2005年07月06日(水) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂22 |
備前備中でも東北地方の如く飢餓民が人肉を食むというほどのものではなかったが前年に続き飢饉が発生した。
玉堂は承応三年の大飢饉の時に光政がとった大救済事業に倣って、藩米の放出と有力町人からの借銀による窮民の救済を献策したが、今回の飢饉が全国的な規模のものであったせいもあって、地主や商人の買い占め売り惜しみとあいまって米価が暴騰し他藩から米を買いつけることは非常に難儀を極めた。本藩の岡山藩がこの大飢饉に際して取りえた領民の救済対策は天明四年に米一万俵と銀四百貫を飢餓者に支給するという程度のことしかできなかった。
しかも幕府からは洪水で荒廃した関東の諸河川の川浚の賦役を課されたため藩財政は困窮の度合いを増していく一方であった。
このような状況に対処して積極果敢な対策を実施していける英邁な藩主を本藩である岡山藩も支藩の鴨方藩も戴いていなかった。当時の岡山藩主は池田治政であり、鴨方藩主は池田政直であったが両者とも幕政随順型の凡庸な藩主であり幕府の田沼意次が行った賄賂政治の醸成した綱紀弛緩の風潮に危機感を持つ精神すら欠如していた。 「今回の飢饉は承応三年の飢饉を上回る規模の未曾有のものですから本藩と支藩合わせて一万石の救援米と四百貫の銀だけでは焼け石に水です。もっと有効な手を打たなければ餓死者が増える一方です」 と玉堂は深刻な語調で藩主政直へ進言した。
「藩の米蔵は底をついたし、米価が高騰してしまい米商人から買い入れようにも金がないではないか。ましてや我が鴨方支藩の財政は本藩の岡山藩からの交付金で賄われているので、自らの才覚で臨時の予算を組むことはできない仕掛けになっておる。ない袖は振れぬのがものの道理じゃ。ここは成り行きに任すしか致し方あるまい。それともそちに何か良い思案でもあるか。あるなら申してみよ」 と政直が応じた。鴨方藩の財政は藩成立当初から独立採算を基調とするものではなく、本藩に依存する傾向が強かった。即ち鴨方藩の領知高に本藩の平均税率を掛けたものが与えられ、この範囲で財政を賄う仕組みになっていた。赤字のときは本藩からの補助を仰がねばならなかったのである。
「金がなければ商人から借りてでも飢餓民対策をするのが仁政というものでしょう」 「金利が高騰しているし商人が貸したがらなくなっている」 「それがしの調べたところでは、本藩では藩財政の窮乏を救うために購入した備蓄米を転売して米商人に売り付けて利ざやを稼いでは、それを藩費に充当しているではありませんか。これは君子のとるべき施策ではなくて、悪政というものではないでしょうか。先ずこれを正して止めて戴くことです。次に税を軽くして領民達に当面の飢餓の危機を切り抜けさせることです」
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