前潟都窪の日記

2005年07月01日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂17

 九.玉堂清韻との出会い


 宝暦七年(1778)兵右衛門34才のとき江戸で時疫を患い病床に伏した。病臥にあることを知った玉田黙翁が老体をひきさげて、江戸藩邸へ逗留して親しく兵右衛門の脈をとって処方調剤をした。兵右衛門が従喜の涙を流したことはいうまでもない。
 宝暦八年(1779)35五才のとき兵右衛門は江戸出張を命ぜられ上府の途中、大阪の木村蒹霞堂を一月と二月に二回訪問した。訪問の目的はその膨大な収集品である万巻の典籍、書画、博物標本、古器古銭を閲覧させて貰うとともにここへ集う文人画家達と厚誼を結ぶためであつた。木村蒹霞堂は代々造り酒屋であったが若い頃より本草学を学び花鳥画や山水画も修め、財に任せて集めたコレクションは希望する閲覧者には快く公開していたので文人、画家、書家の出入りが多く、当時の大阪における芸術サロンとなっていた。        
 この年江戸出府中、兵右衛門は明の大学博士顧元昭が造った七弦琴を手にいれた。この琴には朱文で「玉堂清韻」と琴銘が記されていたので、名品を手にいれた記念に以後兵右衛門は自らを玉堂琴士と号することにした。この年五月に留守中岡山で長男紀一郎が誕生しているが号を春琴と名乗らせている。

 玉堂が琴について初めて記述した「玉堂琴記」をこの年8月18日脱稿しているがその中で名器「玉堂清韻」入手の経緯を認めている。      
 これによると                           
「この琴は、長崎の通詞劉益賢の言うところによれば、明の大学博士顧元昭が造ったものであり、清の李子福という人物が持っていた。彼は、寛文年中にこの琴を携えて長崎に渡り、彭城某に贈呈した。彭城某はこれを劉益賢に贈り、劉益賢は長崎鎮台の某に献じた。それ以来百有余年、何人に渡ったか不明であった。その後、玉堂が江戸で日向延岡藩主の内藤政陽公に弾琴法を教授しているとき内藤公が中国製の琴を手にいれたいと思っているが心当たりはないかと尋ねられた。玉堂はかつて散楽人北条某の家に小倉侯から賜った古い琴があると聞いたことがあったのでそれが中国製であると思うと答えた。すると内藤政陽公は北条なら懇意にしているので借りてみようということになり、玉堂も一緒に見ることができた。その後玉堂は岡山へ帰り、内藤政陽公も他界されたのでそのまま幾年もの歳月が流れた。再度玉堂が江戸詰めとなったとき、溝口子 が人にこの琴を持たせて寄越し、これは北条某の持ち物であるが、かつて玉堂が琴を好むと聞いたことがあるので、玉堂に贈りたいと言った。その理由は玉堂の手元にあれば自分の所にあると同じことで、末永く世に伝えて貰えると思うからであるということであった。こういう経過をたどって玉堂の持ち物となった。子孫は永くこれを宝として欲しい」とその由来が記されている。
 この頃の玉堂は35才であり、政務にも油が乗り人柄にも円熟味が加わって職務以外の趣味に関する領域にも幅広く関心を広げていった。そして名器玉堂清韻を得てからは弾琴の世界へのめりこんでいく自分を制御できなくなると共に仁政実現一筋の気持ちをますます固めていくのであった。   
 この琴を入手して間もない時期に作った次の詩の中でこの琴にかかわる感慨を述べている。

  俸余蓄得許多金
  不買青山却買琴
  朝坐花前宵月下
  磴然弾散是非心

   俸余蓄え得たり許多(あまた)の金
   青山を買わずして却って琴を買う
   朝には花前に坐して宵には月下に
   磴然として弾じ散ず是非の心

 自分は宮仕えする身だが、戴いた俸祿を大切にしていると随分多くの蓄えができた。悠々自適するための美しい山を買って墓地も用意するのが普通だろうが、代わりに琴を買った。朝には花の前に座り、夕べには月光の下にすわって琴を奏でるのだ。心を虚しくし忘我の境に浸って弾くとその音色が五体にしみ入り是非に悩む心等は吹き飛んでしまうのだ。
                                  
 ここで是非の心という意味は一般的には善悪の心ということであるが、この頃の玉堂の心境を推し量って解釈すれば仁政が行われるべき理想社会の姿が善であり、人間の欲望が渦巻き汚れた現象ばかり目立つ現実社会の姿が悪なのである。そして善に赴こうとするが悪に妨げられて煩悶している心を是非の心と言っているのである。
 琴こそ理想実現への志を高揚させてくれる友達だと観じてますます琴を慈しむ気持ちに拍車がかかるのである。

 また絵画の面でも当時江戸で高名な中山高陽等との交遊を通じて文人画に関心を示しその気韻、風雅を楽しむようになっていた。中国製の文人画などの出物があれば買い集めるようになったのもこの頃からであり、数多くの絵を見ているうちに「目利き」の目も次第に養われていった。そして、安永九年安房へ漂着した清の画家方西園が幕府の命で長崎へ回送される途中描いた「富嶽図」を習作のつもりでこの頃模写している。

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