなかなかたどりつけない。同じ所をぐるぐる廻っているようである。ここで一時間近くも時間のロスができてしまった。

武侯祠は諸葛孔明の遺徳を偲んで彼を祀るために建てられた祠であるが、君臣は合祀されるべきだとの思想のもとに劉備玄徳も祀られている。そして両翼の回廊には三国史に登場する殆ど全部の英雄達の像が同時に飾られている。また、劉備の小山のような墓も独立して構内の一角にあるがこの墓は発掘調査されたことがなく何が埋葬されているか謎になっているという。


 ここには諸葛孔明が劉備玄徳の死後その後継者劉禅に奉った出師の表の前編、後編が石碑に刻まれて保存されている。このうち前出師の表は南宋の武将岳飛の筆であると伝えられている。因みに出師の表は蜀の将来や政治の根幹を説いたもので名文で知られている。

 武侯祠の見学を終えて大足へ向けて出発したのだが、バスの横揺れが激しくなり、後続の車にどんどん追い越されるようになった。スピードメーターを見ると70kmを超えると横揺れが激しくなるようだ。横揺れするのは道路のせいではなくて車両の整備不良が原因だということに乗客達は漸く気がついた。運転手と現地ガイドが携帯電話でしきりに話しているが、どうやらバスの不調を会社に訴え、代車の手配をしているらしい。中国語で喋っているので何を話しているのかは判らなかったが、車の車軸でも折れてしまうのではないかとの不安が頭をよぎるようになりだした。よたよたした足どりで行けるところまで走る模様であるが、時間はどんどん過ぎていくし後続車にどんどん追い抜かれていく。予定では昼食をレストランで摂る筈であったが、時計は既に午後3時になろうとしている。

 やっと昼食予定地の内江にまでたどり着き、待機していた代車に乗り換えた。

 レストランでゆっくり食事をしている時間がないので予め連絡して用意して貰った弁当を受け取り車内で食べることとなった。車はそのまま走行を続け、遅れた時間を取り戻そうという苦肉の策である。
 
 弁当たるやゆで卵が三個とハムらしき肉片が数枚と饅頭が入っていた。

 今回の運転手はプロ意識が全然なく、一番大切な車の整備点検を行っていないし、地理の勉強も全然していない。最低の運転手であった。事故が起こらなかったことをラッキーとするのみである。

 時間が遅れたため最後の観光地北山にはガイドが連絡をとり、閉門時間を遅らせて係員に待っていて貰うという始末であった。


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