2005年06月24日(金) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂12 |
七.結婚
「兵右衛門よ、そなたもそろそろ身を固めないとお役を勤めていくうえからも都合が悪か ろう」 と母の茂が夕食のご飯を茶碗によそいながら言った。 「いいえ、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ありますし、旱魃の影響で領民は大変難儀をしておりますので人の上にたつ者、そのような時に我が身のことを構っているようでは仁政ができませぬ」 と兵右衛門は上の空で答えた。この頃(1770年〜1771年)、全国的な旱魃があり飢饉の救済対策に日夜奔走しており、とりわけ義捐米を不正流用する小役人の悪事が露顕してその処置に心を痛めているときであった。政香逝去後まもなく発生したこの不祥事に仁政実現の道のほど遠いことを思いしらされていた。 「そなたがお役目大事に励んでおられるのは頼もしいことだし母としても誇りに思っております」 「今暫く、身辺の雑事に係わることなく御用大事で励みたいと思っておるのです」 「そうは言われてものう、私も歳だしいつまでもそなたの世話を続けることはできませぬのじゃ。それに浦上の姓を継ぐ子も早く設けねばのう、御先祖様に対しても申し訳なかろう」 「それはそうですが・・・・・」 「そなたさえ、その気になればすぐにでも話は進むようになっているのじゃが。親孝行すると思って考えてみては下さらぬじゃろうか。どうじゃろう、市村孫四郎盛明様の娘御、安殿を妻に迎えては」 「あの市村様の安殿ですか」 「そうじゃ、市村様なら六拾石四人扶持で多少扶持が少ないという不満はあるが、家系はしっかりしており浦上家が嫁に貰っても決して不釣り合いにはならぬ良縁じゃと思いますがの。それに安殿は見目よくしっかり者との評判だし、年は二十二才というからそなたには丁度お似合いだと思っておりますのじゃ」 「母上がそのように仰るのなら宜しくお願いします」 と兵右衛門は結婚する意思を表明した。市村家の娘安は器量よしで貞淑であると評判の娘であったし、年老いてきた母にいつまでも身の廻りの世話を頼むのも孝道に反すると考えたからであった。 安永一年(1772)兵右衛門28才の時母の勧める市村孫四郎盛明の息女安を娶った。 安は武家の娘としての躾けは十分できており、当時の武家の子女の嗜みとして箏を爪弾くことができた。母親茂との折り合いもよく、兵右衛門はこころおきなく御用に励むことができるようになった。そして夕食後に寛いだ気分で安が奏でる四季の曲に聞き入るのは忙中閑暇、至福の一時であった。 「儂にも弾かせてくれぬか」 と兵右衛門がある夕べ箏を弾きおわって爪を外している安に言った。懸案の義捐米流用事件の処置も終わったので、気持ちも寛ぎ酒を過ごして気持ちがおおらかになっていたのである。 「お殿様、箏は女の嗜むもので、殿方の弄ぶものではございません」 「座興じゃ。今宵は多少酔った故、陶然として精神が高揚しておる。この昂りをもっと高めてみたいのじゃ」 「兵右衛門、安の言う通りじゃ。箏はわが国では女の嗜むものと決まっておる。男が弄ぶとすればそれは盲というものじゃ。そなたは五体満足で生まれてきたのにやめなされ。そなたが箏等弄んでいると噂にでもなれば、この母の面目がたちませぬ」 「母上、確かにそうです、我が国では箏は盲でなければ男はこれを用いません。しかし、中国では琴と言って七弦のものが昔から聖人や詩人から愛され弾かれておりました。我が国でも奈良時代には和琴が盛んに弾かれたものです。琴を弾くことは心を調和させるのに最も適した手段だと考えられ、人間の精神を高揚させてくれると信じられていたのです。最近聞いた話では明の心越という僧が水戸光圀公に招かれて来日し、出府してから江戸では七弦の琴が文人の間で流行していると聞きます。私も機会があれば聖道をめざす者の嗜みとして、琴を習いたいと思っているのです。琴も箏も弦の数が違うだけで音を出す仕掛けは同じです。琴の代わりに今日は箏を試してみたいのです」 「そういうことであれば、座興としてならよいでしょう。安さん貸しておあげなさい」 と一人息子の言い分には一も二もなく甘い茂であった。 安から爪を借りて暫く調音していたが、天性音感が良かったのであろう、見よう見まねでやがて曲を奏でだした。毎日の夕餉の後、安の爪弾きを観察しているうちにいつの間にか演奏法を呑み込んでいたのである。 「まあ、お上手なこと。私などよりも上手ですわ」 「そうかい」 「今回限りですよ。安さんも変に煽てたりしないで下さいましよ。何と言っても岡山では箏はまだ女の嗜みですから。男が弄ぶものではありません」 と世間体を気にする茂であったが、この日をきっかけとして兵右衛門の琴への開眼がなされたのであった。
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