前潟都窪の日記

2004年06月23日(水) 【経済大国へ驀進中の中国・・山峡下り�◆�

 大足の宝頂山には一枚岩に刻まれた石刻が13個所あり、保存状態は極めて良好で像の顔面が破壊されたものは殆どない。



 南宋の名僧趙智鳳が70年を費やして完成させたと謂われ、500 mに及ぶ岩壁には31の石窟がある。釈迦涅槃像や六道輪廻像、千手観音、華厳三聖像、孔雀明王経変等仏教説話が系統的に造像されているところに特徴がある。


 文化大革命の時にも都会から離れた辺鄙な山中にあったことが幸いして文化遺産が破壊されることなく保存されたようである。

 続いて北山の石刻へ到着した頃は夕闇が迫りかけていた。係員は所在なげに待機していてくれた。感謝する気持ちを込めて「謝、謝」と何回も唱えて入場した。

 ここの仏像は唐代末期から250 年間彫り続けられたのであるが、宝頂山のそれとは異なり、彫刻全体を流れるテーマはなくめいめいがそれぞれの思いを込めて刻まれた仏像群である。従って同じ種類の仏像が沢山あるが、唐、五代、宋代と時代の特徴を表現していて面白い。保存状態は必ずしもよくなく、顔面が破壊された仏像も相当数あったのが痛々しい。

 大足の村には水を張った水田が沢山あるので田植えがもう始まるのかなと思っていたら蓮根の特産地であるということであった。納得。

 バスの不調で約3時間のロスがあったので、重慶のレストランで名物の火鍋料理を味わってから、ホテルにたどり着いたら12時近かった。火鍋料理とは中国風シャブシャブと思えばいい。

 朝6時にホテルを出発して朝天門埠頭へと急いだ。重慶は嘉陵江と長江に囲まれた丘陵地帯に開けた街である。そして朝天門埠頭は嘉陵江と長江が合流する地帯に突き出た地点にある。

 昨夜ホテル到着が遅かったので初めて見る重慶の市街は起伏の多い街で長江は遥か下方を流れている。大きな幅広の電車風のエスカレーターに乗って岸辺まで降りてから高速船に乗り込んだ。

 埠頭には多くの人々が屯しており、担ってきた野菜や果物を並べて商っている者もいる。我々の目を最も驚かせたのは手に手に天秤棒と縄を携えた 「棒棒群」と呼ばれる労働者の群れである。船に乗り降りする乗客の手荷物を運搬して料金を貰うのであるが,その数が非常に多いのである。我々のグループも彼等にスーツケースをバスから船まで運んで貰ったが、天秤棒の両端にスーツケースを二個宛吊るして計四個の荷物を肩に担って運搬するのである。昔日本でも大きな鉄道駅にはいた赤帽さんのようなものだと思えば判り易い。約70〜80kgの荷物を急坂を登り降りするのは大変な労作量であろうが、もっとも手っとり早い就業チャンスなのである。荷物一個につき2元から3元(日本円換算35円〜50円程度)であるという。

 因みにこの地帯では新卒大学出の初任給が月額1,200元( 日本円で2万円程度)で一カ月の生活費は食費だけで、四百元( 日本円6,800円) 程度だという。

 重慶の朝天門埠頭から白帝城のある奉節の町まで約8時間の船の旅である両岸に険しくそそり立つ岩山の合間を流れる長江は世界第3位の長さを誇って土色をした水を満々と湛え悠々と流れている。

 白帝城までには鬼城、石宝寨、帳飛廟等の旧跡があるが船の上からでは見る術もない。航行するにつれ多少様子を変える山々の岩肌や岩壁を眺めているだけの単調な退屈する8時間である。高速船なので時速50〜60kmも出ているのであろうか、甲板にでることもできず船室に閉じ込められたまま船窓から移り行く景色を眺めているか、居眠りをしているしかない。昨日睡眠時間、が短かったので不足分を取り戻すにはおあつらえ向きのクルージングである。長い8時間が終わってやっと奉節の町へ到着した。ここでも「棒棒群」に荷物をバスまで運んで貰い、急峻な階段を登って奉節の町中を通り抜け、白帝城入り口にやっと到着した。そこにはひょうひょうとした風情の痩身の白い杜甫像が訪問客に俯瞰する眺望の素晴らしさを指し示すかのように佇立している。

 眺め下ろすと両側の険しい山間を流れている
長江を遠望することができる天下の絶景である。

 前方へ伸びている岩道を眺望を楽しみながら暫く歩くと吊り橋がある。この橋を渡って赤甲楼という楼へ登り景色を眺望した。この三層の楼からは前方に三峡の始まりである瞿塘峡の入り口を見下ろすことができる。瞿塘峡の両側にそそり立つ赤甲山と白塩山の競り合う間を長江が流れていく様子がよく判る。


眺めは実に素晴らしい。

 瞿塘峡に続いて巫峡、西陵峡が順番にその先に控えているのである。この三つが世にいう三峡である。

 この楼から一寸前方へ進んだ地点からは、昔、岩肌に穴をあけて丸太を差し込みその上に板を並べて作った古桟道の跡を望むこともできる。今は桟道は外されて穴しか残されていないが、絶壁に懸けられた桟道を往来した旅人や住民達の苦労の程が偲ばれた。            

