2005年06月27日(月) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂14 |
黙翁の次に兵右衛門が江戸在勤中、彼に多大の感化を与えた人に多岐藍渓がある。 一日、黙翁の使いで、下谷で塾を開いていた漢学者井上金我のもとを訪れた。金我は経書を講じて日毎に賃銭をとる売講の元祖として有名であるが、神田に創立された私立の医学館躋寿館の学頭をつとめたこともあり、門下生も沢山いた。この時の世間話で話題がたまたま琴のことになり、兵右衛門が琴に興味を持っていることを知り、躋寿館時代の同僚多岐藍渓を紹介したのである。
「浦上氏は備前岡山のお生まれでしたな。拙者も岡山藩の儒官井上蘭台先生に古文辞学を学びましてな、岡山とは縁があります。備前藩といえば陽明学でしたな。貴殿は陽明学についても相当造詣が深かろう。その精髄を聞かせては戴けないであろうか」 と金我が言った。 「いやいや、さほどのことはありませぬ。藩祖光政公が熊沢蕃山先生を重用された頃は確かに陽明学では天下に冠たるものがありましたが、万治元年に中川権左衛門先生が病没されて以来、藩校の教授陣は朱子学者に代わり正規の藩学は朱子学に代わりました。今では陽明学は熊沢蕃山先生の徳を慕う家臣の間で細々と行われているにすぎませぬ。それがしは致良知を説き知行合一を目指す実践的な陽明学に今でも魅力を感じておりますが、難しい理屈は抜きにして孔子、孟子の時代に立ち返って人の道、君子の道、聖人の道を素朴に考えていくことのほうが大切なのではないかと考え始めてております」
「それでは古に帰れということですか」 「まだ模索の段階ですからなんともいえませんが孟子、老子、荘子に興味を感じはじめているところなのです」 「そうですか、それは心強い。実は、拙者も儒学は古義学から入りましたので、朱子学が本然の性=理として、仁、義、礼、智が人間に内在するとする考え方に疑問を持っており、これら四つの徳目は心の外にある客観的な規範だと思うのです。そのために古の原点に立ち返って考究する必要があると考えております。まだ研究の段階ですが老子が天地には自然に一定の秩序があり、日月も星辰も鳥獣も樹木もそれぞれに自然の秩序を保っていると説いているのに興味を持っているのです」 「なるほど、仁義を捨ててその自然の秩序に身を委ねるのが無為自然ということですね」 「左様、人それぞれの個性を認めて自然にさせ無理矢理型にはめ込まないということですから資質の高い人には理想的な考え方だと思いますよ」 「大変勉強になりました。それがしの夢ですがそのような世界で琴を弾き、詩を作り、絵等を描いて晴耕雨読の生活ができれば素晴らしいでしょうね」「ところで貴殿は詩はお作りになりますかな」 「田舎流ではありますが少々嗜みます」 「それでは拙者の弟子の原狂斉というのを紹介しましょう。いま諸家の詩を集めて詩集を出版しようという計画がありましてな、原が中心になってやっています。作品があれば持っていかれたらどうでしょうかな」 「ありがとうございます。拙くて人様にお見せできるようなものではありませぬ」 「絵のほうは」 「特に師はなく我流ではありますが少々」 「それではそれがしの友人に文人画家で中山高陽というのがおりますから紹介致しましょう」 「それはかたじけない」 「琴はどの程度おやりになりますかな」 「恥ずかしながら岡山は田舎でございましてな良き師がおりませぬ故、多大の関心はもっておりますが全然心得がありませぬ」 「ほうそれでは、これまた良い人を紹介致しましょう。多岐藍渓という医家がいましてな。それがしが躋寿館で教えていた頃同僚として切磋琢磨した仲でござるが、琴について造詣が深く江戸の文人の間で最近盛んになっている七弦琴を巧みに弾きますのじゃ」 と言って世話好きな金我は早速、原狂斉、中山高陽、多岐藍渓宛の紹介状を次々と達筆で認めた。
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