2005年06月21日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂9 |
「孟子は人間には誰でも人に忍びざる心つまり他人の不幸を見過ごすことのできない同情心があるとして性善説を唱えています。そしてその理由としては、よちよち歩きの幼児が井戸に落ちようとしているのを目撃したら、誰でもじっとしていられない惻隠の心にかられて助けるために駆けだすであろうということを挙げています。そしてこれは自然な行為であり、幼児の親と交際したいからでもなく、村の仲間から褒められたいからでもなく、助けなかった場合の非難を恐れてからでもないと言っているのです。これが出来ないものは人間でないと言っています。それがしもこの設例ではその通りだと思います」 「そうだね、そして彼はこの事例から類推して惻隠の心、羞恥心、謙譲心、善悪の分別心のない者は人間ではないと言っている。更に惻隠の心は仁の端であり、羞恥心は義の端であり、謙譲心は礼の端であり、分別心は智の端であり人々は自然に備わっているこの四端を拡充するように努めなければならないと述べているのだね。身近な事象から立論していくところは流石に優れた学者だね。誰にでも納得できる理屈だと感心するよ」
「殿は性悪説ですからそこで感心されていては困りますよ」 「そうだったな。荀子は人間の本性は悪であると言って次のように説いている。人間の善さというものは偽、つまり後天的な矯正の結果なのだ。人間の本性は生まれつき利益を求める傾向があり、これに引きずられるから譲りあうことなく奪い合いが起こるのである。生まれつき妬み憎む傾向があるため人を害して誠心の徳がなくなるのである。生来美しいものを見聞したがる耳目の欲望があるから無節制ででたらめになり、社会規範も社会秩序も失われてしまうのである。こういうことだから人間の生まれつきの性質や感情にまかせると必ず奪いあって社会の秩序が破られることになって、世界が混乱してしまうものである。そこで教師による感化や社会的規範による指導があって始めて社会の安定と世界の平和が保たれるのである。こう見てくると人間性の本質は悪であることは、はっきりしている。人間性が善に見えるのはあくまで後天的な矯正の結果なのである。このように性悪説を述べて具体的な日常の行為を次のように説明しているのだ。つまり人間は腹が減ると腹一杯に食べたいと思い、寒いと暖まりたいと考え、疲労すると休息したいと思うのだがこれは人間自然の性状なのである。ところが、今ある人が腹の減っているのに年長者より食事を先にとろうとせず、疲労していても休息しようとしないのは誰かに譲り、誰かに代わろうとしているからである。このような子供が父にかわり、弟が兄に譲るという行為は人間生来の自然の本性ではないのであって、後天的な教育の結果なのであると」
「荀子は人としての道を踏み外さずにおれば、天も禍害を加えることはできないと言っていますし、天道と人道との分別をはっきり知っていれば、最高の人物といえるとも言っています。更に天を偉大だとしてその恵みを慕っているよりは、自分で物を蓄積して処理していくほうがまさっている。天に従ってそれを褒めたたえているよりは、与えられたものを処理していくほうが勝っているとも述べていますね。荀子は天と人とを分離して考えているわけです。荀子にとって天は純粋な自然現象以上のものではなかったのですが孟子は天には道理があると考えている点で違いがあるようですね」
「孟子の性善説に対して告子の批判があるのを知っているとは思うが、彼は次のように言っているね。人間の性は善でも悪でもない。生命そのものが本性である。食欲と性欲が本性である。従って人間の本性は善行もできれば悪事も働ける。だからこそ文王や武王のような聖王のときには民衆は善を好んだが、幽王や霊王のような暴君のときには民衆は乱暴を好むようになったのだ。また聖天子の堯の時代に兄の舜を殺そうとした象のような男がおり、瞽叟のような悪人の子に舜のような聖人が育ったのは人間の本性は善でも悪でもないからだ。つまり人間の本性は価値判断の伴わない生き物としての現象にすぎないと言っているわけだから天は自然現象だとする荀子と似通った理論構成になっているね」
「孟子だって人間の内心には外界の刺激にひかれて悪にも向かうような自然な欲望が存在することを人間の本性として認めて、次のように言っていますよ。うまいものを食べたい、美しいものを見たい、よい音色を聞きたい、よい香りをかぎたい、体を安楽にしたいというのも人間の本性である。しかしそこに運命がありそれが得られるかどうかはままならない。そこで君子はそういうものは人間性とはしない。親子の間に仁愛が行われ、君臣の間に義理が行われ、主客の間に礼が行われ、賢者の身に知性がつまれ、天の道の上に聖徳が輝くというのはままならぬ運命である。しかしそこに人間性がある。そこで天子はそれらを運命とはしないのであると。ちょっと論理的には弱い気がしますね。孟子が強調したかったのは人間の本性は鳥や獣と違って高貴なものであるから道徳的なものでなければならないという価値判断が暗黙のうちに前提としてあって、性善説を主張したというふうに思えるのですが」「非常に難しい理屈になってしまったが、纏めてみると孟子は人間の内心にある高貴な道徳的欲求を重視してそれだけを性と称したのに対し、荀子は利益を追求する感覚的な欲望を重視してそこから性の概念を構成したと言えると思うよ。だから論理的帰結として性悪説になるわけで性そのものの見方については根本的な立場の相違があった。しかし孟子と荀子では本性論では全く正反対の立場にたったが目指したところは共通のものであった。彼らはあるべき人間の姿を道徳的なものへと導くための学説として本性論を展開したわけで両者とも仁を実現していくために修養の重要性を説く点では同じであった。儂は治世を行っていく上ではやはり光政公がそうであったように孟子の説く仁義礼智の徳は外から自分を修飾するものではなく自分が生まれつき持っているものだという考え方を支持したいと思っているし、これからも善なる性に磨きをかけるようますます修養しなければと思っているよ」
|