2005年06月23日(木) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂11 |
六.理想の藩主夭折 明和五年(1768)心服していた藩主政香が東武より帰国して間もなく腫病に罹り、病臥に伏して数日後の八月五日に夭逝した。 兵右衛門の受けた衝撃は大きく筆舌に尽くしがたいものであった。悲嘆にくれる兵右衛門を慰めてくれたのは母親の茂であった。 「覚えておいでかい。17年前の雪の降る夜、病の床で父上が盛者必衰、会者定離は人生の定めと言われたことを。お前は幼くして頼るべき柱石を失ったにもかかわらず、ここまで立派に生きてきたではないか。何時まで嘆いていても致し方あるまい」 「その頼るべき柱石を失った今は、暗い夜道に提灯を失った気持ちです」 「その気持ちはよく分かるが、今のお前は立場が違う。殿の信頼を得て治世の一翼を預かるまでになったではないか。今では領民から頼られる柱石の一つになっているのだ。その柱石が嘆いているばかりではこれを頼りにしている領民は何にすがればよいのじゃ。殿がやり残されたことをなし遂げていくことこそが殿の御無念を晴らすことになるのではないのかえ」
政香の葬儀は御葬儀の件諸事取計らいを命じられた兵右衛門が取り仕切る中を粛々と挙行された。 葬儀を無事終えて兵右衛門の脳裏を駆けめぐるのは生前政香と忌憚なく仁政実現の理想に燃えて語りあった日々のことであった。退庁してはそうした言行をかきとどめていた日誌を繙いては、ありし日の政香の姿を偲んでいたが、藩主の言行を出版してその理想を明らかにし遺志を実現していくことが最大の供養になるのではないかと考えた。
10月に出版した「止仁録」は生前の政香の言行を記したものであるが、その序で兵右衛門は次の趣旨のことを書いている。ここでは佐々木丞平氏の口語約の名文を引用させて戴く。
「君子には君子たるべき根本となるものがある。国家を平らかに治めるにはいくら智が長けていたところで、根本のものが備わっていなければ、たとえ枝葉が美しく見えてもそれは本物ではない。その根本となるべきものは、 <大学>に謂う所の「為人君止於仁」である。即ち、天は万物を生み出したが、夫々にその止まる所、止まるべき職分を与えている。我が君は幼きより学問を好み、その身を修め、政治を行う道は、決して古の聖人の教えに違うことがなかった。ただ単に智に長けているだけでなく、真に天より与えられた職分としての仁職を知り、実に国家を治める根本をひたすらに目ざして務めていた。しかし我が君は短命にして逝ってしまわれた。悲しいことだ。実にいたましいことだ。その後君の書き遺された物を数多く見たが、一つとして政道のために益にならぬことはなかった。とりわけ烈公(光政公)の徳行を慕い、その教えの数々をみずから記しておられた。私はかつて君のおそば近くに侍していた時、君が語られる言葉、その中に秘められた情熱や理想が我が心に伝わってくるたびに、私の心はいつも躍っていた。退庁して、暇にまかせてそのことを書き記して置いたが、この頃、ふとそれを思い起こしたので、君の御言行の幾つかを書き加え、止仁録とした」
止仁録の「止仁」の意味は人の上に立つ君主たる者は仁に安んじ、仁を把握し、自らその虜にならなければならないという古い言葉からきているのであり、政香の言行はこの言葉にぴったりのものであった。
止仁録に盛られている思想を要約すれば、君・臣・民という三者構成の社会の中において修身・斉家・治国・平天下という理想を実現することであった。そこには人間は学問によって聖人になりうるという信念が盛り込まれており、その学問は単なる博識者になることではなく、聖人となって政治と道徳の一致を実践するものでなければならなかったのである。 七.結婚
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