2005年06月28日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂15 |
多岐藍渓(1732〜1801)は幕府の医官で氏は丹波、通称安元、号は藍渓、字伸明で医学生を養成する私学の躋寿館を主宰した。和漢の伝統医学の研究と教育に努め、医学界における多岐氏の地位を不動のものにした。琴をよくし藍渓の師は小野川東川、東川の師は幕臣の杉浦琴川である。そして琴川は水戸光圀の招きによって明から渡来した曹洞宗の僧心越に本格的な琴を学んでいるので江戸時代に普及した琴道の正統派であった。従って江戸在府中の短期間であったが兵右衛門は正統派の弾琴の手ほどきを多岐藍渓から受ける幸運に恵まれたのである。多岐藍渓から琴の手ほどきを受けた兵右衛門は生来の資質の良さもあってめきめき腕をあげ、次回出府した折りには日向延岡藩主の内藤政陽公に招かれて教授するまでになっていたのである。 また高知出身の南画家中山高陽との交遊もこの頃始まっている。このように良い師、良い友に出会ったことは兵右衛門の幸せであった。儒学、医学、琴、南画、と多方面にわたって貪欲に吸収していく兵右衛門の向学心の旺盛さは類稀なものであったが、それにも増してこれらの技芸を短時日に吸収消化していった天賦の資質の高さに驚かされる。後年花開く琴と絵画の基礎作りは今回の江戸出府が大きな契機になったのである。
この頃、玉堂が浅草鳥越の鴨方藩江戸藩邸で文人墨客と交流した状況を彷彿とさせる次のような中山高陽の詩がある。
「浦君輔の邸舎に岳子陽 松有年 山文熙 石太乙の諸子邂逅し、余に画を求む。各々詩有り、賦して答う」と前おきしてある。 朱門邸舎緑雲端 野老誰期此共看 独笑顛狂生故態 還欣邂逅有新歓 揮毫何更問山影 剪灯猶能坐夜闌 諸彦騒懐湧如酒 冷瓏満几碧琅扞
朱門の邸舎 緑雲端(うんたん)、野老誰か期す 此に共に看る。 独笑顛狂(どくしょうてんきょう) 故態を生じ、還(また)邂逅を欣び新歓有り 揮毫して何ぞ更に山影を問わん、灯を剪(き)り猶(なお)能く夜闌に坐すが如し諸彦騒懐(しょげんそうかい)湧くこと酒の如し、冷瓏几に満つ碧琅扞
朱色に門柱が塗られた邸舎は緑に囲まれ、人里離れて雲さえ往き来している。田舎の老爺のような雰囲気を漂わせている玉堂を囲み、こんなに多くの仲間が集まろうとは誰も予想できなかった。久しぶりにただ笑いころげ狂態をさらけ出している。過去を懐かしみ将来を楽しみに共に遊ぶのだ。今更筆を揮って山水画をかくこともあるまいに。灯を消して暗闇で共に語りあおう。皆でわいわいがやがややっていれば仮に酒がなくても酒を飲んで騒いでいるようなものだ。そういう中にこそ玉のように美しい物がある筈だから。
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