2005年06月25日(土) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂13 |
八.江戸在勤 兵右衛門三十才の時江戸在勤となり、ほぼ一年間にわたり都会の闊達な空気に触れ儒学の面、医学の面、琴弾の面で数多くの刺激を受けた。 先ず播磨の儒者玉田黙翁に師事して聖学を学んだ。玉田黙翁は名を信成、通称記内、別号適山、また虎渓庵とも称した。播州印南郡東志方村細工所の生まれで大庄屋柔庵玉田義道の嫡子である。山崎闇斉門の三宅尚斉の門人で程朱の儒学に於いて一家をなしていたうえに医学にも造詣が深く、弓馬槍剣の術にも秀で、産業経済についても見識を持っていた。しかし名声を求めることはせず、自ら天地一閑人と称し播州の僻地に住み天命を楽しみながら質素な生活を送っていた。ところが領主である大久保侯が、黙翁の晩年にこれを聞き是非所説を拝聴したいと招請したが固く辞退していた。度重なる熱心な懇請に折れて74才の時に二回、78才の時一度江戸へ出て大久保侯に講義をした。運良く玉田黙翁が江戸逗留中に兵右衛門が江戸在勤となったので、勤務の合間を見つけては黙翁の旅宿を訪問し、三か月間だけではあったが師の教えを乞うことができた。
玉田黙翁は生活態度を反映するが如くその学問においても厳粛でかつ敬虔であった。君を敬し、己を修め、民を安んずることが治世の基本であることをさまざまな例を引きながら繰り返し力説した。兵右衛門は大久保侯が黙翁を招請するに当たってとった礼の厚さについて感激し、大久保侯が黙翁を迎えた態度は蜀の劉備が諸葛孔明を草盧に三顧して迎えたり、楚王が賢者を迎えるに当たっては醴酒を醸して与えたり、燕王が賢者を招いた時には黄金台を築いて迎えたという故事に悖とらない、とその著「賓師の礼」の中で述べている。そして孟子が仁義を説いて君主の心の非を糺したように黙翁はそれをなされたが、大久保侯はこれを謹んで受け入れようとしたとその修学態度に感心し、これこそ君子と賢者との理想的な姿であると感じとっていた。
次に黙翁からは医学の知識を伝授された。この面でも師弟関係が発生し多大な感化をうけた。後年、玉堂は司馬江漢に黙翁が調剤した仙薬を送ったりしている。また、親友の鴨方藩の儒学者西山拙斉に手製の十一味地黄という薬を送っているし、玉堂の遺品として残されたものの中に薬草採取袋や計量器や薬草の断片が現存しているのである。
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