 三峡ダムの建設によりこの天下の名勝も過半が水没してしまう運命にある、のだ。岩肌に143.2m、175mと白色のペンキで記されているが、これはそれぞれ2006年、2009年時点の上昇する水面が表示してあるのである。何れも海抜であるが、175mの地点は今立っている赤甲楼よりも遥か上方であるから、この望楼も水没してしまうのであろう。

 来た道を暫く引き返して今度はリフト乗り場までやってきた。スキー場のリフト様のものに乗り白帝廟に到着した。

ここには劉備が祀られていて「劉備託孤」のエピソードが塑像で紹介されている。

 諸葛孔明が星を占って作戦を立てたという望星亭、杜甫が住んだ西閣などもある。また杜甫の代表的な詩である「朝に白帝を辞す」の詩碑が立っていたが周恩来が筆 をとっている。詩碑に残すだけあって達筆で流麗な墨痕は見事である。




 白帝城という名の謂われは前漢末期にこの地方の富裕者公孫述が独立王国を築き、井戸から白い龍が昇天するのを見て、自ら白帝と名乗ったことに因んで命名された。その後、公孫述の像は劉備の像に取って代わられたのである。

 白帝城の見学を終えて近く水没する奉節の旧市街へ入り繁華街を通り抜けて師範学校の看板のでている学校へやってきた。校舎の裏に隠れるようにして永安宮という名の建物がある。ここは劉備が息を引き取った場所であり、元は学校構内の敷地一杯に王宮が営まれていたのである。ここにも劉備託孤。の像が祀られていた。病を得て最後に死後を諸葛孔明に託す場面の木彫りの群像である。

 本日は奉節のホテルで宿泊である。エレベーターもない8階建ての田舎のホテルであるが詩城という名がついていた。

 出発まで間があったので20分程朝の町中を歩いてみた。そこここに饅頭やお粥等を商う出店が並び道行く人々が立ち寄って朝の腹ごしらえをしている様子は活気があって面白かった。

 波止場から小舟に乗って小三峡のクルーズを行った。ここは支流であるため本流とは違って水の色が紺碧に光っており、川底には砂利と岩塊が堆積していて清々しい感じである。

 小三峡は川幅も本流よりは狭くて両側の岩肌や岸壁にはまた今までとは異なる趣があったが、日本でも見られる各所の渓谷とさしたる変わりはなく、期待外れであった感を免れない。

 この白帝城のある奉節の町の新市街のレストランで昼食を摂った。新市街は三峡ダム建設に伴い地域住民を移住させるために頂上近くに最近作られた計画都市である。ここへくるために低地の旧市街を通り抜けた。町ごと水没する運命にありながら旧市街には活気があり、商店街は夥しい群衆で賑わっていた。既に引っ越しを済ませた部落もっあって廃墟になってしまった建物が建ち並んでいるが暗さが感じられなかったのは不思議である。

 また現在、引っ越し中の部落もありそのため昼食のレストランへ向かうための迎えの車が渋滞に巻き込まれて小一時間も待たされるというハプニングもあった。交通警察官が出てきて号令をかけるまではめいめいが一車両しか通行できない細い道路に譲り合うことをせずに、双方から自己本位の割り込みを行うものだから混雑に輪をかけて渋滞はひどくなるのである。

 三峡ダムを建設するために移住を余儀なくされる流域住民の数は200万人であるというからこのプロジェクトが国の威信と国力を注ぎ込んで実施される一大プロジェクトであることが判る。

 昼食後再び高速船に乗り巫峡、西陵峡の絶壁を鑑賞しながら三峡クルーズ最後の町宣昌へやってきた。
かくして両岸の景色にもさしたる感動を覚える、ことなく、三峡下りのクルーズは終了したが、ここまでくると周辺の様子はがらりと変わる。今まで高い山に囲まれた山間だったのに高い山が姿を消し丘陵地帯になる。平地もかなり広く広がっている。中国の地形は西から東に行くにつれて山から丘陵に変わりやがて広大な平野に変化していく様子がよく判る。

 ここでは三峡ダムの建設現場が眼下に見下ろせる三斗坪鎮の高台にあがり最初に模型室へ案内された。
ここには三峡ダムの完成予定模型が置いてあり全体像を理解するのを容易にしてくれる。模型を頭に入れておいてから実際の工事現場を見下ろすと今更のように国家的大プロジェクトであることがよく判る。

 このダム建設の発想は、1911年に孫文が唱えたものであり、1992年の人民大会議で建設が決定され、1994年12月に着工したものである。

 水門の高さは185mで落差は103mになる予定である。最大流量は毎秒11万m2で年間840億キロワット時の発電量であり、完成すれば、世界一の水力発電所になるという。総工費は2500億元の文字通り大プロジェクトである。

 最近,日本の生産拠点が中国に移転され、日本の製造業が空洞化しつつある事実や値段の安い農産物、衣料品が製品として日本国内市場に奔流の如く流入している事実と重ね合わせた時に中国の持つ底力というものを如実に実感させられる工事現場であった。

 今回の三峡下りの旅では山間僻地に至るまで、経済大国への道を驀進中の中国社会の現状を随所にに感じ取ることができた。


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