景光に弟子入りした虎丸は備前長船村で修業に励んだ。生来、好奇心が旺盛なだけに、一事に集中することが苦にならない性格で根気よく仕事に精をだした。加えて動物が好きな性格であったから細かな所の観察が鋭く師の景光も驚く程の上達振りであった。
「虎丸よ。お主を幸山のお城から預かってきてはや五年が過ぎた。腕の方ももう一人前だ。ついてはいつまでも虎丸というわけにもいくまい。どうじゃ、我が祖光忠の一字を戴いて、以後は垂光と称すがよかろう」「ありがとうございます。ついては、お師匠様におりいってお願いがございます」 「なんじゃ。申してみるがよい」 「聞く所によりますれば、都には優れた刀鍛冶が集まっているとか、垂光も都へ上ってもそっと腕を磨きとうございます」 「それもよかろう。山城粟田口派の国綱、備前直宗派の三郎国宗、福岡一文字派の助真等の流れを汲む名工達が技を競っているのが都じゃ」 垂光はかくして都へ上り刀鍛冶として腕を磨き、かたわら日像によって都にもたらされた日蓮宗についての見聞を深めたのである。
荘一族に荘常陸兼祐という土豪がおり、智略にたけていた。幸山城にいる荘左衞門次郎一族の分家筋にあたり、都宇庄を分与され福山の麓に館を構えて南部地域の新田の開発に精を出していたが、荘一族の中では欲深で物欲のためには信義を平気で破る油断の出来ない男と見られていた。荘常陸兼祐には男子がなく雪姫という娘が一人いたが稀にみる美貌の持ち主であった。彼は荘左衞門次郎の三人の嫡子太郎太、次郎太、三郎太の内末の子の三郎太を雪姫の婿に迎え入れようと申し入れ近く祝言をあげることになっていた。
元弘の変(1331〜1333)の頃から護良親王令旨とともに御醍醐天皇の綸旨や足利尊氏の催促状が使者によって届けられるので、何れに与するのが自分の為に得策かと考え悩んでいた。兼祐の本家筋にあたる左衞門次郎が早くから足利方に加勢する意志を示していたので、悩みは大きかった。備前児島には豪族の佐々木一族が控えており、有力な土豪飽浦信胤も積極的に足利方に助力していた。
一方備前邑久郡豊原荘の地頭今木氏や大富氏は児島高徳と共に天皇方の有力な支持者であった。ところで、児島高徳については次のエピソードが残されている。
後醍醐天皇が隠岐の島へ流されることになったことを知った児島高徳は帝を播磨船坂峠で奪回しようと待ち伏せしたが、天皇一行は山陽道を通らず、播磨の今宿(姫路)から美作へむかっていた。既に院庄(津山)に入っていた天皇にこの地にも天皇に心を通じる忠義の武士達がいることを伝えたくて、御座所近くの桜の大木に次の詩を書きつけた。
「天 匂践を空しゅうするなかれ 時 范蠡なきにしもあらず」 天は越王匂践(後醍醐天皇)を空しく殺し奉ってはならない。越王を助けて恥をそそいだ范蠡のような忠臣がいないとはかぎらないという意味である。
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