前潟都窪の日記

2004年06月25日(金) 【水墨画の世界奇山、珍山を堪能し、桃花源に遊ぶ・・桂林�◆�

 桂林での風景を堪能して桂林空港から広州空港へ飛んだ。機中はその過半が初老以上の日本人観光客の団体であったが、中に一際目立つ異様な集団があった。西洋人の若い夫婦がいずれも乳幼児を抱いており、その数10数人に及んでいた。こんなに沢山乳幼児を連れた集団を見かけたのは初めての経験であり、最初は健康優良児を競う世界大会でも開催されてこれへ出場した人々かな等と勝手に想像していたが、若い母親の子供を抱く手つきがなんとなくぎこちないし、嬰児の顔をみると明らかに東洋人の顔つきである。そこではたと気がついた。

 これは子供の生まれない若い夫婦が集団で中国を訪問し、養子縁組を無事
済ませて帰国するところなのだと。

 ガイドの話の中に中国の近年の発展は目ざましいものがあるが、山村地区と沿岸地区での経済格差には甚だしいものがあり、山村の貧しくて子供を養いきれない親とか一人子政策に反して間違って多く子供を生んでしまった夫婦達が子供を捨てることが多くなったという。捨て子を集めて育てている孤児院には欧米の子供のない若夫婦が養子を貰いに訪れるというのがあった。これはまさしくその里親達の集団だったのである。

 東南アジアを旅行していて、一番厭な思いをするのは乞食にまといつかれることと、しつこく押し売りをする物売りの集団である。中国でも都会地の北京や上海ではあまりみかけなくなったが、田舎の観光地にはこの乞食としつこい物売りがまだ多い。

 陽朔の町では物売りが掏摸を兼ねているというから物騒である。今回の旅行ではこの物売りに悩まされた。

 最近日本にも百円ショップができて意外に安い掘り出し物を見付けることもあるが、過半は中国製のものが多い。観光地の物売りは大体千円を最小単位としてこれに品数を増やして商いをしている。しつこい物売りから逃れてバスに逃げ込むと窓辺へ寄ってきてダンピングが始まる。3枚千円であった刺繍のテーブルクロスが7枚で千円に増えたりする。そこで欲の皮の張った日本の小母さん達が引っかかる。7枚買った筈のテーブルクロスが受け取ってみると5枚しかなかったり、大きさが随分ちいさな物にすり替えられたりしているが、金を渡したあとだから気がついたときは後の祭である。したたかな物売りと欲の皮の張った小母さん観光客のやりとりはちょっとした見物ではあった。

 広州は広東省の省都で珠江流域に開けた城郭都市であった。近くには深川、珠江三角州という、いち早く1979年に経済開放特区に指定され躍進著しい衛星都市を従えている目下近代化へ驀進中の経済都市である。町中至るところに建設用クレーンが建ち並び今まさに街中普請中という感じのある活気溢れる都会である。人工千百万人を抱えているがそのうち四百万人は内陸部らの出稼ぎ労働者であるという。
 
 古くは海上シルクロードの起点ともなった町なので、城郭の北端にある越秀公園の高台には鎮海楼という8 階建ての博物館が佇立している。今はサッカー場や高層建築が建ち並んでいるので市街地を見晴るかすことはできないが、字義通りここは珠江交通と海上交通の見張りの場所として設置されたものである。




 今は博物館に転用されている。
 この博物館のコレクションの一つである紫檀でできた飾り棚に陳列されている。
 寿大石製の手の込んだ彫刻や翡翠の飾り物など明代の骨董品が7 〜8 点展されていた。飾り棚とそこに収納されている宝物一式はこの博物館を改修するための費用として売りに出しているのだという。邦貨88万円の値がつけられていた。

 ガイドは戸棚から無造作に宝物を取り出して手に持って説明するし、第一博物館のコレクションを売りに出すこと自体が日本人の感覚では理解できない驚きであった。

 食は広州にありとはよく言われる。食べ物にはあまり興味も関心もない。食事に頭を煩わせ時間を費やすのが厭でパック旅行によく参加するのだが、今回の旅は美味しいものを三食食べられたのでとても楽しかった。四つ足は机の足以外は何でも食べると言われる広州人の食文化は逞しくもあり素晴らしいと思う。大阪の食い倒れに匹敵する食文化がここには根付いているようだ。

 広州では飲茶料理を堪能した。地元の大衆がよく集まるレストランは大変な賑わいであったが, 蒸籠に入れて供される料理は品数も多いし美味いものが多い。骨つきの鳥の脚先や鶏冠までには満腹で手が伸びなかった。

 子豚の丸焼きもこの広州で堪能することができた。北京のペキンダックと広州の子豚の丸焼きはいずれも中国を代表する名采の誉れが高い料理である。料理では中国の影響を強く受けているタイのバンコックでも子豚の丸焼きは最高のもてなしだと言われている。タイでは豆電球が目の所につけられて供されるが、ここ広州では豆電球がついていなくて安堵した。だが、人間の残酷さも感じながら食した夕食であった。

 桂林の街は広西省の景勝地であるが、歴史は古い街である。古くは紀元前214年に秦の始皇帝が広東・広西地方を統一し、この地方に霊渠という運河をめぐらせた時まで遡る。宋代には広西地方の政治文化の中心地として賑わいをみせていた。1921年に孫文が北伐をする際には独秀峰城内に拠点を構えその後広西省の臨時省都にもなっている。1940年の坑日戦争の時には中国各地から文化人達が集まり文化の城と呼ばれた。

 この街に象鼻岩という岩に穴の穿たれた景勝の地があり、観光客や市民で賑わっている。この象鼻岩のある河畔に野外サーカスが鉄塔を建てロープを引いて綱渡りのサーカスを演じている。安全ネットも張らず、命綱もつけずに綱の上を歩いている軽業師がいるかと思えば、綱からぶら下げた車に乗っている軽業師もいた。正月興行で春節にサーカス団が市と契約して随時、観客の多寡に係わらず軽業を披露しているのだそうである。従って彼等の給料は広西省の役所から支給されることになっているのである。世外桃源の少数民族の若者達といい、観光客を集める役割を持つ人民は国の手厚い保護を受けているようだ。


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