2005年07月23日(土) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂39 |
十五.放浪そして画仙となる
江戸へは三月三日頃到着して、長男春琴と再会したが訃報が待っていた。岡山藩士成田鉄之進に嫁いでいた長女之が前年六月に二十一才の若さで死去していたのである。 秋琴が会津藩中屋敷へ出仕したのを見届けると、直ちに大竹政文を伴って京都へ向かった。 自由の身になった玉堂は、京都に居を定めて、絵画製作に力を入れはじめた。 寛政八年京都で開催された皆川淇園主催の書画合同展観には春琴とともに出品した。七月の中頃から八月のはじめにかけては大阪の木村蒹霞堂を七回訪問し、ここへ集う文人達と旧交を温めた。そのときたまたま上洛していた谷文晁と出会っている。 寛政九年には京都で催された東山新書画会にも出品している。
この頃「自識玉堂壁」を書いた。「自識玉堂壁」の一部は既に引用したが重複を厭わず再掲すると <玉堂琴士 幼ニシテ孤ナリ 九才ニシテ始メテ小学ヲ読ミ 長スルニ及ビテ琴ヲ学ブ 他ニ才能ナシ 迂癖ニシテ愚鈍 凡ソ世ノ所謂博奕巴奕ノ芸ハ漕然トシテ知識ナシ 小室ニ日坐シテ手ニ一巻 倦ムレバ則チ琴ヲ弾キテ以テ閑吟ス 読書ヲ好ムモ古訓ヲ解セズ 以テ目ヲ塞グノミ 而シテ学ヲナス者ヲ恥ズ 好ミテ琴ヲ弾クモ 音律ヲ解セズ 以テ自ラ娯シムノミ 而シテ琴ヲナス家ヲ恥ズ 属文スルモ伝ウルニ足ラズ 意達スルノミ 而シテ文人タルヲ恥ズ 字ヲ作スモ 八法ヲ知ラズ 意ニ適ウノミ 而シテ書家タルヲ恥ズ 画ヲ写スモ 六法ヲ知ラズ 筆ヲ慢ルノミ 而シテ画人タルヲ恥ズ>
このように述べて玉堂は琴、詩文書画の領域で、自分は素人であると主張しているが、その真意は弾法、文法、書法、画法等の法則に拘束されない自由奔放さが重要であると宣言したと解釈できる。
玉堂鼓琴(後集第三詩) 玉堂鼓琴時 其傍若無人 其傍何無人 荅然遺我身 我身化琴去 律呂入心神 上皇不可起 誰会此天真
玉堂 琴を鼓するとき その傍らに人無きが若し その傍らに何ぞ人無き 荅然として我身を遺(わする)ればなり 我身は琴に化し去り 律呂(りつりょ) 心神に入る 上皇 起たしむべからず 誰かこの天真を会せん
自分が琴を弾くとき、傍らにまるで人がいないかのように弾く。何故ならば心身ともに脱落して我が身を忘れ、我が身は琴と一体となって琴の音が心神にしみ入ってくるからである。もはや太古の天子をいまの世に生かすことはできないのだから、誰が一体私のこの天から与えられた性を理解してくれようか。
把酒弾琴(後集第五詩) 琴間把酒酒猶馨 酒裏弾琴琴自清 一酒一琴相与好 此時忘却世中情
琴間に酒を把るに酒なお馨わし 酒裏に琴を弾ずれば琴自ずから清し 一酒一琴あいともに好し この時世中の情を忘却す
琴を弾く手を休めて杯をとると酒の香りが静かな部屋に満ちる。杯を置いてはまた琴を弾くと清澄な音色が五体をかけめぐる。酒を飲み琴を奏でる。こういう時が一番よい。この世の中の俗な気持ちをすべて忘れさってしまうことができるからだ これらの詩にみられるように京都へ暫く滞在して絵を描く傍ら琴を弾いては自然の中に同化し沈潜していく態勢を整えていくのである。 文化三年(1806)九州へ旅したのをかわきりに放浪の旅がはじまる。熊本では細川家の儒者辛島塩井、高本紫溟に会い、帰路広島では頼春水、管茶山を訪ねた。
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