2005年07月02日(土) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂18 |
十.昇進
天明元年(1781)37才のとき、1月11日御前で新知行90石を下され大目付役を仰せつかって同月15日には御折り紙を頂戴した。藩政監察を主要任務とする重職に就任したのである。大目付の職掌は江戸幕府の例でみると礼式、訴訟、諸士分限、服忌、日記、鉄砲改め、宗門改め、道中奉行であったから鴨方藩においても類似のものであったと思われる。
この時の藩主は池田政直で夭折した政香の弟であったが、兄政香のような理想に燃えて仁政を実現していこうという覇気が感ぜられず、時勢隋順型の凡庸な人柄であった。藩主が凡庸であれば次第に士風が頽廃していくのは世の常であるが、玉堂が大目付に就任した頃には規律が相当弛緩していた。
翻って本藩である備前岡山藩の士風の変遷を振り返ってみると、始祖池田光政が治世に当たっていた頃の政治理念はすぐれて文治主義的な仁政理念に貫かれたものであったが、その一方では強権を発動して厳しく統制を加えていくという武断的な要素も多分にみられたので、江戸表でも「備前風」と評判になるほどの質実剛健な規律ある士風が保たれていた。しかし光政が隠居して綱政に家督を譲った頃から士風弛緩の萌芽がみられた。家督を譲った嫡男綱政の性格には父光政と対照的なところがあり、不作法、気隋、向女色の性向に加えて文学(特に和歌)、芸能(特に能楽)を愛好し仏道の信奉と幕政随順の態度が顕著であった。 勿論武技も修めたがどちらかといえば文人的要素が強い藩主であった。このため「公私の典故」は綱政時代に大いに完備されたが無責任な気風が芽生え時代を経るにつれ綱紀は次第に弛緩していった。六代斉政の頃には役務に関して「音物(いんもつ)」「振舞」の横行が目にあまるようになった。贈賄した町人とともに、収賄した不徳義の役人を厳罰に処するという法令をわざわざ重ねて、出さなければならない程の綱紀の乱れが生じていた。貨幣経済発達による町人勢力の増大という趨勢に加えて、幕府で田沼意次が側用人として起用され賄賂政治を行った悪風が備前藩にも次第に浸透してきていたのである。本藩の士風が弛緩してくれば統治機構が共通であった支藩の鴨方藩にもその悪弊が及んでくるのは当然のことであった。
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