2005年07月05日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂21 |
十一.左遷 天明二年(1782)38才の時江戸で選集された「大東詩集」に玉堂の詩、従軍行が一編だけ採録された。井上金峨の高弟である原狂斉がこの詩集には序を寄せていから、金峨の故縁を頼りに自作の詩を世に問うてみようと原狂斉らの編集者に採録を願って奔走した成果といえる。
従軍行 漢王推轂去 飛将向楼蘭 不厭辺城苦 祇思社稷安 陰風金鼓動 朔雪鉄衣寒 欲払胡塵色 征人撫剱看
漢王轂(こしき)を推して去り、飛びて将(まさ)に楼蘭に向わんとす。 辺城の苦しみを厭わず、祇(ただ)社稷(しゃしょく)の安きを思う。陰風に金鼓動き、朔雪に鉄衣寒し。
天明三年の天候は全国的な異常気象で土用に冬着を必要とするほどの冷夏であり全国的な大凶作となった。特に関東地方では、六月に発生した利根川をはじめとする諸河川の大洪水、七月に噴火した浅間山の「浅間焼け」による流出溶岩流、降灰等の天災も重なって未曾有の大凶作となった。冷夏の被害は東北地方へ行くほど甚大であった。天候不順は翌年以降も続いたため天明三年から八年にかけて全国的に大飢饉が発生した。
天明大飢饉の様子を三河岡崎生まれで流浪の著述家、菅江真澄の紀行文「楚堵賀浜風」から覗いてみると次のように凄惨な地獄図であった。
<天明五年(1785)八月三日、出羽の境、木蓮寺の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鰺ケ沢の湊をへて十日に床前という村に足を踏み入れた。陰暦の八月といえば、もう初秋で空気もうすらつめたい。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨が沢山散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。驚いた真澄が思わず「ああ」と嘆声を発すると、うしろからきた百姓が「これはみな餓死者の骨なのです」という。
「一昨年卯歳の冬から昨春にかけて雪中で倒れ死んだ人達で、そのときはまだ息のあるのも大勢おりました。積み重なって道をふさいでいるので、通行人もそれを踏み越え踏み越え歩くのですが、夜道や夕暮れなどにはうっかり死体の骨を踏み折ったり、腐った腹などに足を突っ込んだりしたものです。その悪臭がどんなにひどいものかおわかりにはなりますまい。わたしどもは飢えから逃れるために、生きている馬を捕らえ、首に縄をかけて梁に吊るし脇差・小刀をその腹に突き刺して、血の滴る肉を草の根と一緒に煮て食べました。そればかりではありません。野原を駆ける鶏や犬を捕まえて食べ、それが尽きると自分の生んだ子や兄弟、或いは疫病に罹って死にかかっている者を脇差しで刺し殺してその肉を食べたり、胸のあたりを食い破って飢えを凌ぎました。人肉を食べた者は眼が狼のように異様に光ります。いまもそうした人間が村に沢山おります。今年もこのあいだの潮風で作柄がよくないので、またまた飢饉になりそうです」こう言い残すと、その百姓は泣きながら別の道を去っていった」(中央公論社刊の日本の歴史第十八巻、北島正元著天明の大飢饉より引用)>
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